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コメント欄にはすべてにレスを差し上げずに失礼していますが、勿論毎回目を通し感謝しています。
本文よりコメント欄の方が充実しているとの噂もあるくらいですから。
以下はコメント欄の紹介です。 これに対する当日記のコメントは蛇足になりますので省略しますが、手抜きではありません、念のため。(読みやすいように段落のみ入れました)
◆石原昌光さん
狼魔人様、こんにちは
5/9日の日曜ロードショーで、300人(スリーハンドレット)を放送していましたが、実に考えさせられました。
あれは、西洋の戦史では特に有名なテルモピレイの戦いを描いたものです。
紀元前480年、スパルタの王レオニダスは、強国ペルシア帝国との開戦を渋るギリシア都市国家連合の中で只一人開戦を主張し、直属の300人の配下のみを連れて、峡谷テルモピレイに陣取り、100万のペルシア軍を2週間に渡って食い止め、最後は全員が玉砕しました。
峡谷という地の利を生かしたとは言え、たった300人のスパルタ兵が、当時世界最強のペルシア軍100万を食い止めたのは奇跡です。
レオニダスは、どうして命を捨ててまでペルシア軍に抵抗したのか?
それは、「自国の運命を決めるのは自分達だけである。」という民族自決の誇りを彼が命より上位の価値であると思っていたからにほかなりません。
象徴的なシーンがあります。レオニダスの下で道案内をしていた男がペルシア軍に捕まり、大王クセルクスの前に引き出された時の事です。
クセルクスは、男に対し、「私に跪け、さすれば、富も名誉も女も、何でも望むものを与えよう。」と言います。
男は、欲望に負け、クセルクスに跪き、テルモピレイの峡谷を迂回できる秘密の通路をクセルクスに話してしまうのです。
確かに合理的に考えれば、男の判断は間違いではありません。スパルタ兵300人は、いつかは力尽き死ぬ。負け戦に殉じて何になるのか?
どの道、ペルシアには勝てないのなら、いっそ降伏して、生き延びたほうがよい、生きてさえいれば、いつか出世するチャンスもある。
男は、ペルシア軍を先導し、スパルタ兵300人とレオニダスは、峡谷の入口と出口でペルシア軍に挟まれます。
そこで男は、レオニダスを説得します。
「クセルクス大王に跪け、大王は寛大だ、あんたの罪を許すと言っている、富も栄誉も思いのままだぞ。」
それに対し、レオニダスは答えます。
「お前は永遠に生きるがよい、、、」この瞬間男は、レオニダスと目を合わす事ができなくなります。
男は、悟ったのです。自分は、富と栄誉と女を引き換えに、誇りを売り払ったのだと、魂を譲り渡し、クセルクスの永遠の奴隷になったのだと、、、
レオニダスと300人のスパルタ兵が玉砕した後、ギリシャ都市国家連合は、ようやくペルシア帝国に対し宣戦を布告、サラミスの海戦においてペルシア帝国を撃破し、クセルクス大王はギリシア攻略を断念します。
結果として、レオニダスと300人のスパルタ兵の命を賭けた行動がギリシアの独立を守った訳です。
このサラミスの海戦を目撃したギリシア人にヘロドトスという青年がいました。
彼は、ギリシアが独立を守った、このペルシア戦争を後世に残すべく筆を執ります。
そして、神話の時代からサラミスの海戦までのギリシアの歩みをズバリ「歴史」という一冊の本に纏めます。
これこそが、現存する人類最古の歴史書です。
歴史は、自己の命をかえりみず、誇りを守る為に戦い、玉砕した人間のために編まれた一大記念碑であるということです。
現在の日本に、「歴史」に記すべきなにか偉大な事柄があるでしょうか?
すべて、富と栄誉と女、の話で戦後日本は満ち満ちているような気がします。
現代のクセルクス大王、胡錦濤に「我に跪け、さすれば望むもの、全てを与えん」そう言われて、魂を売り渡し、支那の永遠の奴隷になった日本人が余りにも多すぎます。
◆太平山さん 狼魔人さま
こんばんは。石原さん、今日の琉球新報に掲載された山崎行太郎さんの論考を読みましたよ。石原さんのコメントとも関連するので少し感想を述べましょうね。 その前に山崎行太郎さんについて驚いたことを話します。私は氏のブログ写真から年齢は35〜45歳ではないかと推測していましたが1947年生と知ってびっくりしました。以前に小林よしのりさんをさんざん批判していましたから、「若造のくせに大先輩に向かって偉そうな口をきくなぁ〜」と腹を立てていました。実際は氏が六歳も先輩だったのですね、イヤこれは氏に対して大変失礼でした、お詫びします(笑)。
氏の投稿のタイトルは「命懸けで蜂起する時」ですね。随分とまた仰々しいタイトルをつけたもんだと読みました。で読み終わった後、私は呵々笑い、大笑いしました。何故か、最後に氏が三島由紀夫の檄文を引用しているからです。
>今こそ、沖縄県民は、命懸けで立ち上がるべきである。最後に、三島由紀夫の「檄文」の言葉を引用しておく、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか・・・」<
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか・・・」したたかに笑いました。山崎さんも人が悪いと。沖縄県民が金科玉条とする県訓?は「命(ヌチ)ど宝」ですよ。三島の言葉は県民が最も忌み嫌う言葉ではないですか。
「命懸けで立ち上がるべきである」→「命懸けで暴動を起こすべきである」→「死んでも構わない沖縄のためならば」→「かへりみはせじ」→「軍靴の音が聞こえる」になりやしませんか?でも山崎さんの「命懸けで立ち上がるべきである」には賛成しますよ、県民をおおいに啓蒙して頂きたいと願っています。しかし一人の死者も出さずに基地を返してもらうなんてムシが良すぎます。戦後65年間反米基地闘争で何名の県民が米軍に射殺されたのでしょうか。
皆無です。0人です。基地に突入し米兵の水平射撃を受け、最低10人以上闘死しなければ基地は動かない、私はそう思っています。それができたなら私は県民をそれこそ誇りに思います。
◆石原昌光さん
狼魔人様、こんにちは
太平山様、いつも気迫のこもったコメント有難う御座います。
私は現代軍事学に疎いので、太平山様のコメントには勉強させてもらっています。
さて、山崎虫太郎ですが、彼は、今でこそ、よしりんを批判していますが、2000年頃に発売されたよしりんの著作「個と公論」では、よしりんの戦争論を肯定的に評価している識者として文中に出ていますよ。
彼が本格的によしりんに敵意(一方的な、、)を持ち出したのは、大江健三郎の沖縄ノートをよしりんがゴー宣誌上で批判しだした時からだと思います。
虫太郎は、大江健三郎を尊敬しているようで、、でも同時に三島由紀夫も尊敬しているらしいんですよね。
GHQ洗脳世代の申し子と自主防衛を主張し続けた先鋭的愛国者を同時に尊敬できるとは、、、
私は文学に詳しい訳ではないので、偉そうな事は言えませんが、虫太郎氏の脳の構造はどうなっているのか知りたいものです。
三島由紀夫は、大東亜戦争を評して、「武器も戦術も全て西洋の猿真似で見るべき点は無い、只一点、西洋を震撼せしめたのは、零戦を一振りの日本刀に見立てて敵艦に体当たりした神風特攻である。」というような事を書いています。
これは正鵠を得ていると思います。生還を期さず、命もろとも敵にブチアタル、特攻作戦こそ、日本古来の武士道の極みであり、西洋人は、どんなに上手く作ろうが西洋の模倣の延長に過ぎない零戦や戦艦大和等より特攻精神を恐れたのだと。
また、テルモピレイの戦いに戻りますが、あの物語は、西洋人で戦史を学ぶものなら必ず知っている話だそうです。
死んでも退却せず、水漬く屍、草蒸す屍になった、300万日本兵の奮闘を見たとき、マッカーサーや連合軍の将帥は、レオニダス王と300人のスパルタ兵を戦慄とともに思い出したのだと私は確信します。
だから、連合国は無条件降伏をしたドイツやイタリア相手には決してしなかった、国体の改造を日本に対してだけやった。
日本が怖かったからです。レオニダスとスパルタの兵士が、自分達に刃を向けているようで恐ろしかった。
戦後GHQが剣道を一時禁止した理由も、あの掛け声を米兵が極端に恐れた為らしいですし。
ですから、太平山様が指摘するように、沖縄県民が、「命どぅ宝」思想を捨てて、民族自決の大義の為に米兵に立ち向かって弾丸に倒れたら確かに、沖縄の米軍基地は残らず消えるでしょう。その時は私も反米闘争に加わりますよ。
ただ、自主防衛すら否定し、死ぬのが怖いという動物的本能すら克服できない連中に、そんな崇高な死は実現できませんが、、、 ◆ 【追記】 話題の人物とは、この方⇒本日の「琉球新報」に拙稿『普天間問題・再考』が掲載されます。
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あれは、西洋の戦史では特に有名なテルモピレイの戦いを描いたものです。
紀元前480年、スパルタの王レオニダスは、強国ペルシア帝国との開戦を渋るギリシア都市国家連合の中で只一人開戦を主張し、直属の300人の配下のみを連れて、峡谷テルモピレイに陣取り、100万のペルシア軍を2週間に渡って食い止め、最後は全員が玉砕しました。
峡谷という地の利を生かしたとは言え、たった300人のスパルタ兵が、当時世界最強のペルシア軍100万を食い止めたのは奇跡です。
レオニダスは、どうして命を捨ててまでペルシア軍に抵抗したのか?
それは、「自国の運命を決めるのは自分達だけである。」という民族自決の誇りを彼が命より上位の価値であると思っていたからにほかなりません。
象徴的なシーンがあります。レオニダスの下で道案内をしていた男がペルシア軍に捕まり、大王クセルクスの前に引き出された時の事です。
クセルクスは、男に対し、「私に跪け、さすれば、富も名誉も女も、何でも望むものを与えよう。」と言います。
男は、欲望に負け、クセルクスに跪き、テルモピレイの峡谷を迂回できる秘密の通路をクセルクスに話してしまうのです。
確かに合理的に考えれば、男の判断は間違いではありません。スパルタ兵300人は、いつかは力尽き死ぬ。負け戦に殉じて何になるのか?
どの道、ペルシアには勝てないのなら、いっそ降伏して、生き延びたほうがよい、生きてさえいれば、いつか出世するチャンスもある。
男は、ペルシア軍を先導し、スパルタ兵300人とレオニダスは、峡谷の入口と出口でペルシア軍に挟まれます。
そこで男は、レオニダスを説得します。
「クセルクス大王に跪け、大王は寛大だ、あんたの罪を許すと言っている、富も栄誉も思いのままだぞ。」
それに対し、レオニダスは答えます。
「お前は永遠に生きるがよい、、、」この瞬間男は、レオニダスと目を合わす事ができなくなります。
男は、悟ったのです。自分は、富と栄誉と女を引き換えに、誇りを売り払ったのだと、魂を譲り渡し、クセルクスの永遠の奴隷になったのだと、、、
レオニダスと300人のスパルタ兵が玉砕した後、ギリシャ都市国家連合は、ようやくペルシア帝国に対し宣戦を布告、サラミスの海戦においてペルシア帝国を撃破し、クセルクス大王はギリシア攻略を断念します。
結果として、レオニダスと300人のスパルタ兵の命を賭けた行動がギリシアの独立を守った訳です。
このサラミスの海戦を目撃したギリシア人にヘロドトスという青年がいました。
彼は、ギリシアが独立を守った、このペルシア戦争を後世に残すべく筆を執ります。
そして、神話の時代からサラミスの海戦までのギリシアの歩みをズバリ「歴史」という一冊の本に纏めます。
これこそが、現存する人類最古の歴史書です。
歴史は、自己の命をかえりみず、誇りを守る為に戦い、玉砕した人間のために編まれた一大記念碑であるということです。
現在の日本に、「歴史」に記すべきなにか偉大な事柄があるでしょうか?
すべて、富と栄誉と女、の話で戦後日本は満ち満ちているような気がします。
現代のクセルクス大王、胡錦濤に「我に跪け、さすれば望むもの、全てを与えん」そう言われて、魂を売り渡し、支那の永遠の奴隷になった日本人が余りにも多すぎます。
◆太平山さん 狼魔人さま
こんばんは。石原さん、今日の琉球新報に掲載された山崎行太郎さんの論考を読みましたよ。石原さんのコメントとも関連するので少し感想を述べましょうね。 その前に山崎行太郎さんについて驚いたことを話します。私は氏のブログ写真から年齢は35〜45歳ではないかと推測していましたが1947年生と知ってびっくりしました。以前に小林よしのりさんをさんざん批判していましたから、「若造のくせに大先輩に向かって偉そうな口をきくなぁ〜」と腹を立てていました。実際は氏が六歳も先輩だったのですね、イヤこれは氏に対して大変失礼でした、お詫びします(笑)。
氏の投稿のタイトルは「命懸けで蜂起する時」ですね。随分とまた仰々しいタイトルをつけたもんだと読みました。で読み終わった後、私は呵々笑い、大笑いしました。何故か、最後に氏が三島由紀夫の檄文を引用しているからです。
>今こそ、沖縄県民は、命懸けで立ち上がるべきである。最後に、三島由紀夫の「檄文」の言葉を引用しておく、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか・・・」<
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか・・・」したたかに笑いました。山崎さんも人が悪いと。沖縄県民が金科玉条とする県訓?は「命(ヌチ)ど宝」ですよ。三島の言葉は県民が最も忌み嫌う言葉ではないですか。
「命懸けで立ち上がるべきである」→「命懸けで暴動を起こすべきである」→「死んでも構わない沖縄のためならば」→「かへりみはせじ」→「軍靴の音が聞こえる」になりやしませんか?でも山崎さんの「命懸けで立ち上がるべきである」には賛成しますよ、県民をおおいに啓蒙して頂きたいと願っています。しかし一人の死者も出さずに基地を返してもらうなんてムシが良すぎます。戦後65年間反米基地闘争で何名の県民が米軍に射殺されたのでしょうか。
皆無です。0人です。基地に突入し米兵の水平射撃を受け、最低10人以上闘死しなければ基地は動かない、私はそう思っています。それができたなら私は県民をそれこそ誇りに思います。
◆石原昌光さん
狼魔人様、こんにちは
太平山様、いつも気迫のこもったコメント有難う御座います。
私は現代軍事学に疎いので、太平山様のコメントには勉強させてもらっています。
さて、山崎虫太郎ですが、彼は、今でこそ、よしりんを批判していますが、2000年頃に発売されたよしりんの著作「個と公論」では、よしりんの戦争論を肯定的に評価している識者として文中に出ていますよ。
彼が本格的によしりんに敵意(一方的な、、)を持ち出したのは、大江健三郎の沖縄ノートをよしりんがゴー宣誌上で批判しだした時からだと思います。
虫太郎は、大江健三郎を尊敬しているようで、、でも同時に三島由紀夫も尊敬しているらしいんですよね。
GHQ洗脳世代の申し子と自主防衛を主張し続けた先鋭的愛国者を同時に尊敬できるとは、、、
私は文学に詳しい訳ではないので、偉そうな事は言えませんが、虫太郎氏の脳の構造はどうなっているのか知りたいものです。
三島由紀夫は、大東亜戦争を評して、「武器も戦術も全て西洋の猿真似で見るべき点は無い、只一点、西洋を震撼せしめたのは、零戦を一振りの日本刀に見立てて敵艦に体当たりした神風特攻である。」というような事を書いています。
これは正鵠を得ていると思います。生還を期さず、命もろとも敵にブチアタル、特攻作戦こそ、日本古来の武士道の極みであり、西洋人は、どんなに上手く作ろうが西洋の模倣の延長に過ぎない零戦や戦艦大和等より特攻精神を恐れたのだと。
また、テルモピレイの戦いに戻りますが、あの物語は、西洋人で戦史を学ぶものなら必ず知っている話だそうです。
死んでも退却せず、水漬く屍、草蒸す屍になった、300万日本兵の奮闘を見たとき、マッカーサーや連合軍の将帥は、レオニダス王と300人のスパルタ兵を戦慄とともに思い出したのだと私は確信します。
だから、連合国は無条件降伏をしたドイツやイタリア相手には決してしなかった、国体の改造を日本に対してだけやった。
日本が怖かったからです。レオニダスとスパルタの兵士が、自分達に刃を向けているようで恐ろしかった。
戦後GHQが剣道を一時禁止した理由も、あの掛け声を米兵が極端に恐れた為らしいですし。
ですから、太平山様が指摘するように、沖縄県民が、「命どぅ宝」思想を捨てて、民族自決の大義の為に米兵に立ち向かって弾丸に倒れたら確かに、沖縄の米軍基地は残らず消えるでしょう。その時は私も反米闘争に加わりますよ。
ただ、自主防衛すら否定し、死ぬのが怖いという動物的本能すら克服できない連中に、そんな崇高な死は実現できませんが、、、 ◆ 【追記】 話題の人物とは、この方⇒本日の「琉球新報」に拙稿『普天間問題・再考』が掲載されます。
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