今年、戦後70年を迎える。戦争経験者の多くが他界または高齢になり、記憶の風化を心配する声が強まっている。沖縄では、戦争の記憶がほとんどない幼児期に終戦を迎えた世代が証言者となり、事実と違った沖縄戦がメディアを通じて広まっている。日本軍が壊滅状態となった伊江島で少年義勇兵として戦った玉城幸助氏は今年、米寿を迎えることを記念して「玉砕の島 伊江島戦 体験記」を自費出版した。玉城氏に伊江島の戦いについて聞いた。(那覇支局・豊田 剛)
――沖縄戦の当時は16歳の若さですが、なぜ兵に志願したのですか。
戦争が始まる頃、20歳に満たなかったので義勇兵として志願しました。お国のために役立てる人間になりたく、熊本陸軍幼年学校に通いました。将来は職業軍人になろうと思っていました。
――日米両軍にとって伊江島はどのような意味があったのでしょうか。
伊江島は平坦な地形なんです。日本政府はそこに目をつけ巨大な飛行場を造りました。戦時中、日本軍が来て飛行場を二つ造りました。アメリカが必ず攻めて来るということで九州の師団(井川部隊=独立混成第44旅団、第2歩兵隊第1大隊)が駐屯しました。
――昭和20年4月16日、米軍が伊江島に上陸した当時のことを教えてください。
戦争が始まる前は、伊江島が第一線の戦地になるとは夢にも思っていませんでした。それが、戦争が始まると日本兵、義勇兵、婦女子ら住民、すべてがひとつになって日本のために戦うと誓っていました。
私は陣地構築を手伝ったり、大崎正中隊長のお供をしていました。18日までの3日間、米軍の機関銃や砲弾の攻撃を受け、日本軍はほとんど全滅しました。井川部隊は九州出身者で構成され、沖縄出身者の幹部が2人いました。
私が所属した第2中隊(大崎中隊)は、総攻撃ということで壕(ごう)に集まっていました。一人の軍曹が軍服、靴、一切合切を新調し、「煙草を吸うのは今日限り」と一服し、「妻よ、年老いたおふくろを頼む」とつぶやいて涙を流していたのをはっきり覚えています。
20日に私は砲弾を受けてしばらく気を失っていましたが、気がついたら周りは遺体だらけでした。ところが戦後、伊江島には遺体がほとんどないんです。米軍が遺体を船に集めて水葬したのではないかと思います。
――伊江島の戦いに関しては、メディアでは集団自決の強要や避難壕からの追い出しなど、日本軍の悪行ばかりを伝えています。このことをどう思いますか。
私の知る限り、伊江島で集団自決は起きていません。最近も事実と異なる記事が掲載されていたので、「嘘(うそ)デタラメを書くな」と地元の新聞社に抗議したばかりです。
日本兵が民間人を壕から追い出したと言われているが、危ないから東海岸の安全なところに行くように配慮してくれたのが本当の話です。中には意地悪い日本兵もいたかもしれないが、ほとんどは家族思いで、沖縄を守ろうと覚悟していました。なのに、日本兵を悪(あ)し様(ざま)に言うのはいただけない。戦後、伊江島戦を証言している人の誰も戦闘を体験しておらず、本当の話を伝えていません。
――6日間の激戦が終わり、捕虜として野戦病院で過ごされたそうですね。
戦前は「鬼畜米英」と教わりましたが、アメリカが自由と人権の国だということを知りました。病院ではこれまで見たことがないようなコンビーフ、ポーク缶、コーラ、コーヒーがありました。伊江島には十分な水がありませんでしたが、米軍が上陸して水道を整備してから水が豊富になりました。
野戦病院で私は負傷した片目を摘出してもらいました。他に負傷した日本兵がたくさんいました。破傷風がひどくならないように手足を切断してあげていました。私はそれを袋に入れる手伝いをしました。少なくとも50人は一命を取り留めました。
ここで思ったのは、生きてこそ国のためになるということでした。
――傷痍軍人に対する政府の補償はどうでしたか。
戦後、15年ぐらいしてから、ようやく義眼を入れてもらいました。少し時間が掛かりましたが、それ以来、十分な補償は受けられています。
傷痍軍人は皆、高齢になりました。日本傷痍軍人会は一昨年、創立60周年という節目を迎え解散しましたが、それに合わせて県傷痍軍人会も解散しました。
――現在の沖縄をどう思いますか。
戦後はアメリカ統治下がいいと思っていました。アメリカが経済面、医療衛生面で援助してくれたおかげで大きく発展したからです。今は、日本に復帰してもちろん良かったです。
たまき・こうすけ昭和3年、伊江島に生まれる。同19年、義勇隊に志願し部隊配属されるも、翌年4月16日、砲弾を浴び右眼を失う。戦後、宜野湾市に移住し、興信所で勤務。昭和46年から平成25年まで財団法人沖縄県傷痍軍人会宜野湾支部長、平成13年から同25年まで同会副会長を務める。同23年に旭日単光章を受章。歌手・三枝万祐沖縄県後援会長。
伊江島戦沖縄本島北部の西に位置する周囲22㌔の小さな島。昭和20年4月16日から6日間の激しい戦闘の結果、日本兵はほぼ全滅。およそ半数の住民(約1500人)を含め約3500人が犠牲になった。
【美ら風】沖縄の野球と米軍 全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の沖縄大会が20日、那覇市の沖縄セルラースタジアムで全国のトップを切って開幕した。開会式では、3年連続出場を目指す沖縄尚学(那覇市)を先頭に参加62校の選手が入場行進した。
開邦(南風原(はえばる)町)の儀間敦生主将(3年)は「罪のない尊い命がたくさん奪われた沖縄戦から70年の節目の年、今、平和な環境で野球ができることを幸せに感じます」と力強く選手宣誓した。
沖縄県代表として初めて首里高(那覇市)が甲子園の土を踏んだのは、57年前の1958年。沖縄はまだ米統治下にあったが、夏の甲子園第40回開催を記念し、沖縄を含めたすべての都道府県代表が出場できるようになった。沖縄代表は琉球列島米国民政府発行の渡航証明書を所持して参加。甲子園の土は那覇港で植物防疫法で「外国の土」と見なされ、海へと捨てられた。
首里高の前身である沖縄県尋常中学校が明治27年(1894年)、沖縄で初めて野球をしたとされる。その9年後、初の対外試合が米水兵を相手に那覇市の干潟にある球場で行われた。
今では沖縄にはナイトゲームができる沖縄セルラースタジアム、1万5千人を収容できるコザしんきんスタジアム(沖縄市)をはじめ、立派な球場が多い。これらのほとんどは沖縄米軍基地所在市町村の活性化を目的とした「特定防衛施設周辺整備調整交付金」など防衛予算を活用してつくられている。
大半のプロ野球球団が沖縄でキャンプ入りしているのは、沖縄に米軍基地があるからだと言っても過言ではない。沖縄の高校球児らはプロのプレーを肌で感じることができる恵まれた環境にある。(T)
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