人気blogランキングへ クリックお願いします
今日は普賢岳火砕流から20年と言うことで島原市の追悼式の様子を報道するマスコミは多い。
殆どの報道が「記憶を風化させず、後世に伝えるのは私たちの責務」などと、もっともらしいことを述べているが、多数の犠牲者を出した最大の理由が、マスコミの傍若無人な取材合戦による人災である、と報じる反省の記事はひとつもない。
復興体験の継承誓う 普賢岳大火砕流から20年 島原市で追悼式典
2011年6月3日 13:44 カテゴリー:社会 九州 > 長崎
消防殉職者慰霊碑に献花する遺族たち=3日正午すぎ、長崎県島原市 長崎県雲仙・普賢岳で1991年6月3日に43人の死者・行方不明者を出した「6・3大火砕流」から20年を迎えた3日午前、同県島原市の島原復興アリーナで、同市主催の犠牲者追悼式が開かれた。遺族29組93人を含む約700人が参加、黙とうや献花で犠牲者の冥福を祈り、災害体験の継承を誓った。
式典では横田修一郎市長が「記憶を風化させることなく伝え、復興した島原の地から東日本大震災の被災地へ『災害は必ず復興できる』との応援メッセージを発信してまいります」とあいさつ。
遺族を代表して、消防団員だった父山下日出雄さん=当時(37)=を亡くした長男譲治さん(33)が「島原の復興は集大成を迎えており、私たち遺族も頑張っていきます」と述べた。
フランス人火山学者のクラフト夫妻や米国人研究者ハリー・グリッケンさんの遺族らも初めて参加した。
式典終了後、アリーナ近くの消防殉職者慰霊碑前で消防団殉職者の追悼式があり、団員たちが次々に献花した。
90年11月に始まった普賢岳噴火は、96年6月の終息宣言まで5年半もの長期災害となった。犠牲者は93年の火砕流で被害に遭った1人を含む44人。島原市と旧深江町(現南島原市)では、最大2896世帯1万735人が避難を強いられた。
=2011/06/03付 西日本新聞夕刊=
普賢岳大火砕流から20年、遺族ら700人追悼式
大火砕流から20年を迎えた普賢岳溶岩ドーム部分(3日午後0時31分、本社ヘリから)
43人の死者・行方不明者を出した大火砕流(1991年6月3日午後4時すぎ、長崎県島原市で、本社ヘリから)
犠牲者追悼式後、消防殉職者慰霊碑を訪れた山下譲治さん(左)(3日午後0時9分、長崎県島原市で)=泉祥平撮影 43人の死者・行方不明者を出した長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流から、3日で20年を迎えた。被災地の同県島原市では犠牲者の追悼式が開かれ、遺族や消防、行政、報道関係者ら約700人が鎮魂の祈りをささげた。
大火砕流は1991年6月3日午後4時8分に発生。普賢岳の麓の同市上木場(かみこば)地区で警戒に当たっていた消防団員12人のほか、警察官2人、住民6人、火山学者3人、報道関係者16人、タクシー運転手4人が巻き込まれ、犠牲になった。
島原復興アリーナで行われた追悼式では、全員で黙とう後、横田修一郎市長が「遺族のなお癒えやらぬ心情を察すると言葉もない。災害と復興を通じて学んだ生命、絆、感謝の心を大切にし、記憶を風化させず、後世に伝えるのは私たちの責務」と強調。さらに、東日本大震災の被災者に向け、「復興した島原の地から『災害は必ず復興できる』とのメッセージを発信したい」と述べた。
遺族は家族ごとに献花し、犠牲者を弔った。消防団員だった父、日出雄さん(当時37歳)を亡くし、遺族代表であいさつした同市の中学教諭、山下譲治さん(33)は「復興が集大成を迎える今、私たちも頑張っていきます」と語った。
(2011年6月3日 読売新聞)
☆
20年前の出来事を「天災」と捉える人人は多くいても、「人災」と捉える人は少ない。
亡くなったほとんどの犠牲者はマスコミ報道陣の傲慢な態度がもたらした人災であったという事実に触れ、それを反省する記事は皆無である。
当時の取材狂想劇に加わった読売も、「火砕流は1991年6月3日午後4時8分に発生。普賢岳の麓の同市上木場(かみこば)地区で警戒に当たっていた消防団員12人のほか、警察官2人、住民6人、火山学者3人、報道関係者16人、タクシー運転手4人が巻き込まれ、犠牲になった」と一言の反省も示さず淡々と報じている。
だが、実際は亡くなった村の消防団員や警官などのほとんどが地域住民であり、立ち入り禁止地域に無謀にも立ち入ったマスコミ報道陣を救出するため、やむなく「定点」以内に踏み込んで、火砕流の犠牲者になった人たちである。
つまり報道陣を救助するために犠牲になった人たちなのだが、記事には一行の反省も記されていない。
被害の背景には、マスコミの取材競争が過熱し、十分な知識を持たない報道関係者が、取材のため「定点」と呼ばれた山と火砕流を正面から望める地点に入ったことがある。
多くのマスコミ関係者などが死んだ「定点」は、避難勧告がでていた。
危険地域であることを示すため、公的機関の観測員、消防団員は、一旦は勧告地域から撤退していた。
だが、マスコミ関係者は、規制には強制力がないことから、雇ったタクシーとともに避難勧告地域内の「定点」に詰めて、タクシーの運転手も犠牲になった。
傍若無人な報道関係者は、無人の住民の家に勝手に上がり込み、電気、電話を無断使用する事件が 起こった。 住民に不安が高まり、いったん避難勧告区域外に撤退していた地元消防団は、ふたたび避難勧告地域内に入り、見回りを始めていた。
これらのマスコミ関係者、タクシー運転手、消防団員、許可を得て中に入っていた地元住民が火砕流に巻き込まれ死んだ。
消防団員以外の地元犠牲者は5名。それ以外が約35名。 避難勧告地域の境界で検問をやっていた警察官2名は、火砕流発生の連絡を聞き、中の人たちに知らせるために勧告地域内に入り、殉職した。
公的機関の避難勧告はほぼ完璧であった。 火砕流の到達範囲は、まさに避難勧告地域内におさまっていたからだ。
その避難勧告を無視し、彼らを救うために危険地帯に立ち入った消防団員らが犠牲になったのだ。
避難勧告をマスコミが守ってさえいれば、死者数ははるかに少なくて済んだに違いない。
雲仙普賢岳の災害ほどマスコミの傲慢さを露にした人災を、筆者は寡聞にして知らない。
【おまけ】
参考エントリー:
人気blogランキングへ クリックお願いします