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本稿は以下のエントリーの続編です。 初めての方は順序通り呼んだ後のほうが分かりやすいですが、飛ばし読みしても大意はわかります。
3・オカッパの少年の謎を追って 沖縄タイムスがスルーした理由は?
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ドキュメンタリ作家上原正稔さんが米公文書館から発掘した沖縄戦の記録フィルムを都合のいいように切り貼りしてデタラメなナレーションをつけた記録映画があたかも「沖縄戦の真実」とでも言わんばかりの体裁で沖縄各地で放映されている。 記録フィルムの偏向した監修者たちを見れば如何にその記録映画がイデオロギーで歪曲・改竄されているかは一目瞭然である。
「オカッパの少年」の写真も上原さんが創設した一フィートフィルム運動の成果として発掘され、それが太田昌秀著「これが沖縄戦だ」の表紙に使用され、全県的に有名になり、それを偶然見た大城盛俊氏がそれは自分だと名乗り出た。
「オカッパの少女」が実は70代半ばの老人だったというセンセーショナルな報道は、琉球新報、沖縄タイムス、八重山日報で報道され、朝日新聞の一面トップを飾るほど有名になった。
筆者は琉球新報が2007年、初めてこれを報じた時から大城氏が「オカッパの少女」であることに疑念を持って、大城氏のそれまでの発言と大城氏について断片的に記された書籍を調べ上げたが、疑念はますます募るばかりであった。
本稿は、その時の疑念を綴った文を、秩父加筆したものである。
新たな疑惑が浮上■
大城氏の引退を報じる朝日新聞の二枚の写真で、更に新たな疑惑が湧いてきた。確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。
だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。
果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。
沖縄は出版の盛な県である。 特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。
例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほどである。そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられ、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。
前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。
しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。
そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。同書には大城少年に関して次のような記述がある。
<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>
「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。
■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■
<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」
大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。>(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。
写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。
細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。
ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。
怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。
もっと決定的な矛盾がある。
大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>とある。
これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。
<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>
米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底、見えない。
これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、さもなくば「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。
続く
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