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時々、ずいぶん前のエントリー記事を読んで感想や激励のメールをいただくことがある。
ブロガーとしては近々エントリーのアクセスも気になるものだが、古い記事を読んでいただいて感想文をメールしていただくことはブロガー冥利に尽きるもので、その瞬間は「人気ランキング」などどうでもよい気になってしまう。
前稿で高山大尉のご親族の方からメールをいただいたと書いたが、「2008年12月19日の記事について、お礼を申し上げたく突然のメールお許し下さい」という書き出しで始まるそのメールには概ね次のようなことが書かれていた。
<高山 代千八は私の祖父(母方)にあたります。
祖母は戦時中悪い事をした人の妻と言われ、多くを語らずにいましたが、今回、貴方様のブログを拝見し祖母へ読んで聞かせたところ、涙をためて感謝しておりました。
また、私達孫世代も改めて戦争というものを知るきっかけとなりました。>
最後に丁重な文体で当日記への感謝を表し文を結んでいた。
ずいぶんもったいぶったが、二年前高山大尉について書いた記事を紹介する。 なお文体の怪しい部分は一部訂正してある。
沖縄の学生を救った配属将校・高山大尉 当日記を愛読していただいている方には再三の繰り返しで恐縮だが、しつこいのを承知であえて繰り返す。 最近の沖縄紙を見るたび、沖縄戦で戦った日本兵は、米兵を敵にして戦ったというより、むしろ沖縄住民を虐殺するために戦ったような印象を受ける。 事実、そのような記事を教材に使って、「日本兵は残虐非道」であったと授業で教える教師もいる。 マスコミの扇動にのった地元大学生は、同じく「日本兵の悪行」を訴える演劇を上演し、沖縄教育界が一丸となって日本兵の悪行を糾弾している現状である。 ■全国から20万人もの兵士が沖縄に集結した■ 沖縄戦には日本全国、北は北海道から南は鹿児島、そして地元沖縄からも数多くの若者が兵士として動員され、その数は実に20数万人にも及ぶ。 現在のおよそ半分の人口しか居なかった当時の沖縄で、この20万人という数字は島中に兵隊が溢れていたといってもおかしくはない状況であった。 だが、いつの世でも人間にはいろんな種類の人がいるもの。 20万人もの人間が沖縄に集結したら、中には悪さをする人が出てきても不思議ではない。 日本兵の中に不届きな日本兵が一人もいなかったとは思わないが、はたして沖縄紙が報じるように日本兵は犯罪者集団のように沖縄住民に危害を加えたり略奪だけをしていたのか。 いやそうではない。 日本兵に救われた沖縄人も多数居たのだが、イデオロギーまみれの沖縄紙が報道しないだけの話である。 ところが沖縄タイムスも、戦後のある時期までは日本兵と沖縄住民との心温まる交流談や日本兵に命を救われたといった回顧証言も報道されていた。 その頃までは沖縄紙も、「沖縄住民を助けた心優しき日本兵」の記事を報じる余裕があったのだ。 昭和56年12月20日付の沖縄タイムスに次のような記事がある。 ≪ニ中の犠牲が少なかったのは配属将校の勇気ある決断 「ニ中の鉄血勤皇隊に犠牲者が少なかったのは、配属将校・高山代千八大尉(鹿児島県出身)の勇気ある行動があったから・・・」−さる10月、本紙夕刊連載中の「私の戦後史」に掲載された城間盛善氏(77)=沖縄市胡屋13、城間学園校長・当時ニ中英語教師=は、このような沖縄戦秘話を公表した。 連載終了後、鹿児島地裁判事をしている長男の盛俊氏(47)を通じて高山さんの遺族を捜していたが、14日鹿児島に遺族がいるという連絡が入った。
城間氏は当時のもようを「私の戦後史」にこう書いている。 “ニ中の鉄血勤皇隊は、初め戦闘予想地域である南部の高嶺村に配置される予定だった。 しかし、高山大尉は、前途ある若者を無為に殺したくはないと思われたのだろう。 連隊区司令部会議で「ニ中は校舎が焼けたので、金武小学校へ移動した」と強引に主張。 それで、急転直下、北部へ配置換えになったのである。
ところが実際には、まだ移動していなかった。 高山大尉の言葉を裏付けるため、実績を作らなければならない。 移送係だった城間氏は、急いで生徒を北部へ送った。
高山大尉はニ中に赴任する前、ガダルカナル島の戦闘に参加した経験を持っていた。 おそらくアメリカの強力な設備、偉大な戦闘力を知っていたのだろう。 悲劇を見通していた高山大尉の英断は、さらに続いた。
城間氏が後を追って金武に着いた時は、既に勤皇隊は解散された後。 「勤皇隊の参加承諾書に親のなつ印をもらって来い。だが米軍の上陸は間近だから、無理に帰隊することはない」と、高山大尉が合法的に親元へ帰していたのだった。 南部地区に配置された一中と師範が多くの死者を出したのに対し、ニ中はどれだけの若い命が救われたかしれない。
城間氏が長い間、口を閉じていたのは、高山元大尉の気持ちも考えてからだった。 合法的で軍規律に反するものは何もないが、あの時代には裏切り行為ともとられかねない。 もしかしたら発表されたくないのでは、と思っていたという。 この事実を知っていたのは、校長と教頭、城間氏の三人だけ。 だがその中で生き残っているのは城間氏一人になった。 「いつか言わなければ事実が埋もれてしまう。 そこへ戦後史執筆の依頼。 本当にいいチャンスを作ってくれた」と話す。
新しい秘話だけに、反響は大きかった。 二中卒や勤皇隊の人たちはは、「そんな裏話があったとは・・・」と驚いているという。(「沖縄事始め・世相史事典」編著 山城善三)≫ ◇ ニ中の学生が戦火の少ない北部に急遽配置換えになり、多くの学生の命が戦火を免れたが、一方激戦地の南部に配置された一中(現在の首里高校)の学生には多くの犠牲者が出た。
一中の学生の戦没者を顕彰する碑文。 戦跡があるんですよ。 多くの戦没者を顕彰するのも大事なことだが、高山大尉のように犠牲者を出さないように努力した人のことも我々は忘れるべきではない。 記事に出てくるニ中(県立第二中学)は、現在の那覇高校で筆者の出身校であるが、多くの先輩が配属将校・高山大尉の勇気ある決断により命拾いしたことは聞いた事はなかった。 本来だったら「ニ中勤皇隊の命の恩人」として高山大尉の顕彰碑を、校庭の片隅にでも建立してバチは当たらないだろう。 高山大尉のような軍人の人間的行動を顕彰したり、記事で紹介することは、 現在の沖縄の風潮では「戦争を賛美する」として、イデオロギー論争にすり替えられてしまう。 激戦地のガダルカナルでの米軍の壮絶な攻撃を経験した高山大尉が、配属将校として赴任したニ中の学生たちをむざむざ死が待っている南部への配置することを不憫に重い、嘘をついてまで強引に、安全な北部へ配置転換させた。 この重大な「軍事機密」を知っていたのは「首謀者」の高山大尉と学校側では校長、教頭そして移送係りの城間先生の三人だけであった・・・・。 三人の先生は「軍事機密」を墓場の中まで持ち込むことを誓い合ったが、 校長、教頭が次々物故する知らせを受け、一人残された城間先生は遂に誓いを破る決意をする。 これは決して「戦争賛美」のドラマではない。 平和な時代にも戦争の時代にも自分のことより他人の命を慮り勇気ある行動をする人がいる。 高山大尉と三人の先生の「秘密」は「戦争賛美云々」を飛び越えて、人間の心優しさを訴える人間ドラマである。 このドラマチックな逸話をどなたか小説にでも書いてくれませんかね。 ◇ 高山大尉のご親族の方から丁重な感謝のメールをいただいたので早速お礼の返事を出し高山大尉の生前のお話など知らせて欲しいと申し出た。 だが、高山大尉は昔の武人らしく生前、奥様(祖母)にも沖縄戦のことは一切話しておらず、記事に出てくる城間さんの勇気ある証言によって家族一堂(祖母も母達も)知ることができたとのこと。
そして、偶然閲覧した当日記によって祖母をはじめ親類一同が、改めて祖父の勇気の大きさを知る事ができたとのことで、高山大尉に関する新しい話は残念ながら聞くことはできなかったが、返信には次のようなことが書かれていた。 「多くの犠牲になられた方々、そのご遺族のお気持ちを考えると、私達が堂々と話す事ではないのかもしれません。
ただ、祖父の勇気に身内ながら感動しました。」
「祖母は昨年だったと思いますが、沖縄へ母の妹と旅行。沢山の写真を片手に今でも思い出話を聞かせてくれます。」 いまどきの人間なら自分のやったことを針小棒大に宣伝するのが通常だが、ダルカナルの激戦や沖縄戦を経験した高山大尉は、生き延びた奇跡を喜びより、散華した戦友のことを考え、家族にも語らず寡黙な一生を過ごしたのではないかと推測する。 特に沖縄戦に関しては、沖縄紙を中心に異常とも思えるほどの日本兵バッシングを見聞きし、複雑な思いのまま亡くなられたと思うと、一人の沖縄県人、いや日本国民として心が痛む。 だが、遅まきながらも高山大尉の奥様が、ご主人様の武人らしい行動を知ることが出来、晴れ晴れとした気持ちで沖縄旅行を楽しむことが出来たと知って少しは高山大尉へのご冥福に寄与できたと感じ、沖縄県民として救われた気がした。
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また、私達孫世代も改めて戦争というものを知るきっかけとなりました。>
最後に丁重な文体で当日記への感謝を表し文を結んでいた。
ずいぶんもったいぶったが、二年前高山大尉について書いた記事を紹介する。 なお文体の怪しい部分は一部訂正してある。
沖縄の学生を救った配属将校・高山大尉 当日記を愛読していただいている方には再三の繰り返しで恐縮だが、しつこいのを承知であえて繰り返す。 最近の沖縄紙を見るたび、沖縄戦で戦った日本兵は、米兵を敵にして戦ったというより、むしろ沖縄住民を虐殺するために戦ったような印象を受ける。 事実、そのような記事を教材に使って、「日本兵は残虐非道」であったと授業で教える教師もいる。 マスコミの扇動にのった地元大学生は、同じく「日本兵の悪行」を訴える演劇を上演し、沖縄教育界が一丸となって日本兵の悪行を糾弾している現状である。 ■全国から20万人もの兵士が沖縄に集結した■ 沖縄戦には日本全国、北は北海道から南は鹿児島、そして地元沖縄からも数多くの若者が兵士として動員され、その数は実に20数万人にも及ぶ。 現在のおよそ半分の人口しか居なかった当時の沖縄で、この20万人という数字は島中に兵隊が溢れていたといってもおかしくはない状況であった。 だが、いつの世でも人間にはいろんな種類の人がいるもの。 20万人もの人間が沖縄に集結したら、中には悪さをする人が出てきても不思議ではない。 日本兵の中に不届きな日本兵が一人もいなかったとは思わないが、はたして沖縄紙が報じるように日本兵は犯罪者集団のように沖縄住民に危害を加えたり略奪だけをしていたのか。 いやそうではない。 日本兵に救われた沖縄人も多数居たのだが、イデオロギーまみれの沖縄紙が報道しないだけの話である。 ところが沖縄タイムスも、戦後のある時期までは日本兵と沖縄住民との心温まる交流談や日本兵に命を救われたといった回顧証言も報道されていた。 その頃までは沖縄紙も、「沖縄住民を助けた心優しき日本兵」の記事を報じる余裕があったのだ。 昭和56年12月20日付の沖縄タイムスに次のような記事がある。 ≪ニ中の犠牲が少なかったのは配属将校の勇気ある決断 「ニ中の鉄血勤皇隊に犠牲者が少なかったのは、配属将校・高山代千八大尉(鹿児島県出身)の勇気ある行動があったから・・・」−さる10月、本紙夕刊連載中の「私の戦後史」に掲載された城間盛善氏(77)=沖縄市胡屋13、城間学園校長・当時ニ中英語教師=は、このような沖縄戦秘話を公表した。 連載終了後、鹿児島地裁判事をしている長男の盛俊氏(47)を通じて高山さんの遺族を捜していたが、14日鹿児島に遺族がいるという連絡が入った。
城間氏は当時のもようを「私の戦後史」にこう書いている。 “ニ中の鉄血勤皇隊は、初め戦闘予想地域である南部の高嶺村に配置される予定だった。 しかし、高山大尉は、前途ある若者を無為に殺したくはないと思われたのだろう。 連隊区司令部会議で「ニ中は校舎が焼けたので、金武小学校へ移動した」と強引に主張。 それで、急転直下、北部へ配置換えになったのである。
ところが実際には、まだ移動していなかった。 高山大尉の言葉を裏付けるため、実績を作らなければならない。 移送係だった城間氏は、急いで生徒を北部へ送った。
高山大尉はニ中に赴任する前、ガダルカナル島の戦闘に参加した経験を持っていた。 おそらくアメリカの強力な設備、偉大な戦闘力を知っていたのだろう。 悲劇を見通していた高山大尉の英断は、さらに続いた。
城間氏が後を追って金武に着いた時は、既に勤皇隊は解散された後。 「勤皇隊の参加承諾書に親のなつ印をもらって来い。だが米軍の上陸は間近だから、無理に帰隊することはない」と、高山大尉が合法的に親元へ帰していたのだった。 南部地区に配置された一中と師範が多くの死者を出したのに対し、ニ中はどれだけの若い命が救われたかしれない。
城間氏が長い間、口を閉じていたのは、高山元大尉の気持ちも考えてからだった。 合法的で軍規律に反するものは何もないが、あの時代には裏切り行為ともとられかねない。 もしかしたら発表されたくないのでは、と思っていたという。 この事実を知っていたのは、校長と教頭、城間氏の三人だけ。 だがその中で生き残っているのは城間氏一人になった。 「いつか言わなければ事実が埋もれてしまう。 そこへ戦後史執筆の依頼。 本当にいいチャンスを作ってくれた」と話す。
新しい秘話だけに、反響は大きかった。 二中卒や勤皇隊の人たちはは、「そんな裏話があったとは・・・」と驚いているという。(「沖縄事始め・世相史事典」編著 山城善三)≫ ◇ ニ中の学生が戦火の少ない北部に急遽配置換えになり、多くの学生の命が戦火を免れたが、一方激戦地の南部に配置された一中(現在の首里高校)の学生には多くの犠牲者が出た。
一中の学生の戦没者を顕彰する碑文。 戦跡があるんですよ。 多くの戦没者を顕彰するのも大事なことだが、高山大尉のように犠牲者を出さないように努力した人のことも我々は忘れるべきではない。 記事に出てくるニ中(県立第二中学)は、現在の那覇高校で筆者の出身校であるが、多くの先輩が配属将校・高山大尉の勇気ある決断により命拾いしたことは聞いた事はなかった。 本来だったら「ニ中勤皇隊の命の恩人」として高山大尉の顕彰碑を、校庭の片隅にでも建立してバチは当たらないだろう。 高山大尉のような軍人の人間的行動を顕彰したり、記事で紹介することは、 現在の沖縄の風潮では「戦争を賛美する」として、イデオロギー論争にすり替えられてしまう。 激戦地のガダルカナルでの米軍の壮絶な攻撃を経験した高山大尉が、配属将校として赴任したニ中の学生たちをむざむざ死が待っている南部への配置することを不憫に重い、嘘をついてまで強引に、安全な北部へ配置転換させた。 この重大な「軍事機密」を知っていたのは「首謀者」の高山大尉と学校側では校長、教頭そして移送係りの城間先生の三人だけであった・・・・。 三人の先生は「軍事機密」を墓場の中まで持ち込むことを誓い合ったが、 校長、教頭が次々物故する知らせを受け、一人残された城間先生は遂に誓いを破る決意をする。 これは決して「戦争賛美」のドラマではない。 平和な時代にも戦争の時代にも自分のことより他人の命を慮り勇気ある行動をする人がいる。 高山大尉と三人の先生の「秘密」は「戦争賛美云々」を飛び越えて、人間の心優しさを訴える人間ドラマである。 このドラマチックな逸話をどなたか小説にでも書いてくれませんかね。 ◇ 高山大尉のご親族の方から丁重な感謝のメールをいただいたので早速お礼の返事を出し高山大尉の生前のお話など知らせて欲しいと申し出た。 だが、高山大尉は昔の武人らしく生前、奥様(祖母)にも沖縄戦のことは一切話しておらず、記事に出てくる城間さんの勇気ある証言によって家族一堂(祖母も母達も)知ることができたとのこと。
そして、偶然閲覧した当日記によって祖母をはじめ親類一同が、改めて祖父の勇気の大きさを知る事ができたとのことで、高山大尉に関する新しい話は残念ながら聞くことはできなかったが、返信には次のようなことが書かれていた。 「多くの犠牲になられた方々、そのご遺族のお気持ちを考えると、私達が堂々と話す事ではないのかもしれません。
ただ、祖父の勇気に身内ながら感動しました。」
「祖母は昨年だったと思いますが、沖縄へ母の妹と旅行。沢山の写真を片手に今でも思い出話を聞かせてくれます。」 いまどきの人間なら自分のやったことを針小棒大に宣伝するのが通常だが、ダルカナルの激戦や沖縄戦を経験した高山大尉は、生き延びた奇跡を喜びより、散華した戦友のことを考え、家族にも語らず寡黙な一生を過ごしたのではないかと推測する。 特に沖縄戦に関しては、沖縄紙を中心に異常とも思えるほどの日本兵バッシングを見聞きし、複雑な思いのまま亡くなられたと思うと、一人の沖縄県人、いや日本国民として心が痛む。 だが、遅まきながらも高山大尉の奥様が、ご主人様の武人らしい行動を知ることが出来、晴れ晴れとした気持ちで沖縄旅行を楽しむことが出来たと知って少しは高山大尉へのご冥福に寄与できたと感じ、沖縄県民として救われた気がした。
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