Quantcast
Channel: 狼魔人日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 9761

集団自決!歴史捏造との新たな戦い!

$
0
0

 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

知事、戦没者「24万人余」に訂正

沖縄タイムス2011年07月07日

県議会(高嶺善伸議長)6月定例会は6日、一般質問最終日を開いた。仲井真弘多知事は今年6月23日の沖縄全戦没者追悼式典で発表した平和宣言の中で、「20万人余」とした沖縄戦の戦没者数について「24万人余」に訂正すると述べた。浦崎唯昭氏(自民)への答弁。
 これまでの平和宣言で戦没者数は、県が1957年に推計した約20万人を基に数値を用いてきた。しかし浦崎氏は、平和祈念公園内の平和の礎にはすでに24万人余が刻銘されているとし、「平和宣言は事実を基に発表すべきだ」と指摘した。これに対し、仲井真知事は「指摘の方向で訂正する」と述べた。

                         ☆

ついに沖縄県知事が左翼集団に取り込まれた。

沖縄戦の歪曲に加担したのだ。

沖縄戦の戦没者数を過大に計上し、ゆすりの材料にするつもりなのか。

沖縄戦の戦没者数については、当初からそのズサン計算手法を批判する良識派の研究者もいたが、最近はマスコミ、学者がグルになってできるだけ大きな数字にするため根拠を示さず数字を増やし続けていた。 

「戦没者、みんなで増やせば怖くない」という戯れ歌があるくらいだ。

沖縄戦の実証的調査をしている上原正稔さんの調査によると平和の礎に刻まれる戦没者のなかには生きている人の名も含まれていた例もあり、年々増加する刻銘をこのまま放置すると、戦前の県民人口の数より多くなるという話さえある。

「沖縄県平和祈念資料館」に掲示されている県別の戦没者数は、1945年の沖縄戦以降の戦没者を計算しているが、沖縄出身者に限って満州事変に遡って計算しているというから驚きである。

平和の礎の刻銘も満州事変に遡っているというが、これでも納得できないという大学教授がいるから、沖縄の学者の発言には眉に唾が必要である。

慰霊の日6月23日、沖縄タイムスに掲載された沖縄大学客員教授・又吉盛清氏のトンデモ文を紹介する。

慰霊の日に想う  沖縄大学客員教授 又吉盛清(69)

平和の礎には満州事変後の戦死者が刻銘されているが、それでは不十分だと想っている。沖縄人の戦争の歴史は日清戦争の志願兵から始まり、徴兵で二千人余が動員された日清戦争から本格化する。第1次世界大戦では青島に出兵し、ドイツと戦い、その結果日本は南洋群島を委任統治するわけで、それが沖縄の移民へとつながる。 つまり沖縄の戦争体験を始まりから順にたどらねば、沖縄戦の背景、経過を学ぶことはできない。ある日突然沖縄戦が始まったわけではないのだ。沖縄戦の被害の大きさは、日本がアジアに対して行った侵略の結果だ。 もう2度と戦争を起こさないためには、被害の悲惨さのみを強調するだけでは不十分だろう。 あれだけの犠牲を払い、それを風化させないためには沖縄戦から何を学ぶかが問われている。

これが沖縄の学者かと呆れる、反論するにもバカバカしいご高説なので、無視したいとこだが、一言だけ言わせてもらえば、このようなトンデモ先生の授業を受ける沖縄大学の学生たちがお気の毒である。

このように地元マスコミやトンデモ教授が行う沖縄戦の捏造に県知事までもが加担するというのが「全体主義の島沖縄」の現状である。

歪曲され捏造された沖縄戦の真実を解明すべく戦ってきた「沖縄集団自決冤罪訴訟」は終結した。 だが、戦いの第二弾は上原正稔さんが琉球新報を提訴することにより、始まったばかりである。

 

平成23年4月21日、最高裁は2年5ヶ月を経て、上訴を退けた

原告側弁護団が、6年半に及んだこの裁判の闘いを振り返って「『沖縄集団自決冤罪訴訟』から学んだもの」と題する冊子を発行した。

周知の通り係争中の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の核心は、沖縄慶良間島の集団自決における軍命の有無である。 

その点で同訴訟は「沖縄集団自決冤罪訴訟」の第2弾といわれている。

したがって「パンドラの箱掲載拒否訴訟」を勝訴するためには「沖縄集団自決冤罪訴訟」の再検証が不可欠である。

当日記は、「『沖縄集団自決冤罪訴訟』から学んだもの」から要点を抜粋し、適宜読者の皆様にご紹介する予定である。

今回は、先ずこの長い裁判を闘ってこられた弁護団を代表して徳永信一弁護士が執筆した「弁護団声明」の結語部分と【第2話】の抜粋を紹介する。(太字強調は引用者が施した)

                ☆

弁護団声明ー最高裁判定を受けて

<・・・裁判は終わりました。 隊長命令の不在を明白な真実とし、軍の関与を世に知らしめる作業は、今後の更なる資料の発掘と自由な歴史研究と言論に委ねられました。 私たちは、戦後の歪んだ歴史観を見直していくための確固たる橋頭堡(きょうとうほ)を築いたことを誇りに思います。 既に真実性を喪失した『沖縄ノート』と『太平洋戦争』の出版継続の当否については大江健三郎らの良識に任せようと思います。

最後に、この長い裁判は、沖縄戦の真実を希求する多くの国民の支援によって支えられてきました。誤った歴史教育に洗脳され、日本軍を「悪」とする図式を死守しようとする分厚い勢力に取り囲まれながらも、私たちがこの困難な戦いを、挫けることなく戦い抜けたのは、そうした支えがあったからこそでした。 真実に対する誠実さと犠牲になった尊い命に対する畏敬の念こそが、日本人の心の閉塞を切り開く鍵だと信じることができました。 心から感謝するとともに、この感謝の気持ちをバネに更なる戦いに邁進していく決意です。>

                ☆

【第2話】  血の叫び − 兄赤松嘉次の思い出を背負って −

百万遍の書店で見つけた『鉄の暴風』 

赤松秀一氏は、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松嘉次元大尉の13歳年下の弟さんです。 赤松嘉次氏は、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、陛下から恩師の時計を賜った俊英でした。 秀一氏は、親代わりとして家族の長のような存在であった赤松元大尉を、幼い頃から強く尊敬していました戦地から帰還した赤松大尉は、家族の中心となって家族を支えました。 昭和28年頃、京都大学工学部の学生として学生生活を送っていた秀一氏は、京都大学近辺にある百万遍(地名)の書店で『鉄の暴風』をみつけて買い求め、そこで兄嘉次氏が渡嘉敷島で無慈悲な自決命令を出して多くの住民を殺したということが記載されていることを知りました。 尊敬する兄がそんなことをするはずはないと思いながら、他方では、火のない所に煙は出ないの疑念を振り払うことができませんせした。 しかし、そうした事柄について、兄嘉次氏に直接尋ねて、事実関係を確かめる勇気もなく、疑念を抱えたまま、他の家族とともに、長年、苦しむことになったのです。

『ある神話の背景』と『沖縄ノート』

それから20年後の昭和48年5月、曽野綾子氏の著『ある神話の背景』が出版され、赤松元大尉が自決命令など出していないいうことが一点のくもりもなく証明されました。 秀一氏は、もうこのことで悩むことはなくなった、全てが解決したのだと家族と共に大喜び下とのことでした。 それからは、秀一氏は鞄の中に、いつも数冊の『ある神話の背景』の文庫本を入れて持ち歩いたといいます。 沖縄戦の集団自決に関心を持っている人に渡して兄の無実を晴らしてまわろうと思ったのでした。  こうして無実を晴らすことができた赤松元大尉は、昭和55年に安らかにお亡くなりになりました。 
全ては過去の過去のことになったはずの平成16年、秀一氏は、赤松元大尉の動機だった山本明氏から、昭和45年に出版された大江健三郎著の岩波新書『沖縄ノート』が、赤松元大尉を極悪人と決めつけた記載をなんら訂正することもなく、38年以上も版を重ねていることを教えられました。 信じられないことでした。 これを読んだ人は、そこで「守備の隊長」とされている兄が命令を出したと誤信するでしょう。 秀一氏は、兄の名誉を今一度回復することを心に誓ったのでありました。

 秀一氏の決意

秀一氏は、原告となって裁判を起こす決意をした心情を、裁判所に証拠として提出した陳述書にとりまとめて、こう言っています。

 

「わたしにとっては、一旦は兄の無実が証明されていたのに、未だにこのような兄が自決命令を出したなどという真っ赤な嘘の話しがまかり通っているなど許せない、このようなことを野放しにすることはできない、このような嘘を放置していれば、亡くなった兄に申し訳ないと、強い怒りを覚えました。」

「『沖縄ノート』には、兄が渡嘉敷島で自決命令を出して多くの住民を集団自決させた悪の権化であるとか、兄が嘘と自己欺瞞を繰り返す恥知らずな人間であるなどといって、兄に対する誹謗中傷の限りが記載されています。 このように誤った事実に基づく屈辱的な記載が、未だに多くの読者にふれ、誤解を招く状態になっていることにより、終戦当時、本土防衛の犠牲になった多くの沖縄の方々のため、自分が忍ぶことで年金が給付されるならと、敢て沈黙を守った兄の気高い心情が踏みにじられていると感じました。」

つづく

      

  よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 9761

Trending Articles