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「白旗の少女」については過去に何度かエントリーし、現在でも一日に100件前後のアプローチがある。
昨日も200件を越えた。
古い過去エントリーで閲覧者が200件を越すのは当日記のような地味な政治ブログでは珍しいこと。
沖縄戦で戦火に翻弄される住民の姿は、米国側の記録写真で数多く紹介されているが、見るたびに心を痛めるものは無抵抗な子どもたちの姿である。
数多く出版されている沖縄戦記中でも、特に戦場の過酷さを表した2枚の「少女」の写真は沖縄人なら誰でも一度は目にするといわれるほど有名である。
「白旗の少女」と「うつろな目の少女」とそれぞれクレジットが付いた写真のことである。
「白旗の少女」が残虐かつ卑劣な日本兵を喧伝するため歪曲された絵本が出版され、主人公の比嘉富子さんが、偶然自分の後ろを歩いていた名も知れぬ兵隊さんの汚名を晴らすため名乗り出た話は有名だが、もう一枚の「うつろな目の少女」が実は「オカッパの少年」だったという事実を知る者は沖縄県民でさえほとんどいない。
当日記でも過去に数回エントリーしたが、一部の読者には反響があったが「白旗の少女」に比べて、アプローチも少ない。
「うつろな目の少女」の体験は、メディアが喧伝する「残虐非道の日本軍」という沖縄紙の見出しそのままを具現したようなものである。
日本兵に食料を強奪され、壕を追い出され、その際打つ蹴るの暴行を受け右目を失明し、歩行に障害の後遺症を持つ。
「少女」が日本軍に受けた惨い仕打ちはそれだけではない。
実母はスパイ容疑で日本兵に虐殺され、戦後は右目の失明と歩行障害により仕事にも困難を伴ったという。
「少女」の受けた災難はそれだけでは止まらず、戦後「援護法」の受給申請をしたがそれさえも非情にも却下された。
「うつろな目の少女」こそ、沖縄二紙が糾弾する「悪逆非道の日本兵」の被害者として、これほど絶好のネタはないはずなのに、これを報ずる沖縄紙は極めて少ない。
2007年、初めてこれをスクープした琉球新報と、数日遅れでフォロー記事を掲載した沖縄タイムスの二回しか筆者は知らない。(同年最後の講演会をするため大城氏が石垣市に行ったとき、八重山」毎日がこれを報じた。)
「少女」の体験が余りにも数奇なため、読者の理解を得るのが困難だと思うので、再度「少女」について検証し再度エントリーしてみたい。
昨年(2008年)の慰霊の日(6月23日)の朝日新聞夕刊のトップに「少女」についての大きき記事が掲載された。
朝日はウェブ記事には載せなかったが、大城氏の数奇な運命を中央日報がフォロー記事で掲載したので、読者の理解の一助として先ずそれを紹介する。
太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。
彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。
日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。
この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。
太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。
日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」
彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。 中央日報 2008年6月26日
「オカッパの少女」の謎を追って
「うつろな目の少女」は、本当に沖縄戦の語り部・大城氏か
毎年6月23日、沖縄では戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎える。その日は沖縄県限定の公休日であるため、国の出先機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日になる。その日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄県主催の沖縄全戦没者慰霊祭が行われる。
■「うつろな目の少女」の衝撃■
2008年のその日6月23日、朝日新聞夕刊は、沖縄戦の語り部として講演活動をしてきた大城盛俊氏(75)が講演会活動を来年で引退すると一面トップで報じた。その記事には「うつろな目の少女」として有名な「少女」の写真と、講演をする大城氏の現在の写真を並べて掲載してある。
63年前に米兵によって撮影された「少女」の写真の説明を、朝日記事は次のように説明している。
<大城さん沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>
さらに同記事は、大城氏が「23日に沖縄県石垣島では最後となる講演を行い、戦争の残酷さを訴えた」と報じているが、事情を知らない読者は、記事が報じるように過去に1230回を超える講演をこなしてきた大城さんなら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると想像するだろう。
だが、沖縄出身で長く沖縄に在住する筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、後にも先にも朝日が報じる2008年6月の一回しか知らない。しかも23年もの長期にわたる講演活動の最後の沖縄講演が、沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だという。
何ゆえ大城氏は、沖縄での最後の講演を自分の故郷がある沖縄本島で飾らなかったのか。筆者には、知人縁者の多く住むはずの故郷での講演を避けているように感じられた。
「平和教育」のメッカともいえる那覇や本島南部地域こそ大城氏のユニークな講演の最後を飾る場として相応しくはなかったのか。大城氏は一体何を避けているのか。
さらにもう一つの疑問は、少女が米兵の毒牙を避けるため髪を切って男の扮装をする話は、戦時中も終戦直後の沖縄では良く聞く話だが、逆に少年がオカッパ頭の少女に変装したという話は、筆者は始めて聞いた。 大城氏は何故しょうじょに
「うつろな目の少女」に筆者が異常な関心を持ち始めたのは、この素朴な疑問がすべての出発点であった。
琉球新報のインタビューに応じる大城盛俊氏
続く
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