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沖縄の地元2紙が中心になり、地元学者や行政まで巻き込んだ沖縄戦の歪曲が続いている。
激戦地だった沖縄南部の戦跡を巡拝する観光客や修学旅行生は、沖縄県平和祈念資料館や平和の礎に訪れ、戦没者の数が多いことに改めて驚き、そして涙する。
だがその数字に満州移民で病死した子供の数も含まれていると知るものは殆どいない。
移民の病死だけではない。
生きている人や、ハンセン氏病やマラリヤ等で病死した人も「戦争マラリヤ」などと命名され刻銘されているという。
「全体主義の島沖縄」ではこれに異議を唱える良心的言論人は、言論封殺や村八分の仕打ちを受ける。
『うらそえ文藝』で沖縄2紙を断罪した上原正稔さんや星雅彦さんが、現在沖縄のメディアや出版業界から完全な村八分を受けているのは紛れもない沖縄の現実である。
読者のヒロシさんと涼太さんの関連コメントを紹介しよう。
■ヒロシさん
< >「平和宣言は事実を基に発表すべきだ」
だったら平和の礎に刻まれた戦没者とはいえない人物の名を削除すべきでは?
満州事変まで遡るのであれば、「区別のために」別の場所へ刻名すべきと思われる。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-23_7486/
満州で病気で亡くなったんですから戦争と関係ない方ですよね。>
■涼太さん
<私も慰霊の日のNHKの報道には常に疑問を感じていました。
沖縄の反日団体は
「集団自決は軍の命令」、「根こそぎ動員」、「軍官民共生共死」など数々の神話を作ってきました。
それらが全て論破され新しい神話を作ろうとしているのでしょう。
通常の定義では沖縄戦は1945年3月から6月です。
沖縄戦という言葉を使う以上その犠牲者も
沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
C:戦闘参加者(援護法で日本軍に協力して死んだと認定された人数[21]) 5万5246人
D:一般住民(推定、県の避難勧告を拒否したものが多数[22])3万8754人
(ウキペディアより引用)
が正確な数字だと思います。
別に特別沖縄が悲惨な目に遭ったとも思いません。東京空襲などは一晩に10万人が犠牲になっています。
住民の犠牲が24万人などと言うのは
南京虐殺の犠牲者が30万人とか言うのと同じレベルです。そして中国は常に外交カードに使い、日本から金を引き出しました。
同じ手法ですね。
もう沖縄は悲劇のヒロインの座をとっくに降りています。気が付かないのは沖縄だけで、悲劇のヒロインを演じれば演じるほど、日本本土から嫌悪されます。
それを差別と叫ぶなら仕方ないですね。
日本人は義理人情を重んじる民族です。
上原氏のように、素直に自分たちの非を認め謝罪する。そのほうが好感が持てます。
それを日本軍に責任転嫁しても沖縄は孤立するだけです。
私は民主党政権に共感するのは一つも無いですが、反日の正体を国民に晒したことだけは評価します。沖縄問題もその一つです。
後2年。日本が持てばいいのですが。
民主党内部も空き管を非難しながら、国会議員の身分を失いたくないというの見え見えです。>
満州移民の子として生まれ写真も戸籍もない兄を不憫に思う戦後生まれの妹さんの気持ちは誰でもよく理解できる。
だが、同情心で歴史の事実を改竄させてはいけない。
元々平和の礎は上原正稔さんが地元首長と連携して設立の構想をしていたものを、名誉欲の権化である大田昌秀元知事が横取りし、ひたすら戦没者の数を増やすように仕向けたため、現在のように何の検証もないまま新規の刻銘が続き、戦没者の数が増え続けるという異常現象を来たしているのだ。
以下は保存資料として引用。
戸籍も写真もなく満州で他界 移民史に名、礎に追加
きょう慰霊の日
社会 2010年6月23日
沖縄戦などで亡くなった人の名を刻む「平和の礎」に今年、戸籍も写真もなく、わずか3歳で亡くなった男の子の名が刻まれた。南風原町から満州(中国東北部)に移民した両親の間に生まれた新垣満雄ちゃん。兄の顔も知らない戦後生まれの妹宮城絹子さん(61)=南風原町=が奔走、知人が兄の名の記された南風原町史を見つけ出してくれた。それが65年後の「存在証明」につながった。「兄さんは生きていた。そのことを孫の世代も忘れないでいてくれる」と静かに喜んでいる。(金城珠代)
満雄ちゃんが生まれたのは1942年。両親と祖母、叔父2人が満州開拓移民として中国東北部の臥牛吐(オニュート)に移り住んだ翌年だった。体が大きくたくましい子だった。満州で終戦を迎え、捕虜収容所で伝染病にかかり命を落とした。わずか3歳だった。
戦後、仏壇に位牌(いはい)はあるが戸籍はなく、写真も残っていない。兄がどこかで生きているのではないかと願い、宮城さんは中国残留孤児が帰還する様子がニュースで流れるたび「(満州に)兄さんを置いてきたんじゃないの」と何度も母にせっついた。
男の子がいないことを周囲から責められ続けた母は「満雄は病気で死んだ。満雄が生きていれば…」と4人の娘に何度も口にし、34年前に60歳で他界した。
昨年2月、母の年を越え、体調を崩していた宮城さんは兄のことを知ろうと、南風原町史にある「開拓移民」の項目を夜中まで読みふけった。「自分たち(身内)がいなくなったら、兄さんの存在を知る人がいなくなってしまう」との焦りがあったからだ。
南風原文化センターで学芸員を務める知人にそのことを話した5カ月後。知人が、町の移民史に載っている兄の名前を探し出してくれた。これで、礎に名前が刻める―。胸がいっぱいになった。「顔も知らない兄さんだけど、確かに生きていたんだ」と、名前が刻まれた活字を見て“兄の短い生涯”を確信できた。
20日、夫と息子に付き添われて糸満市摩文仁の平和の礎を訪ねた。兄の名前が目に入ると、涙があふれ何度も何度も石に触れた。
「兄さん、シーミー(清明祭)の時季になったら毎年ここに来るからね」。戦後65年たち、やっと兄の生きた証しを残し胸のつかえが下りた。
☆
ウソも百篇繰り返すと真実となる。
沖縄戦の改竄がこのまま続くと、沖縄戦の証言者が死に絶えた後は歪曲され捏造された沖縄戦が真実の歴史して後世に残されることになる。
それを憂慮する硬骨漢が沖縄にもいた。
沖縄戦の真実を検証してきた上原正稔さんが、沖縄2紙の言論封殺に敢然と戦いを挑んだのが「パンドラの箱掲載拒否訴訟」である。
つまり「集団自決訴訟」は、最高裁判断で収束することなく、いや、むしろ、最高裁の精神を尊重し、現在も此処沖縄の地にて歴史捏造への戦いを続けている。
以下は、昨日のエントリー集団自決!歴史捏造との新たな戦い! の続編です。
血の叫びーペンも凶器たりうるー
秀一氏は、法廷において、被告席に座った大江健三郎氏の目の前で、その胸のうちをこう語りました。
「私自身はこの書き方がもう。 何しろこの本を読みますと、大江健三郎先生は兄に直接取材することもなく、渡嘉敷島に直接取材されたこともないと。 それにもかかわらず、兄の心の中まで踏み込むような中傷・誹謗が書けるんだから、これは大したものだと感心すると同時に、それはもう憤りを覚えますね」
「これは(『沖縄ノート』は)ちょっと異質ですわ。 もう、人の心の中へ立ち入って、まるではらわたまで引き出すような書き方で、それはもう、『鉄の暴風』の方がまだ、あっさりした書き方ですわ」
また赤松大尉の悔しい思いについても、次のように証言しました。
「兄貴が、昭和46年だったと思いますが、雑誌の『潮』に、『私は集団自決を命令していない』という記事を残しているんですが、それによりますと、沖縄で極悪人として罵倒され、あまつさえ娘に誤解されるのは辛いから、本位ではないけれども誤解されたとする点を一々説明するという筋書きで、兄の几帳面なところから細々と誤解の原因になる箇所を説明しまして、その後に』無実を晴らしたいと訴えていました」
「兄の無念の思いは、それはもう、先程の記事に充分書かれていることですけども、『ペンも凶器たりうる。 300人もの人間を殺した大悪人のことについて書くならば、その資料の質を問い、数多くの証人に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないか』と語った後で、『ここに述べるのは私の血の叫びだといえば、読者はやはり眉をひそめられるであろうk』と、これが兄の無念さを代表していると思いますね。 今頃こんな裁判やっていると聞いたら、兄はおそらく無念がって化けて出てくるかも知れません」
大江氏は、この間、眉一つ動かさず、証言している秀一氏をじっと凝視していました。 その直後になされた彼の仰天証言のことは、別項にて詳しく述べさせて頂きます。
数多の思いを背負って
隊長命令の嘘を撒き散らした『沖縄ノート』や『太平戦争』を読んだ人がこれを事実だと確信してしまうことは、秀一氏だけでなく、赤松元隊長の長女である佐藤加代子氏にとっても耐え難い苦痛です。 諸般の事情から原告となることを控えられた加代子氏も、裁判所に提出した陳述書において、良き父であった赤松元大尉への深い尊敬を綴っていました。 叔父である秀一氏に全てを託して、この裁判を通じて、なんとか父の名誉を回復して欲しいと述べておられます。 秀一氏は、赤松元大尉の思いでも背負って、この裁判に臨んだのでした。 もちろん、赤松元大尉と共に戦った部下や戦友の思い出を、そして日本を愛し、真実を求める多くの国民の思いも・・・。
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