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「パンドラの箱訴訟」、崩壊した手榴弾軍命説

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ブログセンターランキングへ。     ■「パンドラの箱」掲載拒否訴訟 上原さんが琉球新報を訴えた訴訟を「言論封殺訴訟」と記してきたが、今後、訴訟の内容をより具体的に表す「『パンドラの箱』掲載拒否訴訟」という呼称で統一させて頂きます。   「パンドラの箱」掲載拒否訴訟は、集団自決に関わる軍命の有無、ひいては教科書に軍命を記載するか否かに関わる重大な意味を持つ書いた。 琉球新報が掲載中の連載戦記を掲載日直前になって突然掲載中止を強行した理由もここにある。 これまで沖縄タイムスとタッグを組み、歪曲と捏造報道で県民を誤誘導してきた琉球新報は、上原さんの記事により、県民に集団自決の真相が知れ渡ることを恐れたのだ。 上原さんによる真相の暴露は、集団自決論争を、これまでのように「沖縄VS元軍人」という対立構造に印象操作して県民を騙すことはできなくなる。 上原さんという地元の沖縄戦研究者の手で集団自決の真相が明らかにされるのを恐れた結果が言論封殺だったのだ。 地元の研究者が沖縄の代表的新聞に突きつけた「ノー」によって、これまで沖縄の左翼学者が捏造してきた沖縄戦の歴史が真実の明かりで照射されようとしている。 今回の訴訟は、集団自決の真相解明という点では、現在上告中の「集団自決訴訟」と表裏一体をなす。なるので、 両裁判の核心部分とも言える集団自決の争点を再検証しつつ、上原さんの支援をしていく予定である。   ■悪魔の証明■ 「○○があった」という議論では、「あった」と主張する側が立証する責任がある。 「なかった」と主張する側がこれを立証するのは悪魔の証明」といわれるくらいで、事実上極め困難であるのがその理由である。 「集団自決訴訟」では、梅沢、赤松両隊長による「軍命があった」と主張する被告側は一審、二審を通じて「軍命があった」と立証することが出来なかった。 したがって両隊長の名誉は、事実上、回復されたことになる。 ただ、沖縄2紙を中心の左翼勢力が県民を熱狂状態に誘導した結果、「集団自決訴訟」を「沖縄県民VS旧軍人」という対立構造に印象操作されてしまった。 この作戦はある意味成功し、2007年の「11万人集会」の動員のために県教育長が校長会で生徒の動員を指示したり、日程が重なった高校野球の試合を延期させてまで大会参加を強要したりで、各自治体も新聞の連日の熱に浮かされたような過激報道につられ、会場までの無料バスを準備するといった異常な状況であった。  ⇒秋季野球日程を変更 大会当日、球児参加に協力   文科省検定意見が発表された2007年当時には、ほとんどの県民は「教科書から集団自決の記述が削除された」と誤解し、その年の9月に行われた「11万人集会」へと誤誘導されたのである。 その時の状況を筆者はニーチェの言葉を引いて次のように書いた。 「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」 2007年は沖縄県民にとってまさに狂乱の年であった。 沖縄二紙は、狂ったようなキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。 職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。 個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。 そしてその背後に新聞の扇動がある。 その同じ年の2007年、上原正稔さんが琉球新報から言論封殺を受けたといえば、琉球新報が必死になって集団自決の真相の隠蔽を図った理由も納得できる。   そしてその年の9月10日、福岡高裁那覇支部で「集団時決訴訟」の出張法廷が行われ、被告側証人として金城重明氏が証言している。

集団自決の生き証人として象徴的存在の金城氏の証言とあって、どのような新証言が飛び出してくるかと、筆者は息を呑んで翌日の新聞を見た記憶がある。

金城氏の出張尋問を伝える当時の琉球新報と沖縄タイムスの記事を引用する。 金城氏「軍命出た」 岩波「集団自決」訴訟2007年9月11日
2007年9月11日 琉球新報

 沖縄戦中、渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、岩波新書「沖縄ノート」などで日本軍の隊長命令だったと記述され、名誉を傷つけられたとして、戦隊長だった梅澤裕氏(90)らが岩波書店と作家の大江健三郎氏に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で所在尋問(出張法廷)を行った。渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。

 金城さんは約2時間、原告・被告双方の代理人の尋問に答えた。法廷は非公開で、終了後に双方の代理人が会見し、証言内容を明らかにした。

 渡嘉敷島では米軍上陸翌日の1945年3月28日に「集団自決」が起き、住民329人が命を落とした。当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。

 「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。

 金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。

 金城さんは、高校日本史教科書から「集団自決」について軍の強制の記述を削除した3月の文部科学省の教科書検定に対しては、「多くの体験者が軍命や軍の強制を証言してきた。戦争の残酷な部分を隠ぺいする文科省の責任は大きい」と批判した。

 岩波側の代理人は会見で「体験者しか話せない実相を述べ、軍命があったと考えていることもはっきり証言された」として、軍の強制についての立証ができたとの認識を示した。

 原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。

                                                        ☆


金城重明さんの証言要旨 (2007.9.10.福岡高裁那覇支部)

              (「沖縄タイムス」2007年9月11日朝刊から)

1「集団自決」について

(1)北山(にしやま)への集結命令について

 昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山(にしやま)に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ、北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。

(2)軍の自決命令について

 北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。

 母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。

 「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。

 この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。

(3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について

 米軍上陸の1週間くらい前に、兵器軍曹が役場に青年団や職員を集めて、手榴弾を一人2個ずつ渡し、1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。

 このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。

 「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。

(4)「集団自決」の状況について

 村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて、「集団自決」が行われた。

 手榴弾は不発の物が多く、手榴弾による死傷者は多くなく、これが、悲惨な殺し合いの原因となった。

 肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。

 手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟か姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。

(5)「集団自決」後の状況について

 兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬(き)り込みに行くというので、たとえ殺されも斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。

 斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、自決したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。

 その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。

 渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年二人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。

(6) 「集団自決」が起こった理由について

 米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に、重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということであり、住民全体に対する自決命令の第―段階であった。

 3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなければならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。

 そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。

 赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。

2 教科書検定について

 これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書について、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない
                                ☆  
集団自決の原告側証人のなかでも、目撃者というより「実行者」として代表的証人である金城氏の法廷証言とあって注目を浴びたが、やはり軍命があったという証言は皆無であった。 金城氏の証言については当日記でも数多く取り上げているが、今回は原告側代理人の徳永信一弁護士が完膚なきまで粉砕した解説文を以下に紹介します。                               ☆

9月10日 金城重明証人尋問速報 冤罪訴訟原告弁護団 徳永信一弁護士より


《証言不適格の証人》

本日の証人尋問で明かになったことは、被告側の証人として法廷に立った金城重明氏が、そもそも渡嘉敷の集団自決が赤松隊長の命令によるものであることを証言するに相応しい証人ではなかったということ、すなわち証言適格のない証人であったということである。

金城重明氏は、法廷でも集団自決が軍命令によるものであることを主張し、その根拠として、(1)昭和20年3月20日に役場に17歳以下の少年が集められ兵器軍曹から手榴弾を渡され、その際に「米軍の上陸は必至である。1発は敵兵に投げ、1発は捕虜にならぬよう自決用に使え」と命じられたこと、(2)軍から自決命令が伝えられたらしいという噂があったこと、(3)村長が天皇陛下万歳を三唱したのは自決命令にほかならないこと、?

最も危険な場所である軍の西山陣地の近くに村民を集合させたのは、自決を命じるのと同じだ、といったことを挙げた。

なにか新しいことを証言するかも知れないと身構えていた弁護団にとっては、金城重明氏の証言が、これまでいろんなところで語ってきたことを整理しただけのものだったことに対して、なにやら肩すかしをくらったような感じがした。

命令が出たらしいという噂があったことを語るだけで隊長命令の存在を証言することができなかった金城重明氏は、しかし、反対尋問(原告側弁護士)によって、彼が軍命の根拠としていた(・文字が抜けている・)対し、重大な疑念を抱かせる結果になった。

《誰も貰わなかった手榴弾〜20日交付説の虚妄》

まず、富山氏の3月20日手榴弾配布の命令説であるが、なによりも、当時16歳であった金城重明氏自身が、そうした命令を受けていないことを明確に語ったことは重大である。金城重明氏は、20日に役場に集められたこともなく、兵器軍曹から手榴弾を交付されることもなかった。もちろん「1発は自決のために使え」という命令も受けてなかったのである。金城重明氏の言い訳は、兵器軍曹から手榴弾を配られたのは渡嘉敷部落だけであり、阿波連部落には、手榴弾の配布はなかったということであった。それが軍の命令なのであれば、阿波連に伝えられないということがありえようか。

さて、それでは、渡嘉敷部落で手榴弾をもらったものがいるのかと聞けば、なんと、もらったものは誰も知らないというのである。与那嶺次郎氏、小嶺勇夫氏、安里広信氏ら渡嘉敷部落の同級生も、同級生で役場の職員だった吉川勇助氏も3月20日に手榴弾をもらっていない。当時14歳だった知人の金城武則氏も。では、金城重明氏はいつ誰から20日の手榴弾配布という話を聞いたのだろうか。その答えは、家永訴訟(1982年)の証人尋問の少し前に、安仁屋教授から富山新証言を教えてもらい、富山新順氏に連絡をとって会って聞いたというものだった。


曽野綾子氏は、家永訴訟で、その徹底的調査(1972年?)にもかかわらず20日の手榴弾交付の話は、誰からも聞いたことがないと証言し、その話に根本的疑問を呈していたが、その証言が裏付けられた形である。他方、金城重明氏が、なぜ富山新順氏の話を真実だと信じたのかは、全く不明のままだ。  

つづく
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