よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします 反対行動排除を強化へ 辺野古ゲート前、資材搬入で政府2015年1月3日
政府が米軍普天間飛行場の名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沿岸部への移設計画で、近く予定する海上作業の再開を前に、シュワブのゲート前で座り込みなどの反対運動をする市民の排除を徹底するよう警察当局に指示していたことが2日までに分かった。
移設に向けた作業で沖縄防衛局は、埋め立て予定地の辺野古崎付近で仮設桟橋の設置工事を今月下旬にも始めたい考え。桟橋の整備や海底ボーリング調査の再開に必要な資材を大型トラックで搬入することを計画しており、これに向けた警備強化が検討されている。
政府関係者によると、防衛省は作業が進展しない要因の一つに貨物車両の往来に抗議する市民らの行動を挙げ、首相官邸に報告していた。
政府は移設に反対する市民らの「妨害行為」(関係者)の排除が不可欠だとして、警察庁に警備を強化するよう求めた。
ゲート前では市民と機動隊とのもみ合いで11月に高齢の女性が頭を打って負傷する事例もあったことから、県警がどこまで強制的に対応するかは不透明だ。ただ政府内では「通行車両の往来を妨害する違法行為は徹底して取り締まるべきだ」として往来妨害罪などの適用も検討されている。
防衛局は海底ボーリング調査の再開に向け、調査海域を示すブイ投下のための浮桟橋の再設置作業などを5日以降に予定しているが、関係者によると、準備の遅れなどから13日以降にずれ込む可能性も出ている。中断している海底調査は今月中旬に再開したい考えで、政府は海上保安庁に海上での抗議活動の取り締まりも指示している。
海上作業は(1)浮桟橋やブイの設置(2)ボーリング調査(3)仮設桟橋設置工事―などを予定しており、防衛局は3月末までに終了させたい考え。
その上で6月ごろをめどに、埋め立ての本体工事に着手したいとしているが、昨年12月に就任した翁長雄志知事は「辺野古に新基地は造らせない」と強調しており、政府に作業の中止を求めるほか、前知事による埋め立て承認の検証作業に近く入る予定だ。
☆
この記事を見る限り政府が、並々ならぬ決意で辺野古移設を「強行」する事が読み取れる。
菅官房長官が知事選の前、「誰が知事になっても辺野古移設は粛々と行われる」と明言した通りだ。
昨年暮れのテレ朝で、前泊沖国大教授が「政府が辺野古移設を強行したら住民の実力阻止運動で流血の惨事が起きる」などと脅迫めいた発言をした。
政府が法律に従がって行う行為を暴力で以って阻止する集団は暴力団となんら変わることはない。
政府は秩序の維持のため、これらの暴力行為に終止符を打つ義務がある。
国民にとって、政府に正義があるか否かはこの際問題ではない。
暴力行為に屈して秩序が維持できない政府こそ問題であり、国家としては失格である。
国民の生命安全を守ることに出来ない「未熟児国家」であり、やがては国民に支持を失う運命を辿る。
クーデターなどで政権が変わるとき、国民はより強力な暴力をもって治安と秩序を確立してくれそうな他の暴力集団を正統な政府として支持するようになる。
国民の支持が得られれば次の段階で国際的に正式な国家と認知され、クーデターは成功したことになる。
国家という概念が成立する以前の日本の歴史に立ち戻ってみよう。
権力交代は話し合いや選挙によるものではなく、より強大な暴力集団が権力を収奪していく戦いの連続である。
源平の合戦で源氏が勝利したことで武家社会の秩序が固まり、戦国時代の「国盗り物語」で勝者が確立した結果「徳川300年の太平」が訪れた。
幕末・維新の内戦では、「錦の御旗」を掲げた官軍側が勝利して日本の近代国家としての秩序が確立した。
このように国家の成立過程では武力による勝者が権力を握る。
話し合いの結果の人工的国家誕生などの綺麗ごと済まされないのが国家成立の歴史である。
ある集団が暴力によって政府に挑戦する可能性が残されている限り、暴力集団による挑戦は繰り返され、クーデターや内戦が繰り返されることになる。
いま沖縄のトンデモ学者たちが叫んでいる「琉球独立」について、彼らが本気で実力行使に移ったらどうなるか。
日本の国会がこれを認めるはずはない。
当然暴力による実力行使(クーデター)する以外に、なす術はない。
ところが「琉球独立」を叫んでいる勢力に限って、非武装中立を目指している。
したがってクーデターによる「琉球独立」の可能性はゼロである。
暴力による蜂起のないクーデター(琉球独立)など無知な学者の妄想に過ぎない。
自らの「暴力」で秩序を確立しえないような国家はやがて国民の支持を失っていく運命にある。
辺野古移設に戻る。
>政府は海上保安庁に海上での抗議活動の取り締まりも指示している。
>翁長雄志知事は「辺野古に新基地は造らせない」と強調しており
政府は反対勢力のいかなる阻止行動に対しても、それを上回る「実力(暴力)」を行使して、粛々と辺野古移設を執行しなければ、国際的にも「未熟児国家」のレッテルを貼られることになる。
政府は国家の体面にかけても、辺野古移設は粛々と実行すべきである。
【おまけ】
コメント欄でCICに話題が及んでいるので、関連過去記事を紹介する。
確かCICに言及したのはこれが初めてだとおもう。
☆
沖縄住民の「スパイ容疑虐殺」の真相 2008-12-21沖縄戦で、米軍は上陸の前、沖縄中に「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、沖縄住民の生命と肉体に壊滅的打撃を与えた。
米軍が上陸した後、降り注ぐ砲弾の合間に空から舞い降りてきたのは、膨大な数の「鉄の爆弾」ならぬ「紙の爆弾」であった。
炸裂する砲弾に替わる「紙爆弾」は、今度は沖縄住民の心を破壊していった。
沖縄戦で米軍は沖縄住民の身体のみならず心も共に破壊したのだ。
太田昌秀著『沖縄戦下の米日心理作戦』は、米軍が沖縄戦で行った心理作戦ついて、次のように述べている。
<さる太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍が空から撒いた一枚の宣伝ビラ読んで命が助かった人もいれば、それを所持していただけでスパイの汚名を着せられ命を落としたものもいた。このように戦時中、軍人も民間人も一枚の宣伝ビラの対応いかんによって文字どおり、生死を分かったのである。 一片の紙片は、まさに「紙爆弾」そのものだった。 沖縄戦で日本軍は、敵が散布した宣伝ビラを拾ったまま警察や憲兵に届けないで所持しているものは「銃殺に処す」と厳命を下していた。>(『沖縄戦下の米日心理作戦』太田昌秀 岩波書店)
「紙爆弾」といわれる宣伝ビラは、60数万枚にも及ぶ膨大な数量が、小さな島にばら撒かれた。
その種類も日本軍用、沖縄住民用と内容が別れ、
目的別に更に20種類に細分されるという徹底ぶりだった。
だが、米軍の心理作戦部隊が最も重要視したのは、
本土出身の将兵と地元住民との仲を疑心暗鬼の状態にして、
お互い離反させることであった。
沖縄住民と日本兵との間に楔を打ち込むことを目的にした宣伝ビラの例には、次のようなものがある。
沖縄住民用ビラ
<この戦争は、沖縄の皆さんの戦争ではありません。貴方たち沖縄人は、内地人の手先に使われているのです。皆さんは、彼ら内地人の犠牲になっているのではありませんか。(略)>(『沖縄戦した米日心理作戦」)
このような沖縄人用の宣伝ビラを読むと、60数年前に米軍が書いたビラながら、その呪縛は現在の沖縄にも生きており、今でもどこかで良く見るアジ文である。
と思ったら・・・、
そう、当日記のコメント欄に時々嫌がらせを書いてくる「沖縄左翼ボーイ」たちのカキコにそっくりなのだ。
「お前はヤマトンチュの犬だ」とか。(爆)
60数年前の米軍心理部隊が沖縄住民と日本兵の間に打ち込んだ楔(くさび)が、現在も沖縄左翼の間に生きて彷徨っているわけだ。
恐ろしきは「心理作戦」そして「紙の爆弾」。
沖縄戦の証言者の中に、身内の者が「スパイ容疑で日本兵に惨殺された」いった話を良く聞く。
係争中の「集団自決訴訟」でも、被告側は「日本軍はスパイ容疑で無辜の沖縄住民を虐殺した」と、
争点とはまったく外れた論議を持ち込んで、
「悪逆非道の日本軍」の印象操作に余念がないのは周知の通り。
「うつろな目の少女」(オカッパ頭の少年)で一躍有名人になった大城盛俊氏も自分の母親が「スパイ容疑」で殺されたいう。
⇒「うつろな目の少女」の秘密!上羽修著『母と子でみる44 ガマに沖縄戦刻まれた』のなかで、その経緯を次のように述べている。
<収容所で悲しい知らせを受けた。再婚していたお母さんが、大城少年が一番初めに避難していたワチバルの壕まで会いにきたことがあったが、その帰り、日本兵にスパイ容疑で射殺されていたのだ。お母さんがこともあろうニスパイという汚名を着せられ無残に殺されたことを知った大城少年は、どんなにつらかっただろうか。
沖縄住民をスパイ視した日本兵による陰惨な虐殺事件が、沖縄の各地で起きている。ここに収容されていた住民も、山に潜む敗残兵に射殺されるという事件が起きた。彼等の論理ではアメリカに投降した者はみんなスパイであった。
「私たちはその日本兵を殺そうと、アメリカ軍の憲兵に日本兵の隠れていそうな壕を教えてやりました」
アメリカ兵は住民に親切だったのに対し、日本兵は住民にとってははなはだ危険な存在だった。
戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。>
沖縄戦にまつわる「スパイ」の話しは、ことの性質上明確な証拠・書類の類は残っておらず、数件の例を除いて、ほとんどが伝聞による「スパイ虐殺」が主である。
上記証言者の大城氏の場合も、「日本兵がスパイ容疑で母親を射殺した」という話も、米軍に収容されたときそこで聞かされた伝聞であったが、当時12歳の大城少年に事実確認は無理であったのだろう。
本文は大城少年が「母親が殺された」と聞いたせいか、日本兵に対する憎悪に満ちており、次の文にもそれがよく表れている。
「アメリカ兵は住民に親切だったのに対し、日本兵は住民にとってははなはだ危険な存在だった」
そして、事実確認もしないまま大城少年の心に植えつけられた日本兵への憎悪は、本人は無意識なのだろうが、次のようなスパイ行為へとエスカレートしていく。
「私たちはその日本兵を殺そうと、アメリカ軍の憲兵に日本兵の隠れていそうな壕を教えてやりました」
何気なく読み飛ばしそうな一文だが、これには重大な意味が含まれている。
これはスパイの自白文である。
もし大城少年とその仲間が米兵を日本兵の隠れていそうな壕に案内する光景を、日本兵に目撃されていたら、それは紛れもない「利敵行為」であり、りっぱな「スパイ行為」である。
スパイというと、「007」のジェームス・ボンドや、CIAの秘密情報員を連想する人もいるかもしれないが、沖縄戦時のスパイは大体次のように類別される。
①通称CICと呼ばれた連合国軍総司令部第441部隊
②米軍の捕虜になった後、勧誘されスパイになった沖縄住民
③本人は無意識にスパイ行為をしていた沖縄住民
④日本軍の疑心暗鬼で「スパイ容疑」で処刑された無辜の沖縄住民
①のCICとは、Counter Intelligence Corpsの頭文字をとった通称で、日本語の話せる日本人二世を中心とし、その一部は沖縄戦以前に「南方帰りの県人」として沖縄に潜入していたいわれる。 沖縄上陸後は公然と捕虜になった沖縄住民をスパイに勧誘していたが、終戦後沖縄が米軍占領下の時代になっても、沖縄住民の共産化防止を任務として暗躍していた。
②の例は、明確な資料として残されてはいないが、琉球政府主席(知事)を務めた当間重剛氏が捕虜になったときの捕虜収容所で、CICにそれとなくスパイ勧誘されたと思われる様子が氏の自伝で次のように述べている。
<・・・その前に私は日本語のしゃべれるCICに呼ばれた。私の身分はすでに明らかにされていた。「これをやったらどういう結果が生まれるだろうか」と、そのCICが紙に書いてみせたのがplebiscite。“国民投票”とか“人民投票”とか、言う意味だ「国民投票やって、何をきめるんだ」「日本に帰りたいか、アメリカに帰属するかを沖縄の人たちに決めさせるんだ」「それは日本帰属に決まっているよ。アメリカにつきたいというのはいないよ」そしたらこのCIC「そうかな」と言ったきり、それから口をきこうともしなくなった。私が、ぐるぐるあちこちひきずり回されたのはその後まもなくたってからであった。
あのころ、私は伊良波で全く対照的な人物像をみた。一人はいかにも古武士的な風格の裁判長で、もう一人は敬虔なクリスチャン検事正だ。検事正は山下という人で、戦前からのクリスチャンだったようだ。捕虜になってからは、戦時中のようにクリスチャンであることに肩身のせまい思いをする必要もなくなり、今度は却って胸に十字架をぶらさげて歩くようになった。
一方、古武士的な裁判長は、CICに対しても“お前たちは今に負けるよ”と主張して譲らなかった。裁判長の頑固さをCICに対しても“お前たちは今に負ける”と主張して譲らなかった。裁判長の頑固さをCICは“危険思想の持ち主”と思ったのか、あるいは“いじめてやろう”と思ったのかどうかは知らんが、この人だけは、ひとりトゲ鉄線の中に囲まれ、日本に帰るまで「あっち掃除しろ」「こんどはこっちだ」とこき使われているようだった。民間人は捕虜になると、いろんな班にわけられた。DDTを散布する衛生班、食料を配る配給班。一般労務をする労務班等々。>(「当間重剛回想録」1969年3月25日)
捕虜になった民間人をスパイにする②の例は、本島のみならず離島でもあったようで、先島戦記刊行会代表の瀬名波栄氏が『沖縄春秋』(1974年1月発行)に寄稿した「離島戦史の裏面」と題する文に次のような記述がある。
<沖縄戦も一段落した昭和20年の7月頃(6月頃の説もある)宮古平良町の成川部落で沖縄出身者とみられる挙動不審の男が現れた。その態度に不審の点が多々あるのに気がついた部落民が、その旨憲兵隊に通報、憲兵隊が現場へ急行して取り押さえて調べた。 その男は最初、名護出身のアラサキ某と名乗り、クリ舟に乗って漁労中、難に遭い宮古島に漂着したと申し立て、スパイ容疑を極力否認したが、陳述があいまいでそのうえ所持品の中からスパイ行為を裏付けるようなメモ帳が現れ、ついに包み隠すことができず、米軍のスパイである旨を自白した。
それによると、同人は米軍のもとで抑留されていたが、スパイになるように強制され、他の仲間三名と共に潜水艦に乗せられ、一人だけ宮古島近海でに下ろされ、ゴムボートで狩俣海岸に上陸した。 任務は、宮古島の陸海軍部隊の兵力概況と高級指揮官の階級氏名を探ることが主で、脱出の際は海岸で信号弾を使用して合図すれば、時を移さず米潜水艦が救出にくる手筈になっていた。宮古に潜入したのは自分だけで、たの三名のことは知らない。上陸後しばらく人目のつかない所に潜んでいたが、そのうち手持ちの食料が尽き、食料を求めて出てきたところを捕まった。
憲兵隊ではこれに基づいてスパイ容疑は動かせないと断定、司令部に報告、指示を仰いで処断したようで、銃殺刑に処したという説が強いが、当時後方を担任していたM参謀の回想にによると、西表島へ監禁したのではないかとも言う。 もし殺害したとしたら痛ましい戦争犠牲者ともいえる訳だが、当時の日本軍は追い詰められて勝算を失ったせいか、スパイ対策には神経過敏と言えるほど気をつかっていたようで、沖縄人を色メガネで見る向きが少なくなかったようである。>(「沖縄春秋」1974年)
③の本人が無意識に「スパイ行為」に走った例は「うつろな目の少女」の大城少年が典型だが、本人や周囲の人が無意識だけに、これが発覚して処刑された場合でも、被害者側としては「無実の罪」を訴えるだろう。
③と④で処刑された場合の峻別は、客観的資料や証言に乏しく、さらに「反日本軍イデオロギー」がこれに加わると、事実の解明には困難が伴うと思われるが、いずれにせよ今後の研究・調査が待たれる。 (続く)
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(代表者:金城テル)よりのお願い。
現在、那覇市障害者福祉センター訴訟(翁長雄志後援会々長がこのセンターを管理し事業を行っている福祉団体の会長をしていた件)と久米至聖廟訴訟(翁長前市長が龍の柱をシンボルとする中国との交流拠点づくりを進めていた件)ではそれぞれの訴訟内容が複雑なため、担当弁護士をそれぞれ置いて那覇市住民訴訟を行っています。被告は那覇市と翁長雄志氏です。知事になったからといって責任が逃れられることはありません。
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