「原告側の請求を認める」
酒井裁判長の判決文を詠む声が法廷内に響き渡った。
昨日(22日)の世界日報が、17日行われた「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の証人尋問の詳細を「沖縄のページ」のほぼ全面を使い大きく報道した。
この報道自体が、地元の事件を地元紙ではなく本土紙を通じてしか知ることが出来ないという沖縄のマスコミの異常さを象徴する「事件」である。
「パンドラ訴訟」は、地元の有力紙琉球新報と同紙に長期連載記事を書いたドキュメンタリ作家との言論封殺をめぐる前代未聞の裁判沙汰であるにも関わらず、地元マスコミが申し合わせて隠蔽したように、県民には知らされていない。
沖縄戦のドキュメントの連載記事を執筆した上原正稔氏が言論封殺されたとして同紙を法廷の場に引き摺り出した。
この「パンドラ訴訟」は沖縄の全マスコミが連帯して県民の目からの隠蔽を目論んでいる。
異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」を象徴するこの裁判は、いまや上原正稔氏対全沖縄マスコミという異常な様相を呈してきた。
地元紙が隠蔽する「パンドラ訴訟」の詳細を報じた世界日報の記事を全文引用する。(強調部分と注は引用者が施した)
まず見出しはこうだ。
「パンドラの箱」訴訟で証人尋問
<不明確な掲載の根拠>
過去の資料引用「二重掲載」と主張 琉球新報
「社の方針として拒否」浮彫に
ドキュメンタリー作家の上原正稔氏が琉球新報社に対して沖縄戦に関する連載『パンドラの箱を開ける時』の第ニ話の掲載を一方的に拒否されたとして未掲載分の原稿料や慰謝料など約1千万円の損害賠償を求めた訴訟の証人尋問が17日、那覇地裁で行われた。ドキュメンタリーには過去の資料の引用が重要であり、資料引用を理由に掲載を中断したことは表現の自由と著作権の侵害を主張した原告側に対し、被告側は原告の連載が「二重掲載」で「初出の内容を用いて原稿を書く」という契約に違反していると主張したが、ドキュメンタリーにおける過去の資料の引用と「二重掲載」の明確な違いを示しきれず、掲載拒否の根拠が不明確のまま終わった。同訴訟は、8度にわたる口頭弁論を経て証人尋問に入り、いよいよ大詰めを迎えた。(那覇支局・豊田 剛)
琉球新報社からの原稿依頼で上原氏が執筆した「パンドラ」の連載は2007年5月26日から琉球新報夕刊で始まり、第1話が終わったが、第2話の「慶良間で何が起きたのか」(注:慶良間諸島の集団自決に関して過去の資料を引用して「軍の命令がなかった」と明言する内容)の原稿を新聞社に渡したところ、2話掲載予定の前日の同年6月18日、一方的に掲載拒否を通達された。約4カ月後に連載は再開されたが、資料としては貴重な渡嘉敷島旧指揮官の赤松嘉次(あかまつよしつぐ)氏の手紙の内容を記述した最終回の181回目の原稿掲載も拒否された。このため、上原氏は昨年1月、「連載拒否は、表現の自由侵害と著作権侵害にあたる」として琉球新報社に対し訴訟を起こした。
17日証人尋問に立ったのは原告側からは上原氏と沖縄県文化協会会長で『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏。被告側は、当時、琉球新報の編集局次長兼文化部長だった枝川《えがわ》健治・総務局付参与と当時編集委員として連載終盤を担当した名城知二朗・デジタル戦略室長だ。
尋問は、原告側の星氏から始まった。星氏によると、2007年8月頃、琉球新報から依頼されて書いた「集団自決において軍の命令はなかった」という内容の原稿が、担当記者によって大幅に縮小・書き換えられた上、後になって「社の方針に合わないので、やはり掲載できない」と言われ、依頼された原稿が「社の方針」で一方的に拒否されたことを証言した。担当者から「原稿料を払う」と言われたが、星氏はこれを受け取らなかった。
被告側弁護士は、「新聞社には編集権というものがある」「持ち込まれた原稿がすべて掲載されるとは限らない」と反論したが、星氏は、「琉球新報に依頼されて書いた原稿はあるが、持ち込んだ原稿はこれまで一度もない」と証言した。
続いて被告側の証人として枝川氏と名城氏が尋問を受けた。被告側の言い分はこうだ。
▼新聞社は、連載第1話、第2話の内容が上原氏のかつての連載『沖縄戦ショウダウン』の内容とほぼ同じで、「二重掲載」と判断、掲載拒否を決めた。▼一字一句同じ文字の二重掲載に原稿料を払えない▼新聞社として二重掲載は常識的に許されるものではない――。
『沖縄戦ショウダウン』は琉球新報に1996年6月1日から13回連載されたもので、米海兵隊の第77歩兵師団所属のグレン・シアレス伍長の手記(上原氏の翻訳)を元に書かれたドキュメンタリーだ。枝川氏は「およそ、小説であるかドキュメンタリーであるかを問わず、過去に発表したものと同じ文章を使用することは許されるはずがない。百歩譲って同じ文章を使うにしても表現を変えるもの」と主張。
これに対して原告代理人の徳永信一弁護士は反対尋問で、「ドキュメンタリーは事実と資料に基づいて人間の物語を書くこと」と追及。枝川氏は「はい」と承知したものの、『パンドラ』については引用している部分が長いので「二重掲載」、せめて地(じ)の文章くらい書き換えるべきだと反論した。
「では地の部分でどこに二重掲載があるのか示してください」と徳永弁護士が『パンドラ』の連載原稿と『沖縄ショウダウン』の連載を枝川氏に見せると、引用以外の記述が全く異なっていた為、「即答できない」と口ごもった。被告側の連載拒否理由の論理が破たんした瞬間だった。
名城氏の陳述も、二重掲載は契約違反に当たるということに終始した。しかし、『パンドラ』の連載180回のうち同じ資料の引用は3回分であり、新聞社が二重掲載を理由に連載中断した根拠に乏しい。上原氏は「初出の資料を使う」という契約はなかったと主張している。
当時、歴史教科書における沖縄戦の内容で集団自決の軍命の記述を削除する検定意見に抗議する「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が行われるなど、県内マスコミは一丸となって抗議していたが、名城氏は、琉球新報も検定意見撤回のキャンペーンを張っていたことを認める証言をした。今回の証人尋問で、集団自決に「軍命はなかった」という内容の意見、論調は「社の方針として」掲載しないという新聞社の偏向ぶりが浮かび上がった。
上原氏によると、連載開始から連載に責任を持ち、中断を決めたのは、当時の編集委員である前泊博盛・沖縄国際大学教授だという。このため、前泊氏が当初証人尋問に出廷する予定だったが、6月の口頭弁論の当日になって被告弁護士が証人撤回を申し出てきた。
裁判後の報告会で、徳永弁護士は「前泊氏が証言を回避した理由は『敵前逃亡』にほかならない」と断言。「社会の公器たる琉球新報が(前泊氏の証言を避けたことで)どういうものなのか明らかになったのではないか」と琉球新報の編集体質に疑問を投げかけた。
同裁判の目的について、徳永弁護士は「単なる法律上の問題だけではなく、社の方針やキャンペーンに反する事実を無視し、自分たちの都合のいいものしか発信しないことを世間に知らしめ、本土に間違って伝えられている“沖縄の世論”がいかに歪められていることを明らかにするもの」だと指摘した。
この裁判の意義について上原氏は「沖縄のマスコミのあり方を正す意味で重要な裁判」と強調。星氏も、「マスコミの間違った姿勢を糾したい」と訴えた。
琉球新報は7月21日現在、同裁判の記事については掲載していない。
同裁判は9月18日、最終弁論をもって結審し、年末頃にも判決が下される見通し。