沖縄の出版界が出版を拒否した
問題の書!
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『沖縄に内なる民主主義はあるか』
著者:又吉康隆
出版社:ヒジャイ出版
定価:1735円(税・送料込み)
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ドキュメンタリー作家の上原正稔さんが琉球新報を「言論封殺」で那覇地裁に提訴した「パンドラの箱掲載拒否訴訟」。
その判決日(20日)が一週間後に迫った。
当日記は本日より判決日まで
カウントダウンを行います。
★「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の
判決日まで残り6日です。
(裁判傍聴と報告会のご案内は文末に掲載)
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「訪米前に沖縄行けぬか」 昭和天皇、側近に問う屋良朝苗氏の日記=沖縄県公文書館
昭和天皇が1975年の初訪米を前に「米国より先に沖縄県に行くことはできないか」との意向を側近に示していたことが13日、分かった。沖縄県公文書館が今年9月に公開した当時の屋良朝苗知事(故人)の日記に、宇佐美毅宮内庁長官(当時)の話として記されていた。
昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。 2012/11/13 19:55 【共同通信】
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今ではノンフィクション界の落ちた偶像どころか「パクリの虚人」と囁かれる佐野眞一氏は、11月4日宜野湾市で行われた講演会で、沖縄に媚びる「大文字言葉」を乱発した。 オスプレイ問題に関しても、沖縄2紙の見出しをなぞる程度の薄っぺらな知識で、「欠陥機」「危険なオスプレイを配備するのは沖縄に対する差別」などと沖縄左翼や沖縄2紙が聞いたら泣いて喜ぶような「大文字言葉」の大サービスであった。
おそらくは沖縄紙の見出しの「島ぐるみオスプレイ阻止」の「島ぐるみ」を見てオスプレイ反対が県民の総意であると考えたのだろう。
ところが会場から、「オスプレイの事故率は海兵隊軍用機平均の事故率より低いのに、オスプレイだけが危険という根拠なんですか」と問われ、「事故率が低いのは知らなかった。勉強不足だった」と直に己の無知を認めたが、「いずれにせよ、アメリカでは飛んでいない欠陥機を沖縄に配備するのは危険」などと開き直ったが会場から「アメリカでも飛んでいる」と声が上がり、佐野氏が立ち往生した。
佐野氏が沖縄では沖縄2紙の論調を繰り返せば受けるだろうと高をくくって、大恥を晒したことは前にも書いたが、実は当日の講演会で上記引用記事に出てくる「天皇メッセージ」についても触れており、沖縄左翼が狂喜乱舞するような言説を吐いていた。
「昭和天皇が命乞いのため沖縄をアメリカに売り渡した」という例の言説である。 言葉が不明瞭でよく聞き取れなかったが、誰かの記者会見で「沖縄売渡しの天皇メッセージ」が明らかになったと言うのだ。
佐野氏によれば昭和天皇は自分が沖縄を売り渡したという贖罪意識のため生前沖縄の地を踏むことが出来ず、代理に沖縄訪問をした皇太子ご夫妻(今上陛下ご夫妻)が過激派の火炎瓶攻撃を受けたのも昭和天皇の「天皇メッセージ」のせいだとのこと。
昭和天皇は生前、全国行幸で唯一訪問できなかった沖縄行幸を希望していたと伝えられていたが、今回の屋良朝苗氏の日記の発掘で昭和天皇が沖縄訪問を希望していたことが事実として確認されたことになる。
昭和天皇個人はアメリカより先ず沖縄訪問を切望しておられたが、復帰後急速に左傾化した沖縄の状況に鑑み、保安上の都合で天皇の意志は叶えられなかったのが事実である。 その後も再三沖縄訪問を希望されたが体調を崩し、ついに沖縄訪問と言う心残りのまま逝去されたことは周知のとおりである。
>昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。
これに関して反日サヨクが「沖縄売渡し」と糾弾するが、全ては悪意の推量に過ぎない。
>識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。
ここでいう「沖縄に犠牲を強いたという負い目」も反日サヨクの悪意ある推量にかかると「命乞いのため沖縄を売り渡した負い目」と悪意ある推量に置き換えられてしまう。
昭和天皇が沖縄に負い目を感じるとしたら、終戦の決断が遅れて沖縄で悲惨な地上戦が行われ戦後も米軍の占領下に委ねざるを得なかったことであり、「命乞いのため沖縄を売り渡した」からではない。
「戦勝国に占領された領土が一滴の血も流さず返還された例は、歴史上沖縄を措いてない」と言われるが、これには昭和天皇の深い叡智(潜在主権の主張)のなせる業だが、これに関しては後述する。
反日左翼に占領された感のある沖縄論壇では、日頃は保守を自認する人でも「天皇メッセージで沖縄は売られた」を妄信する人が多く、天皇の責任は追及すべきと言う保守系論客さえ散見される。
敗戦国の君主は、ほとんどすべて、命乞いをするか、海外に逃亡する。
昭和天皇は、敗戦を受け入れながらも命乞いをしなかった唯一の君主といえるが、これについても後述する。
先日も、ネットはやらないという知人の某氏から「天皇メッセージ」の英訳文が発見されたという話を聞いたが、当時GHQの政治顧問だったシーボルトが天皇御用係寺崎英成氏が忖度した「伝聞」を自分なりに解釈しワシントンに送った英文の手紙(署名は勿論シーボルト)のことであった。
少なくとも天皇自筆の「天皇メッセージ」なるものは歴史上発見されていない。
それに「昭和天皇が命乞いした」などは反日サヨクが天皇糾弾のために用いる常套句であり、「マッカーサー自伝」によれば、昭和天皇は初めてマッカーサーを訪問した時の様子を次のように記している。
≪天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。≫(「マッカーサー自伝」天皇との会見 下巻pp141-143)
【「天皇メッセージ」と称するシーボルトの手紙を公表した沖縄公文書館】
【GHQ顧問シーボルトの手紙の画像】
≫PDF画像(2頁)(226KB)
「天皇メッセージ」については過去にエントリーしているの「昭和天皇が沖縄を売った?馬鹿な!」から一部抜粋し引用する。
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昨日のエントリーに続いて本日も「疎開」について書く予定であったが、「おまけ」に書いた「潜在主権」に絡む「天皇メッセージ」に読者の反響が多かったので、その中からコメントを二つ引用するする。
■宮古島よりさんのコメント
「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」として反米左翼複合体がデマの宣伝活動に利用している、悪名高き「沖縄メッセージ」とはいかなるものか。
「沖縄メッセージ」とは、昭和22年(1947年)宮内府御用係の寺崎英成がGHQ外交局長ウィリアム・シーボルトへ沖縄に関する天皇の意見として伝えたもの。
以下、ウィリアム・シーボルトの記録。
「天皇は米国が沖縄をはじめ、その他の琉球諸国に対する軍事占領を継続するよう希望している。天皇の意見では、そのような占領はアメリカの利益になり、また、日本を防衛することにもなる、ということである。
また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸国)に対する米軍の軍事占領は、主権を日本に残したまま、長期(※中略)25年ないし50年またはそれ以上の租借方式という擬制に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は、米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利要求を封ずるであろう。」
つまり、沖縄を日本に主権を残したまま(潜在主権)、租借方式という擬制は(あくまでレンタル)、米国占領統治によりソ連や中国の共産主義を跳ね除け(日本の国防の米国に担ってもらう)、いずれ長期租借が解かれたとき、琉球諸島は日本復帰するという昭和天皇の沖縄に対する確固とした意思が分かる。
「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というのは大いなる間違い。
「思わざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果さぬ つとめありしを」
昭和63年8月には、天皇皇后両陛下の沖縄への来島は決定していた。病気になられても、なお、陛下は沖縄への思いはあった。
☆
■涼太さんのコメント
本日のエントリーで長年の疑問が解決しました。
例えば、「戦傷病者遺族等援護法」も「教科書無償法」も日本本土と、同時期に導入されています。米国の委任統治だからこそ、チャント日本国の行政サービスがあったのですね。
特に、援護法などは民間人にまで50年間に渡り、それこそサラリーマンの生涯賃金に匹敵する額が支給されています。
それでグダグダ言っていたら罰が当たります。
よく言われる基地負担も、今度の大震災で明らかにされた電力負担、それ以外にも京浜工業地帯も公害に苦しんでいます。これなどは産業負担なのでしょう。国には様々負担があります。
それを日本国で分かち合っているのだと思います。
常々思うことだが当日記の読者はレベルが高いのが自慢であり、筆者の説明では足らない部分を埋め合わせてくるので助かるのだが、宮古島よりさんが筆者が敢て触れなかった「天皇メッセージ」の文言を挙げてその概略を説明して下さっている。
一方の涼太さんが、主権は日本のまま米軍統治下になった沖縄で「援護法」や「無償措置法」が適用されたことに着目されたことはさすがです。
日本政府が「援護法」や「無償措置法」を適用したのは、戸籍を残したまま里子にやった子ども(沖縄)が、いつかは祖国に帰ってくるという昭和天皇の親心(「天皇メッセージ」)を政府当局が勘案したからに他ならない。
さらに沖縄の教育に関して、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国負担で受け入れている(国費留学制) ちなみに仲井真県知事はこの国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業している。
いわゆる「天皇メッセージ」とは、、宮中御用掛の寺崎英成が昭和天皇との会話の中から聞き取った天皇の気持ちを、昭和22年9月19日(金)に総司令部政治顧問シーボルトに伝え、それをシーボルトが英訳してワシントンに送ったとされことである。
これも沖縄に関する大きな誤解の一つだが、保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。
筆者の知人にも終戦時、既に米軍占領下にあった沖縄が米国統治になったのはやむ得ないとしても、「天皇自らが(命乞いのように)沖縄を売り渡す手紙を書いた」のは許せないと息巻く人もいるくらいだが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。
寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。
「天皇メッセージ」はシーボルトの手紙では"Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"と訳されている。
だが近代史研究家の秦郁彦氏も驚嘆するように、敗戦直後の社会党政権(片山内閣)下で、当時の社会情勢では政府の誰もが思いも及ばなかった「主権は残した(潜在主権の)まま」いつかは祖国に帰る日のために委任統治という方法を思いついた昭和天皇の判断力の確かさは「天皇メッセージ」というより、いまでは死語になりつつある「昭和天皇の大御心(おおみごごろ)」と訳した方が的を射ているのではないか。
秦郁彦氏はいわゆる「天皇メッセージ」についてその著書「昭和天皇五つの決断」(文藝春秋)で、次のように述べている。
「23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には脱帽のほかない・・・」
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「天皇メッセージ」(昭和天皇の大御心」について稿を改めて詳述すると書いたが、とりあえず凪論さんの孫引きで、小林よしのり氏の「昭和天皇論」を、全文引用させて頂いた。
小林よしのり著「ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論」を読む 2 〜サンフランシスコ講和条約と先帝陛下のかかわりの虚と実〜「昭和天皇論」は、先帝陛下が政治家として動かざるを得なかった時代に脚光をあてている。その中で非常に興味深いのがサンフランシスコ講和条約直前における先帝陛下と政治のかかわりである。昭和24年9月にソ連が原爆保有を表明し、同年10月に中華人民共和国が成立した。それはまさに「アジアの冷戦は朝鮮半島、台湾海峡、ベトナムでいつ熱戦に転じてもおかしい状況下」であり、日本国内で強硬に主張されていた「全面講和」は絵空事に過ぎなかった。
当時占領軍のトップであったマッカーサーは
「日本としては永久中立が保たれればそれが理想であります。また米ソ双方にとっても利益である筈であります。」(昭和25年4月18日第10回会見)
「(日本は)将来いかなる戦争があろうとも中立を保たなければならない。ソ連も軍事上の利点から日米の中立を尊重するものと信じている。」(「リーダーズ・ダイジェスト」)
と現実離れした「非武装中立」を主張し、アメリカ政府はアジアの共産主義との対立のために日本の再軍備と米軍の基地保有が必要との見解に立っており、両者の間の溝は非常に大きいものであった。その中で吉田茂総理大臣はマッカーサーに対しては米軍駐留の主張を引っ込め、ダレス国務省顧問に対しては日本側からの米軍駐留申出を行う用意があることを示唆するなど日本の立場は混乱していた。そのような状況下でダレス国務省顧問が来日し、案の定日本側の姿勢に激怒した。その中で側近の松平康昌を通してダレス国務省顧問にメッセージを送ったのが先帝陛下であった。「吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できず、米軍駐留に関する交渉は吉田とマッカーサー以外の人物によって行うべきだ」という趣旨のメッセージを送り、マッカーサーの頭越しに日米の講和交渉が行われるきっかけとなった。
先帝陛下のメッセージで大きな影響を受けたのが沖縄である。連合国側には米軍による沖縄の信託統治や日本の沖縄に対する主権放棄を主張する声が非常に強く残っており、沖縄が日本から切り離される危険性は非常に高いものであった。ダレス国務省顧問は、
「日本に主権を残しつつ米国の戦略的要請を確保していると解釈解釈できる条約を作るもので、以前の国際法には見られない表現」
である「潜在的主権」という表現を用いて意見を調整し、沖縄の本土復帰において法的根拠となったのはまさにこの「潜在主権」であった。小林氏は
「もし昭和天皇が米国政府に『沖縄メッセージ』を送らなかったら?
そしてやる気を失いかけていたダレスに絶妙のタイミングでメッセージを送って感激させていなかったら?
歴史は違う方向に動いていたかもしれない。
当時の日本には、ここまで現実的に日本を護るための手段を打てる政治家は他に誰もいなかったのである!」
と結ぶ。
そのような講和交渉の現実を見ると、漫画原作者の雁屋哲氏が「美味しんぼ日記」で
<map id="map_mdbwehrw" name="map_mdbwehrw"> <area shape="rect" coords="187,46,302,58" href="http://kariyatetsu.com/category/nikki" alt="" /> </map>
鳩山由紀夫氏を攻撃するのは誰か | 雁屋哲の美味しんぼ日記 via kwout
「沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。
それは、昭和天皇である。
昭和天皇が『沖縄にずっとアメリカ軍に存在して貰いたい』といったのが始まりではないのか。
昭和天皇の沖縄についての発言は、いちいち、私はここで挙げないが,様々な文書で明らかにされている。
もし、私の言葉に疑いを抱く人がいたら、ちょうど良い機会だ、昭和天皇の言行録を、当たって欲しい。ちょっとした図書館に行って、昭和天皇についての書籍を調べれば、すぐに分かることだ。(その意図があるから、私はわざと、文書をここに引用しないのだ。読者諸姉諸兄が自分の目で、昭和天皇が何を言ったのか読んで欲しい。それで、驚かなかったら、おかしい)
昭和天皇が、沖縄をアメリカに渡すと言った言葉に従って、その後の政府は忠実にアメリカに沖縄を自由に使うことを許してきた。
歴代の自民党政府が六十年以上にわたって、アメリカに沖縄を自由に使うことを許してきたのだ。」
と述べているのは、雁屋氏の無知と傲慢をさらけ出すだけのものであると言える。
「また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸島)に対する米軍の軍事的占領は、主権を日本に残したまま、長期−25年ないし50年またはそれ以上の−租借方式という擬制(fiction)に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれにより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利の要求を封ずるであろう。」
と述べる先帝陛下のメッセージは間違いなく沖縄の本土復帰の法的根拠となった「潜在的主権」に沿ったものであり、連合国による沖縄の主権放棄への要求を封ずるものであったと言える。おそらく雁屋氏は無知をこじらせたか、史実を明らかにされると自らのイデオロギーにとって都合が悪いのであろう。
引用終了 ☆
「疎開」のひと言を取り上げても、極悪複合体(反日左翼)のように悪意に満ちた色眼鏡で見れば、「残虐非道の日本軍」の象徴になる。
昭和天皇が、アメリカが沖縄を永久支配しないことの保障のために、主権は残したまま(潜在主権)、施政権のみ一時預かる(委任統治)と、当時(昭和23年)の状況でいえば最適の判断をしたことも、悪意に満ちた極悪複合体に言わせれば「天皇が沖縄をアメリカに売り渡した」となるのである。
☆
【追記】
中国新聞が共同配信の後半部分も掲載しているので保存資料として引用する。(太字部分が後半)
中国新聞 '12/11/14
昭和天皇「訪米前に沖縄行けぬか」 側近に意向示す
昭和天皇が1975年の初訪米を前に「米国より先に沖縄県に行くことはできないか」との意向を側近に示していたことが13日、分かった。沖縄県公文書館が今年9月に公開した当時の屋良朝苗やら・ちょうびょう知事(故人)の日記に、宇佐美毅うさみ・たけし宮内庁長官(当時)の話として記されていた。
昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。
日記によると、屋良知事は皇太子(現天皇陛下)の沖縄国際海洋博覧会(海洋博、75年7月開幕)名誉総裁就任の正式発表を受け、あいさつのため同年4月16日に宮内庁を訪問。その際、宇佐美長官が知事に「天皇陛下から『私はどうするのだ アメリカに行く前に(沖縄に)行けないか』との御下問があって困った」と打ち明けたという。
当時は、同年9月末の出発に向けた初の天皇訪米の準備が本格化していた時期に当たる。
さらに日記には、宇佐美長官の話から、昭和天皇が「(海洋博に)外国元首が見えて、天皇が参加して居られぬ事になると大変具合が悪いとの事も話されたようだ」という記述もあった。
昭和天皇は終戦後、全国を回ったが、米占領下だった沖縄は訪問できなかった。
沖縄県は72年5月に本土復帰を果たし、同年11月に復帰記念植樹祭、翌73年5月に特別国体「若夏国体」が県内で開かれた。植樹祭と国体には天皇が出席するのが恒例で、屋良知事は植樹祭出席を「宮内庁に正式要請したい」と記者会見で明言したが、知事を支える革新陣営から強硬な反対論が出て、植樹祭も国体も昭和天皇の訪問は実現しなかった。
知事は復帰前の69年春と復帰直後の72年春の園遊会に招かれ、昭和天皇と直接の面識があったことから、日記には「(宇佐美長官から)陛下の御気持もうかがって胸がいたむ」とも書いている。
昭和天皇は87年10月開催の国体(海邦国体)での沖縄訪問が決まったが、直前に体調を崩して開腹手術を受けたため、天皇として沖縄の地を踏むことなく89年1月に逝去。93年4月の植樹祭で、現在の天皇陛下が歴代天皇として初めて沖縄県を訪問した。
【おまけ】
季刊誌「かみつき」の執筆者の1人である「光と影」さんが、「沖縄に内なる民主主義はあるか」と「かみつき」に関するコメントを書いていますので、一部抜粋して引用する。
☆
沖縄のマスコミは紙面や画面上では「編集権」を駆使して「正論」「不都合な意見」「異論」を徹底的にブロックして来た。
自らの「編集権」の及ばない筈である「自費出版」に対しても「自費出版拒否」という手段を使ってまで「言論封鎖」を行って来た。
ブログ等で個人の意見を書いても、マスコミが無視さえしていればネットをみない方達の目に触れる事はない。
電子書籍という手段もあるが、やはりネットをみない方たちには届かない。
「書籍」として店頭にならび初めて多くの方に読んでもらう機会がでてくるのだ。
今まで長年タイムス新報の記事を信じ込んでいた方達に報じられていなかった「別の」意見の「存在」を知っていただきたい。
ある意味、天動説に対する地動説の様なものだろう。
支那や北朝鮮の国民が、本当に自国の報道を信じているかどうか、私はわかりません。
しかし、日本人はあまりにも「マスコミを信じきっているお人好し、平和ぼけ」が多すぎるのではないでしょうか
「NHKが嘘を言う訳が無い」という方もいらっしゃいます。
本当にそうでしょうか。
沖縄の新聞テレビ報道に噓偽り、偏向報道はないのでしょうか。
偏向報道を全く無くす事は不可能ですが、意図的な偏向報道が余りにも多すぎないでしょうか。
沖縄言論封鎖の渦に巻き込まれた又吉康隆氏が放った「沖縄に内なる民主主義はあるか」という問いかけが出版社を立ち上げ、沖縄出版社として沖縄の中から出版された。
書籍「沖縄に内なる民主主義はあるか」は国会図書館にも沖縄県立図書館にも蔵書となった。
沖縄県産本として2ヶ月余り販売数1位を維持している。
これは沖縄県民の多くがタイムス新報をよみながら「なんかへんだぞ」と感じていたからに違いないでしょう。
マスコミの「嘘」に誰もが気付いていたが、口に出しては言えなかったのである。
「沖縄に内なる民主主義はあるか」は言論封鎖という巨大なダムに穿いた小さな小さな穴だった。
しかし、その穴はパンドラの箱まで通じてしまった。
季刊誌「かみつく」として、沖縄のマスコミ、識者等に続々と噛み付いていく事になるであろう。
潮の目は変わりつつあります。
議論を交わしあうことができる沖縄になるために一人でも多くの方に「沖縄に内なる民主主義はあるか」を読んでいただきたい。
そして、第二弾として季刊誌「かみつく」を書店で手に取ってほしい。
一人でも多くの方に購入していただく事が沖縄の言論封鎖を解く事に繋がると思います。
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パンドラの箱掲載拒否訴訟第十一回口頭弁論のご案内
昨年一月の提訴よりこれまでご支援賜りました本日記の読者の皆様に上原正稔氏に代わり心から感謝申し上げます。(本人は、報告会の度に支援者の皆様に感謝の弁を述べております)
いよいよ今月20日をもちまして判決を迎える事となりました。
多くの皆様の善意に支えられて裁判を進めて参りましたので良きご報告が出来るものと確信しております。
記
◆第十一回口頭弁論
日時 :十一月二十日(火) 午後一時十分より
場所: 那覇地方裁判所
◆記者会見 同日 午後二により県庁記者クラブにて
◆報告会
日時: 同日 午後三時より
会場 :青年会館(那覇市久米二の十五の二十三)
お問合せ: 三善会
〇九〇‐九七八〇‐七二七二(にしこりマデ)
平日ではありますが、多くの皆様が参加頂けるようにお願い申し上げます。
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琉球大学の学生たちが奮闘を続けています。
以前球大学内で、田母神講演会のネット中継で集った学生たちがグループを作って頑張っています。復帰40周年、沖縄と日本を考える講演会
テーマ:「若者にとって皇室とは」
〜天皇陛下を沖縄にお迎えするにあたって〜
沖縄県祖国復帰40周年の今年、11月18日(日)の「第32回全国豊かな海づくり大会・美ら海おきなわ大会」へのご臨席のため、17日から20日まで、天皇皇后両陛下が沖縄にいらっしゃいます。しかし、我々若い世代は、詳しく習ったことも無いため、天皇陛下、皇室とは何かをよくわからずにいます。
皇室については、様々な議論が有りますが、復帰40周年という節目の今こそ、沖縄の学生である我々が、これを学ぶべきではないでしょうか。そこで、学生時代に、両陛下ゆかりの地とそこの人々を、北は北海道、南は沖縄、国外ではサイパンと数多く取材された若手ジャーナリストの三荻 祥さんに講演を頂きます。奮ってご参加ください。
《講師:三荻 祥先生》
【講師プロフィール】昭和59年生。香川県出身。平成19年、長崎大学(教育学部)卒業後、全日本学生文化会議に奉職。皇居での勤労奉仕活動や、皇室と国民の間に生まれたドラマを調べるため、全国で取材活動を行う。平成22年、産経新聞主催「第25回土光杯全国青年弁論大会」で最優秀賞土光杯を授賞。平成24年、アパグループ主催「第5回真の近現代史観」論文にて、「戦歿者慰霊と日の丸掲揚運動から始まった沖縄の戦後復帰運動の父・屋良朝苗の虚像と実像」が佳作に入賞。共著『天皇陛下がわが町に日本に生まれた物語』『脅かされる国境の島・与那国だけが危機ではない!』(ともに明成社)、フジテレビ「新・皇室入門」にも出演。
■日時 平成24年11月15日㈭ 18:00開場、18:20開演(40分程度の講演の後、質疑応答、ディスカッションの時間を設けます。) ■場所 琉球大学 法102教室 ※入場無料 主催:沖縄から日本を考える学生の会(代表:琉大・法文二年 外間 完信)
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