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新聞の印象操作とは恐ろしいもの。
知事が、第32軍壕の説明版の記述で「『改ざん』は不適切」、と発言したとの見出しを見ると、一瞬、知事も発狂新聞の恫喝に負け他の課と思った。 やはり発狂新聞に迎合し前言を翻したのか考えたのだ。
ところがよく読むとそうではなかった。
記述削除の撤回を求める意見に対し仲井真弘多知事は「どうしても書けという理由の方が理解し難い。『改ざん』という言葉も全く不適切で、撤回するどころかむしろきれいに整理して、事実が確認できているものに限定するのは当然ではないか」と主張した。
テレビの発言をみると「どうしても書け」というかたがたの「良識」の問題とまで切って捨てている。
知事の強気の姿勢にエールを送りたい。
発狂新聞の顔色を窺うのに汲々としていた県知事が、このように強気の態度に出たのは、八重山教科書問題や宜野湾市長選で反日左翼複合体が完敗したことで、少しは自信が付いたのだろうか。
012年2月28日
「改ざん」は不適切 第32軍壕記述で知事
県議会(高嶺善伸議長)2月定例会は27日、一般質問初日の質疑を行い、野党7氏が登壇した。第32軍司令部壕説明板を検討する委員会がまとめた説明文から県が「慰安婦」や日本軍による住民虐殺の記述を削除したことについて、記述削除の撤回を求める意見に対し仲井真弘多知事は「どうしても書けという理由の方が理解し難い。『改ざん』という言葉も全く不適切で、撤回するどころかむしろきれいに整理して、事実が確認できているものに限定するのは当然ではないか」と主張した。
下地寛環境生活部長は「県として事実の確証が持てないため削除した」と従来の説明を繰り返した一方で、「沖縄戦全体における慰安婦の存在や住民虐殺そのものを否定したものではない」とも述べた。渡嘉敷喜代子氏(社民・護憲)への答弁。
野田佳彦首相が、日米地位協定の改定に向けた協議の場の設置を提案したことについて、仲井真知事は「ぜひもう一度作り直して進めていただきたい」と伝えたことを明らかにした。山内末子氏(新政クラブ)への答弁。(略)
☆
■続・沖縄住民「スパイ容疑虐殺」の真相 沖縄人スパイはいた!
米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。
だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。
人民党書記長瀬長亀次郎がその典型だった。
1950年の朝鮮戦争や、中華民国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、
CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。
米本国の政府高官だ視察のため沖縄を訪問したとき、空港に出迎えにいったユースカー(在沖統治機関)の幹部が、同行した地元琉球政府の幹部を紹介した。
「こちらが、ミスターセナガです」
遠来の米政府高官に対し、歓迎の意をこめてにこやかに握手を求めて手を出したセナガ氏に対し、高官はアメリカ人らしからぬ奇妙な反応を示した。
「オー、ノー! セナガ」
と叫んだ件の高官、握手の手を引っ込めたのだ。
隠れ共産党の瀬長亀次郎氏の「悪名」は米国本土政府の中にも知れ渡っており、
空港に出迎えた「セナガ」氏に思わず握手の手を引っ込めたのだろう。
米政府高官に握手を拒否された哀れな男は、当時の琉球政府副主席・瀬長浩氏の「瀬長違い」であった。
米政府高官が本気で握手拒否をしたのか、それとも握手を求めた男が「セナガ」と聞いて、
とっさに思いついたアメリカ人特有のジョークだったのか、今となっては確認出来ないが、
とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対しいかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。
厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。
瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>
◇
小林よしのり著『沖縄論』で、著者小林氏が犯した唯一の過ちは、
元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を沖縄の英雄と祭り上げて書いてしまったことである。
沖縄左翼を取り込む意図があったのだろうが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。
瀬長氏は米軍政府と自存のために戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた神話である。
瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした筋金入りの共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。
そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた様子が伺える。
瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。
終戦後の米軍統治下の沖縄でCICが暗躍した様子は、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年文芸春秋社 奥野修司著)に、
自らCIC要員として働いていた金城良安氏が赤裸々に語っている。
米軍統治下の沖縄でCICの代理人になった者は、教員、財界人、政治家と多士済々であったという。
CICの活動が目立たなかったのは、MPが制服であったのに対し、CICは私服で活動し、当時の合言葉であった「琉米親善」を口にする善良な民間アメリカ人を演じていたからだという。
<沖縄のCICはライカム(Rycom=琉球軍司令部)の管理下にあった。八重山民政府からCICに移った金城良安によれば、「八重山には3人ぐらいしかいませんでした。その下に協力者はたくさんいました。つまり情報提供者です。CICは密貿易そのものには関心がなかったのです。関心があったのは外からはいってくる人物です。スパイは密貿易船を使って移動したりしますからね。たとえば中国大陸から誰が来ているとか、そういうことには神経質になっていました」 ちなみにどんな情報提供者がいたのか、当時の軍政府に勤務したことのある人物に尋ねると、「当時の八重山には30人ぐらいおりましたかな。トップは学校の先生で次は財界人と政治家。なぜ協力したのかって? そりゃ、いろいろ便宜を図ってもらえるからだよ。あの頃の米軍は神様よ。もうほとんど死んだが、あのときCICに協力した者はみな大物になっているよ」 自らすすんで協力する人もすくなくなかったという。 CICは諜報活動はするが、基本的に密貿易の取り締まりはしない。 米兵がからんだ場合はCID(陸軍憲兵隊犯罪捜査部)が民警と一緒に動く。 CICもCIDも基本的には私服である。>(『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年奥野修司)
終戦後、CICに勧誘されて情報提供者になった住民のことは、よく聞く話だが戦時中に勧誘されてスパイになることは一か八かの大きな賭けであった。
もし、日本軍が勝利をしていたら間違いなくスパイ罪で死刑は免れないからだ。
一方、アメリカの勝利の場合は将来の豊かな生活を保障されていた。
事実南方帰りを自称して住民の中に混じって生活していた者が、戦後米軍服を着用して米軍ジープを乗り回している姿を目撃し、その男はその後ハワイで裕福な生活をしていたといった伝聞談は多い。
だが、自他共に認めるスパイで、戦後も「琉球王」とよばれたスパイの親玉の記事が本人の顔写真付きで、古い「月刊沖縄ダイジェスト」の記事になっている。
<米軍のスパイといわれ臨時琉球王
沖縄戦の、4月3日、美里村で捕虜になって以来、米軍に積極的に協力、降伏勧告放送もやり、沖縄本島の東西分断も進言、志喜屋孝信らの諮詢委員会ができるまでは「臨時琉球王」で、日本が勝てばスパイとして処刑確実という男がいた。 その名は首里生まれの多嘉良朝朋(当時70歳)。 米軍はそのお礼として昭和24年、米軍政府のセーファ大佐から、コカコーラの民間への一手販売権を与えるーと口約束されたが、中城公園売店でのコーラ横流し事件が摘発されて、おあずけのまま、不遇のうちに死んだ。>(「沖縄事始・世相史事典」月刊沖縄社)
◇
この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えたが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。
それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない。
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