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「反日の館」沖縄県平和資料資料館

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    よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします    ブログセンターランキングへクリックで応援願います   先の戦争を太平洋戦争と呼ぶか大東亜戦争と呼ぶかでその人の大体の歴史観が分かる。 ところが沖縄の糸満市にある「沖縄県平和祈念資料館」が、そのどちらでもなく、「15年戦争」という中国の歴史観で貫かれたモニュメントだと聞くと驚く人もいるだろうが、逆に納得する人も多いだろう。 この資料館の各都道府県別の沖縄戦戦死者数が分かるサイトがある。http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/htmls/senbotsu/SN01EXPL100.htm
    メルマガ「商社マンに技あり!」http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/index.htmlの発行者泉幸男さんが、偶々家族で沖縄旅行をした時、同資料館を見学した際の率直な驚きを記している。 以下は、そのメルマガからの引用。
 
< 昭和6年9月18日(柳条湖事件)から昭和20年3月25日(沖縄戦前日)までの沖縄県出身の日本軍将兵の戦死者が、「沖縄戦の戦死者」に勘定されている。
 
■ 沖縄戦は昭和6年に満洲で始まった? ■
 
 13年半にわたる沖縄戦開始前の沖縄県出身戦死者の数を、「沖縄戦の戦死者」に勘定する言い分がふるっている。
 
 ≪沖縄戦が昭和6年の満州事変に始まる15年戦争の帰結であることから≫昭和6年9月以降の戦死者は「沖縄戦」の戦死者として勘定するのだそうだ。
 
 これが許されるなら、日露戦争はおろか、日清戦争や戊辰(ぼしん)内戦の戦死者も、第二次世界大戦の戦死者の数に含めうるであろう。
 歴史を語ろうとするときに必要な真摯さを欠いているのではないだろうか。
 
 なぜこのようなことを沖縄県の公的機関が平然と行うのか。
 沖縄県出身の「犠牲者」の数をできるかぎり多く書くことを称賛する勢力がいるからではないのか。>                         ◇

県平和資料館は「日本軍への憎悪」で満ちていると言われる。 これを説明する平和ガイドは左翼運動のスローガンとなりかけている「命どぅ宝」と一緒に更に日本軍への憎悪をかき立てる。 反戦平和ではメシは食えぬ 「命どぅ宝」では生きてはいけぬ! 彼らは平和ガイドとして「沖縄県平和祈念資料館」を案内しても、何の疑問も持たず左翼的な「15年戦争史観」の説明のため見学の中高校生の前に立つのであろう。                       ◇  前述メルマガは次の記事も紹介している。 <http://www.mag2.com/m/0000066872.htm
「ウィークリー沖縄 ― 本土に伝わらない沖縄の真実 ―」。
 

■沖縄レポート

◎「反日展示物」並ぶ平和祈念資料館
 
 沖縄本島南部の糸満(いとまん)市摩文仁(まぶに)にある「沖縄県平和祈念資料館」は沖縄戦の実相を次世代に伝えることを目的に、二〇〇〇年四月にオープンした。
  しかし、展示物は旧日本軍の残虐さを強調する反日的なものばかりで、修学旅行生をはじめ全国から訪れる見学者は、反日感情を植え付けられている。
 
◎生徒の反日感情を醸成
 
 「一番印象に残った事実は、アメリカ兵は民間人だと分かれば殺されないということでしたが、日本兵は自分達が生き残るために民間人をも殺すということです」
(二〇〇一年十一月二十五日、女子高校生)
 
 「いくら戦争中だからといっても、人間のすることではないと思った。人間がゴミのように扱われていて、特に、日本兵の住民に対する態度は最悪だと思った」
(同十一月八日、神奈川県の女子高校生)
 
 これは平和祈念資料館に寄せられた見学者の感想文だ。資料館を訪れた生徒が旧日本軍に対して強い反感を抱いていることが分かる。
 
 資料館は老朽化した旧資料館の代わりとして、大田昌秀(おおた・まさひで)前県知事時代に計画され、沖縄戦の犠牲者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」に隣接する形で建設された。
 屋根は全て沖縄の伝統的な赤がわらを使用するなど豪華な造りで、七十四億円もの事業費がかかっている。
 
 二〇〇〇年度は四十八万人以上が来館。
 二階が常設展示室で、 (1)沖縄戦への道  (2)鉄の暴風  (3)地獄の戦場  (4)証言  (5)太平洋の要石(かなめいし) の5つのセクションに分かれ、沖縄戦のパネル写真や模型・資料などが並べられている。
 
◎ジオラマ展示で「残虐さ」を強調
 
 中でも反日的展示の象徴ともいえるのが、沖縄戦当時のガマ(洞窟)の様子を再現した模型だ。
 
 銃剣を持った日本兵の前で住民がおびえているという構図で、住民の中には泣く赤子の口を手で押さえる母親の姿もある。人形は小学生くらいの大きさでリアル感が漂う。
 模型に説明文はないが、日本兵が住民を虐げていたことを連想させるものであることは間違いない。
 
 このほか、左足を失った負傷兵とそれを看護する衛生兵の横で、日本兵が青酸カリ入りのコンデンスミルクを作る場面や、投稿ビラを取ろうとする住民を日本兵がスパイ視して銃剣を向けるという模型もある。
 
 ガマの展示をめぐっては、検討段階で"騒動"が起きている。九八年十一月の知事選で大田氏を破って稲嶺恵一(いなみね・けいいち)知事が誕生すると、県は日本兵の人形から銃を取り外させるなど、展示内容の変更を進めた。
 
◎沖縄戦は「米国との戦い」ではなかった?
 
 だが、これに対して大田前県政時代に任命された資料館の監修委員や市民団体などが猛反発。
  結局、県は左翼勢力の反対キャンペーンに屈する形となり、銃剣を元に戻すなどほぼ原案通りとなった。
 
 また、館内に掲示されている解説文も「反日」のオンパレードだ。
 
「日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕追い出しや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などをおこなった」
「食糧を入手できなくなった地域では、日本兵による住民の食糧強奪が相次いだ。なけなしの食糧を強制的に提供させられたり、拒否する場合には殺害されることもあった」──等々。
 
 沖縄戦では米国との戦いで多くの犠牲者が出たにもかかわらず、資料館の展示は沖縄の住民は日本軍の犠牲になったかような記述ばかり。
 見学した生徒が米軍よりも日本軍に敵意を覚えるのも無理もない。
 
◎一面的な展示が踏み躙(にじ)る沖縄の心
 
 資料館の開館前に、県議会に陳情書を提出して展示内容の変更を求めた国旗国歌推進沖縄県民会議の恵(めぐみ)忠久会長は、
「二十万人の沖縄守備の日本兵には、民間からの召集兵もおり、いろんな人間像があるのであり、追い詰められた死の恐怖から生じたごく一部の兵士の行動をもって、すべての日本軍の行動と勘違いさせるような展示をすべきではない」
と指摘する。
 
 日本兵の残虐さを強調する一方、県出身者を含む日本兵が沖縄防衛のために尊い命を捧げて戦い抜いたことを示す展示は一つもない。
 海軍司令官の大田実少将は
「沖縄県民斯カク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜タマハランコトヲ」
と、作戦に対する沖縄県民の献身的な協力に理解を求める電文を送っているが、資料館にはこの電文さえ紹介されていない。
 
 恵会長は
「大田少将が訴えたように、日本兵が県民と和合一体となって戦い抜いたことは間違いない史実だ。戦死された多くの将兵や県民の犠牲のおかげで、われわれは平和を享受できたのであり、それを不確定な資料や他人からの聞き取りなどで判断してはならない」
と語る。
 
◎監修委員に一坪反戦地主
 
 さらに、「展示内容が反日に偏っているのは、大田前知事が選任した監修委員に大きな問題がある」とも恵(めぐみ)会長は続ける。
 
 十三人の監修委員のうち、会長を務めた宮城悦二郎・元琉球大教授をはじめ、石原昌家・沖縄国際大教授、内海恵美子・雇用開発推進機構調査研究部長、著述家の安里英子氏の四人は、米軍基地内にわずかな土地を共有する一坪反戦地主だ。
 
 約三千人いる一坪反戦地主の中には、極左過激派や共産党員も多数含まれており、こうした偏った思想の持ち主たちと関係のある人が、公正さの求められる資料館の監修に携わっていたことは明らかに不適切である。
 宮城氏は現在も、資料館の運営委員として関与している。
 
 開館以来、県内だけでなく全国から児童・生徒が数多く訪れている。
 二〇〇〇年度の小中高、大学の団体見学は県内が三百七十八校、三万二千四百七人で、県外は千五校、十五万九千三百六十四人にのぼった。
 修学旅行生の約半数が来館しているといわれ、多くの児童・生徒が修学旅行の最中、反日感情を植え付けられていることになる。
(C) 2002, 世界日報>

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