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最終章、「オカッパの少年」の謎を追って

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沖縄では有名な写真「うつろな目の少女」が、琉球新報のスクープで70代の老人である大城盛俊氏であると報道されたとき、大きな衝撃と同時に一つの疑問が黒雲のように胸中にわき上がるのを禁じえなかった。 大城氏がウソを付いたのを、琉球新報が裏づけ調査もせずそのまま垂れ流したのではないかと言う疑念である。 その後、この衝撃的記事は沖縄タイムス、八重山毎日新聞とフォロー記事が出て、ついには朝日新聞の一面トップで報道されるまで拡散されていった。 さらに朝日の記事をフォローしたのが次に引用する韓国の中央日報日本語版の記事である。 本稿は琉球新報のスクープ記事に疑念を持って、大城氏の過去を追跡調査した過去エントリーに加筆した連載記事の最終回である。 連載中に八重山教科書問題のため一時中断したが、直前の記事はこれ。 ⇒4・オカッパの少年の謎を追って!

 

              ☆

危険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   
(中央日報 2008年6月26日)

 

                     ◆

 

■失明は「援護法」の適用除外?■

大城氏の証言を以下に紹介する。  

<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

ここらで「援護法」について概略を説明したい。

 ■「援護法」の概略■
「軍命の有無」が争われている集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言している。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。
 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。

日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

そのため実際には他の住民に追い出された場合でも、「日本兵に追い出された」と証言して援護法の対象になったと言う。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

大城氏の場合、日本兵に食事・宿舎の提供などで実際に協力しており、日本兵の暴行を受けたとき壕を連れ出され食料を強奪されている。その結果失明したのなら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからであり、厚生省はこれを却下している。

1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。

大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■
「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。 

第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者ににしては知った時期があまりにも遅すぎる。

戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 

大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 

大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 

重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

さらに不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。

このように仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■
次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。

「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。   

署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■
ここで、朝日新聞記事「75歳語り部 来年引退」を振り返ってみると、次のような記述がある。

<以来、講演は1230回を超えた。語り部は多くが沖縄在住で旅行客が相手だが、兵庫県在住の大城さんは主に本土で沖縄戦を語り続けてきた。>

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。

その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはずだ。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。

一方沖縄では本人が著した一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。

大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。

まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■
 冒頭に引用した2008年6月23日付「朝日新聞」夕刊の一面トップを飾った「残酷なのは戦争」という大見出し再度戻る。 

記事を見たときからこれが心にひっかかっていた。

 この見出しで係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎったのだ。
 
「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。
 
大城氏の受けた日本兵による暴行に話をもどすが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

  友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に虐殺されたという。大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏が日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。
 
ところが朝日記事には大城氏のまるで神か仏のように寛大なコメントが掲載されている。

「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」と。

この大城氏の言葉は果たして大城氏の本心なのだろうか。
 「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わり、焦点は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そして論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。
 大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ、さらには実母を虐殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■
果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。

それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。(完)

             ★

朝日報道では引退したはずの大城氏はその後も西宮界隈の教員たちを引率して慶良間戦跡ツアーのコーディネーターをしていることが判明している。

 ⇒座間味にいた「うつろな目の少女」

そしてやはり大城氏はウソをついており、それを承知していながら琉球新報が捏造記事を書いたことが判明した。

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

琉球新報がウソと知りつつ歪曲報道したと言う証拠は、次のエントリーで紹介する。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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