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沖縄タイムスのオピニオン欄で、同紙の熱心な読者であるUさんが、先日の参院選で自民党公認の島尻候補が当選し、しかも投票率が全国最下位であることを知って「頭が空中分解する」と笑わせてくれた。
Uさんのような沖縄県人でも、沖縄紙の報道を鵜呑みにすると現実と報道のあまりにも大きな違いに頭が空中分解するのだろう。
静岡県人のMさんも沖縄紙や関連書物が撒き散らす「大文字言葉」(★註)で沖縄に同情し、静岡県からはるばる2007年の「11万人大会」や、今年の4月の「県民大会」に参加し黄色い「怒」をぶっつけたというから、ご苦労様なことである。
★註:「大文字言葉」とは、ドキュメンタリー作家佐野眞一氏の造語で、沖縄紙に取り憑かれた「知識人」が沖縄に同情して撒き散らすことば。文末に詳しい説明あり。
2010年7月17日付 沖縄タイムスオピニオン面
投票率最低に 失望と悲しみ M・Yさん=65歳 (静岡県)
県外の者が口出しすることではないかも知れぬが、今回参院選沖縄戦局の投票率が52・44%は正直言って一瞬目をを疑った。 自民党候補者が県民の信を獲得したことは、沖縄県が今日あることの恩義を県民が革新の側よりも強く抱いているのだと理解するしかない。
しかし、鳩山由紀夫前首相が辞任を余儀なくされた普天間基地移設問題で、あれほど盛り上がったイエロー旋風と「怒」の一文字は、とどのつまり全国ワースト1程度のものなんだったのか。
静岡県東部から教科書記述問題の県民大会や今年4月の県民大会に駆けつけ、みんなと心を一つにして沖縄県民の明日を、日本全体の明日をつくるために、主権在民の力・知恵を発揮しようと務めてきたわたしは、いま深い失望と悲しみに沈んでいる。
全国各地の沖縄への関心もまた元のもくあみだ。 沖縄の脱基地・平和運動は単なる沖縄の“売り”なのか。 率直に言おう。 沖縄県民が今問うべきこ、それは自らの甘えと能天気の所在だ。 ◇ 上記投稿とは前後するが当日記の読者の「太郎の嫁」さんから次のようなコメントがあった。 2010-07-13 22:55:03 太郎の嫁さん
<沖縄ほど頻繁に県民大会を開く県は他に例を知らない>
私の記憶では、県民大会を開く県は沖縄だけです。
私が住んでいる県(沖縄より小さい県です)で「県民総決起大会」とか想像できません。
例え出席者がプロ市民だけで一般人は自由参加だとしても、
「県民大会」と県全体を謳うことは許されないでしょう。
地元紙は真っ赤っかですが。 日頃、沖縄紙の印象操作には騙されないよう気をつけているつもりだが、つい感覚が麻痺し可笑しな文言もついそのまま受け入れてしまう。 太郎の嫁さんが指摘する「県民大会」がそれだ。 県民大会と冠する集会を沖縄ではあまりにも頻繁に開きすぎる。 県民の代表ともいえる県知事や県の主催ならともかく、その県知事さえもが「このような政治集会に県知事が参加するのはいかがなものか」と出席拒否をする集会にまで「県民大会」の名を平気で冠して、それを沖縄紙は何の疑問も持たずにそのまま報道している。 中には労働組合の数百人の集会にまで県民大会という有様である。 沖縄に同情的で各種「県人大会」に、遠路はるばる駆けつけて参加してきた静岡県人のMさんを失望させ悲しませ、最後には怒らしてしまうとは、沖縄タイムスもプロ市民の皆さんも罪なことをしてくれるものだ。(涙) 【おまけ】 以下は静岡県民のMさんを失望させた「大文字言葉」の意味について、
沖縄を語る“大文字言葉”−『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』感想文より抜粋編集した文です。 佐野眞一著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』を読んだ。 登場人物が、実に多彩で、現役の知事からヤクザの親分、そしてその親分をヒットした殺し屋に至るまでの膨大な数の人物を、著者は「アドレナリンが沸いてくる」という汲めどもつきぬ好奇心と、底知れぬ行動力で次々と芋ヅル式にインタビューを続ける。 <「お約束」の島から「物語」の島へ> <・・・私は沖縄を日本の暗部を一身に背負わされた被害者の島という文脈だけで語ろうとは思わない。・・・・・・ 忘れてならないのは、被害、加害の「大文字」議論にはさまれて、当の沖縄人たちが、戦後つむいできた可笑しくも悲しい物語が封殺されようとしていることである。 私は本書で、その封印をすべて開封するつもりである。> そう、沖縄の書店に並ぶ沖縄戦史モノや沖縄紙の紙面で識者が語るのは、「お約束」の「大文字言葉」であり、沖縄の実情を伝えていない。 これまで当日記が「お約束」の「大文字言葉」に反するような文言を書くと「この男は沖縄人を騙るヤマトンチュであり、沖縄人がこのようなことを書くはずがない」とか「コイツは裏切り者だ」といったコメントが殺到した時期があった。 これでは沖縄人である限りすべてが金太郎飴のように同じ意見、つまり「大文字言葉」の意見を持たねばならぬということになる。 これでは沖縄は「同調圧力」を超えた北朝鮮のような所だといわれても仕方がない。 佐野眞一氏が言う「大文字言葉」の意味は、『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』の「はじめに」に説明されているので一部を抜粋して以下に引用する。 ◇ 「大文字言葉」について 『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』佐野眞一著より引用すると次のようになる。 沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。
沖縄本を覆う違和感とは何か。大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。
渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。
だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。
沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、うんざりするほど生産されることになった。 “大文字言葉”とは何か。いい機会なので、ここで私がよく便う「大文字」と「小文字」の違いについて、少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。
テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。
彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、こちらが情報を補ってやっているからである。
これに対して「小文字」とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。
物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。「語って説かず」。それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。 ◇ なるほど、沖縄、特に沖縄戦を語る言葉には「大文字言」が主流として巷に氾濫していることが良く理解できる。 「大文字言葉」を語る代表が大江健三郎氏と筑紫哲也氏だという例えも分かりやすい。 このお二人を沖縄の良心のように扱う沖縄紙も「大文字言葉」に溢れていることになるわけだ。 ここらで冒頭に引用したMさんの投稿に戻る。 おそらくMさんは沖縄紙やそこに寄稿する識者の「沖縄情報」を「大文字言葉」で知って純粋に沖縄に同情心を持ったのだろう。 そして先日の参院選の結果を知り「大文字言葉」で知る沖縄と現実の沖縄の著しい差に「失望よ悲しみ」を味わうことになる。 Mさんの「失望と悲しみ」は、このような怒の言葉を発するようになる。 《沖縄の脱基地・平和運動は単なる沖縄の“売り”なのか。 率直に言おう。 沖縄県民が今問うべきこ、それは自らの甘えと能天気の所在だ。》 ◇ そう、沖縄の脱基地・平和運動は伊波宜野湾市長に代表されるように、左翼勢力の”売り”なのである。 ちなみに伊波宜野湾市長の「売り」は「世界一危険な米軍基地」と「沖国大米軍ヘリ墜落事故」である。 静岡のMさんには一日も早く、沖縄の「大文字言葉」の呪縛から解放され本当の沖縄の実態を知って欲しいものである。 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所
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しかし、鳩山由紀夫前首相が辞任を余儀なくされた普天間基地移設問題で、あれほど盛り上がったイエロー旋風と「怒」の一文字は、とどのつまり全国ワースト1程度のものなんだったのか。
静岡県東部から教科書記述問題の県民大会や今年4月の県民大会に駆けつけ、みんなと心を一つにして沖縄県民の明日を、日本全体の明日をつくるために、主権在民の力・知恵を発揮しようと務めてきたわたしは、いま深い失望と悲しみに沈んでいる。
全国各地の沖縄への関心もまた元のもくあみだ。 沖縄の脱基地・平和運動は単なる沖縄の“売り”なのか。 率直に言おう。 沖縄県民が今問うべきこ、それは自らの甘えと能天気の所在だ。 ◇ 上記投稿とは前後するが当日記の読者の「太郎の嫁」さんから次のようなコメントがあった。 2010-07-13 22:55:03 太郎の嫁さん
<沖縄ほど頻繁に県民大会を開く県は他に例を知らない>
私の記憶では、県民大会を開く県は沖縄だけです。
私が住んでいる県(沖縄より小さい県です)で「県民総決起大会」とか想像できません。
例え出席者がプロ市民だけで一般人は自由参加だとしても、
「県民大会」と県全体を謳うことは許されないでしょう。
地元紙は真っ赤っかですが。 日頃、沖縄紙の印象操作には騙されないよう気をつけているつもりだが、つい感覚が麻痺し可笑しな文言もついそのまま受け入れてしまう。 太郎の嫁さんが指摘する「県民大会」がそれだ。 県民大会と冠する集会を沖縄ではあまりにも頻繁に開きすぎる。 県民の代表ともいえる県知事や県の主催ならともかく、その県知事さえもが「このような政治集会に県知事が参加するのはいかがなものか」と出席拒否をする集会にまで「県民大会」の名を平気で冠して、それを沖縄紙は何の疑問も持たずにそのまま報道している。 中には労働組合の数百人の集会にまで県民大会という有様である。 沖縄に同情的で各種「県人大会」に、遠路はるばる駆けつけて参加してきた静岡県人のMさんを失望させ悲しませ、最後には怒らしてしまうとは、沖縄タイムスもプロ市民の皆さんも罪なことをしてくれるものだ。(涙) 【おまけ】 以下は静岡県民のMさんを失望させた「大文字言葉」の意味について、
沖縄を語る“大文字言葉”−『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』感想文より抜粋編集した文です。 佐野眞一著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』を読んだ。 登場人物が、実に多彩で、現役の知事からヤクザの親分、そしてその親分をヒットした殺し屋に至るまでの膨大な数の人物を、著者は「アドレナリンが沸いてくる」という汲めどもつきぬ好奇心と、底知れぬ行動力で次々と芋ヅル式にインタビューを続ける。 <「お約束」の島から「物語」の島へ> <・・・私は沖縄を日本の暗部を一身に背負わされた被害者の島という文脈だけで語ろうとは思わない。・・・・・・ 忘れてならないのは、被害、加害の「大文字」議論にはさまれて、当の沖縄人たちが、戦後つむいできた可笑しくも悲しい物語が封殺されようとしていることである。 私は本書で、その封印をすべて開封するつもりである。> そう、沖縄の書店に並ぶ沖縄戦史モノや沖縄紙の紙面で識者が語るのは、「お約束」の「大文字言葉」であり、沖縄の実情を伝えていない。 これまで当日記が「お約束」の「大文字言葉」に反するような文言を書くと「この男は沖縄人を騙るヤマトンチュであり、沖縄人がこのようなことを書くはずがない」とか「コイツは裏切り者だ」といったコメントが殺到した時期があった。 これでは沖縄人である限りすべてが金太郎飴のように同じ意見、つまり「大文字言葉」の意見を持たねばならぬということになる。 これでは沖縄は「同調圧力」を超えた北朝鮮のような所だといわれても仕方がない。 佐野眞一氏が言う「大文字言葉」の意味は、『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』の「はじめに」に説明されているので一部を抜粋して以下に引用する。 ◇ 「大文字言葉」について 『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』佐野眞一著より引用すると次のようになる。 沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。
沖縄本を覆う違和感とは何か。大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。
渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。
だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。
沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、うんざりするほど生産されることになった。 “大文字言葉”とは何か。いい機会なので、ここで私がよく便う「大文字」と「小文字」の違いについて、少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。
テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。
彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、こちらが情報を補ってやっているからである。
これに対して「小文字」とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。
物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。「語って説かず」。それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。 ◇ なるほど、沖縄、特に沖縄戦を語る言葉には「大文字言」が主流として巷に氾濫していることが良く理解できる。 「大文字言葉」を語る代表が大江健三郎氏と筑紫哲也氏だという例えも分かりやすい。 このお二人を沖縄の良心のように扱う沖縄紙も「大文字言葉」に溢れていることになるわけだ。 ここらで冒頭に引用したMさんの投稿に戻る。 おそらくMさんは沖縄紙やそこに寄稿する識者の「沖縄情報」を「大文字言葉」で知って純粋に沖縄に同情心を持ったのだろう。 そして先日の参院選の結果を知り「大文字言葉」で知る沖縄と現実の沖縄の著しい差に「失望よ悲しみ」を味わうことになる。 Mさんの「失望と悲しみ」は、このような怒の言葉を発するようになる。 《沖縄の脱基地・平和運動は単なる沖縄の“売り”なのか。 率直に言おう。 沖縄県民が今問うべきこ、それは自らの甘えと能天気の所在だ。》 ◇ そう、沖縄の脱基地・平和運動は伊波宜野湾市長に代表されるように、左翼勢力の”売り”なのである。 ちなみに伊波宜野湾市長の「売り」は「世界一危険な米軍基地」と「沖国大米軍ヘリ墜落事故」である。 静岡のMさんには一日も早く、沖縄の「大文字言葉」の呪縛から解放され本当の沖縄の実態を知って欲しいものである。 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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