橋下徹氏率いるい大阪維新の会が大阪ダブル選挙で圧勝し、日本の政治構造を変えんばかりの勢いで。
対立候補を束になって応援した民主、自民等の既成政党は今後の対応に戦々恐々としている。
橋本氏の圧勝に戦々恐々としているのは、沖縄で一丸となって育鵬社版教科書に反対運動をしてきた沖教組を筆頭にした「極悪複合体」の面々である。
大阪では組合活動に現を抜かしてきた40代、50代の教員の能力にも疑問符が付いて維新の会の批判の対象になっていた。
沖縄では組合活動で忙しい教員を「現場を知る専門家」として教科書採択を沖教組の独裁で行ってきたことが、「玉津教育改革」のそもそもの発端である。
国が認定した教科書を「子どもたちを戦争に導く教科書」などと過剰反応する勢力が橋下氏が制定した「君が代起立斉唱条例」に賛成のはずがない。その理由は、いろいろあるが、日教組の残影、残滓という問題だ。今の若い世代の教員の多くが日教組に加入していないが、40代以上になると、加入率が比較的高い状況にある。そのため、思想的な部分で保護者と対立を起こしているケースもある。今や死語になった「ブルジョア」などの言葉を使い、一部の保護者と対立する教員は大阪府下では意外であるが存在している。
しかし、日教組などに加入している教員から言わせると、若い世代は加入せずに研修に参加しないから能力が身に付かないという批判をする傾向にあるが、そうではない。思想的に偏向していないだけまだマシというのが現状だ。しかし、若手の無気力さと無能力は不正採用だけではないことも確かで、そこには根深い問題がある。
昔、「デモシカ先生」という言葉があったが、今でも十分に通用する言葉である。というのも、今でも、教師のことを「大学からの返品」などという表現をすることがあるからだ。それは、大学を卒業しても社会では通用しないから、小学校や中学校、高校に返品されてきたということを意味している。実際に、そういう教員が多いことが問題でもある。
社会経験のない教員が集まる職員室という場は社会の一般常識とはかけ離れたところで物事が動いている。まるで、大学のサークルやゼミの運営の延長線上か、大学祭の延長線のようなやり取りが見られる。30歳、40歳、50歳になっても、大学生の学生気分のままで教師たちは日々を過ごしているのが現実だ。
それらを改革しなくては義務教育も高等教育も何も変わらない。そのために、社会人経験のある人を校長に抜擢するなどの改革案が出され、一部の公立高校で採用されたが、衆愚の恐ろしさを軽視したためにその多くが校長を辞めている。基本的に改革するのであれば、トップだけを入れ替えても意味がない。全体を入れ替えなくては。社会保険庁の改革でも同じメンバーではいくら改革といっても何もできないのと同様に、学校も同じだ。教員の総入れ替えが必要だ。教員免状など意味がない。小学校→中学校→高校→大学→小学校という教員には能力を期待するほうが間違いだ。社会の一般常識がない教員が社会人である保護者と対話ができるだろうか。教員に求められるのは、「社会の一般常識」を持つことだ。そして、自分たちの「教員の常識」が「社会の非常識」であるということをまずは知ることから始めなくてはならない。それとも、大幅に改革して、教員免許の制度を改正し、教職課程を廃止して、司法試験のような試験合格後の研修で採用を決める方式に変えてみることも検討してみるべきだろう。
問題点は多いが、橋下府知事には改革を進めていってもらいたい。将来の人材を育てる大事な部分だから。
君が代起立斉唱条例に反対する人の意見の多くは、橋下氏が教育まで全部仕切ろうとしている、思い通りにしようとしているという頓珍漢な誤解をしている。
条例も読んでいないのであろう。
今回の条例は、教育委員会が既に決めたルールを条例化しただけである。
教育は現場がマネジメントを行う。
しかし教育の大きな方針は政治が決める。
その大きな方針に基づいて教育現場は教育マネジメントを行う。
政治が大きな方針を決めるときには専門家と共に決める。
政治が少しでも関与すると、それは軍国主義に繋がる!というのは時代の変化を読み取っていない。
我々の国は北朝鮮ではない。報道の自由が保障され、選挙もきっちりと行われ、議会やその他の権力抑止機関もキッチリとある。
ゆえに政治が教育の専門機関と大きな方針を決めて議会で確定する。
こんな政治の当たり前の役割すら日本ではダメだと言われる。
ダメと言っているのは教育現場の人たち。
教育現場は自分たちの思うようにやりたい。
治外法権が良いのだ。
寺脇さんも、加戸元知事も文部官僚。
結局、民意に対しての責任を誰も負わない仕組みになっている。
失敗だと言われても言い訳ばかり。
「ゆとり教育」は寺脇さんが何と言おうと失敗。
保護者の僕がそう感じているんだから。
理念は賛同します。寺脇さんの思っていることが実現できればそりゃすばらしいでしょう。
しかし現実には無理。
寺脇さんの理想は、学力に問題のない、家庭環境も整っている生徒が集まっている学校でのみ可能。
ある意味行政官僚の 世情とずれた理想です。
やはり政治で正すべきだった。
政治の教育への不当介入は禁物です。
しかしそれは「不当」介入であって、介入が全て否定されるものではない。
不介入の行き過ぎは、行政、教育現場の暴走に繋がる。
保護者の求めるものと乖離する危険がある。
どこまで政治が関与すべきか。
ここを探ることもまさ政治の役割。教育員会制度への挑戦です。
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