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誰も知らない沖縄戦の疎開につい過去エントリー大本営が県外疎開を発案 沖縄戦秘話に加筆した引用です。
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沖縄戦の最中、荒井退造・県警察部長が、島田叡・県知事とコンビを組んで、沖縄県民の県外・県内疎開に尽力したことは、県史に詳しい人の間ではよく知られたことである。だが、沖縄県民の「県外疎開」を真っ先に考えていたのが、あの「住民を守らない」はずの大本営だったことは、あまり知られていない歴史の事実である。
県庁壕から形見の碁石 沖縄戦中の荒井警察部長遺品 2008年1月13日県庁壕内にある警察部長室の入り口部分を発掘する知念堅亀さん(中央)と沖大の学生ら=2007年12月22日、那覇市真地
沖縄戦中、県民の県外・北部疎開に尽力した荒井退造・県警察部長の遺品とみられる碁石11個が、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で昨年末までに見つかった。1945年6月下旬に糸満市摩文仁で消息不明となったまま、遺骨も遺品も全くなかった。戦後62年たっての発見に、長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「父親の肉体に一番近い存在だったものが見つかるとは、本当に驚天動地。遺骨代わりとして大事にしたい」と感慨深く語った。
碁石を見つけたのは、県庁壕を長年調査研究している知念堅亀さん(74)=那覇市繁多川=と繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。昨年9月に7個、12月末に4個を発見した。
県庁壕は45年3月末から5月末まで荒井部長や警察部職員らが避難していた壕。4月からは島田叡(あきら)知事も合流。4月27日には戦中最後の市町村長会議も開かれた。
碁石が見つかった場所は、壕内に掘られた警察部長室入り口。水がたまりやすく、常にぬかるんでいる。昨年9月21日に知念さんが壕を案内している時に、天井からのしずくで表土が洗われ、碁石が露出しているのを発見した。さらに周囲5、60センチの範囲から、黒5個、白2個を探した。
その後、12月22日に沖大の学生らも加わり、部長室入り口を発掘し、深さ4、5センチの泥の中から、新たに黒3個・白1個を見つけた。そのうちの黒1個は鍾乳石からの水滴を長年受けたとみられ、表面が白く石灰化していた。同じ深さから、日本兵の軍靴や小銃弾なども出土したことから、沖縄戦中のものと判断した。
荒井部長は大の囲碁好きだった。当時、泉崎にあった部長官舎に住み込みで働いていた上地よし子さん(81)=ハワイ在住=によると「夜通しやることもあった」ほど。「とても大切にしていたので、(44年の)10・10空襲の時、私が命懸けで碁盤と碁石を官舎の応接間から持ち出した」。その後、警察職員らによって真地の県庁壕まで運び込まれた。「壕でも、部長さんはよく課長さんたちと碁を打っていた。娯楽がないから、(持ち出したことを)みんなから褒められた」と語る。
碁石の一部を昨年11月に受け取った紀雄さんは、お寺でお経を上げてもらい、仏壇に安置した。「60年たって戻ってきたのは因縁めいたものを感じる。おやじも喜んでいるでしょう。知念さんや皆さんのおかげ。ありがたい」と感謝している。
発見した知念さんは「県庁壕には11年前から何度も入っているが、見つかった時には興奮した。前に紀雄さんを案内した時に、碁石の話をしていたので本当に良かった」と話している。
(志良堂仁)
<ニュース用語>荒井退造
1900―45年。栃木県出身。43年7月に沖縄県警察部長として赴任。米軍上陸直前に知事や他の部長が次々と本土に渡る中、行政の責任者として沖縄に残り、県民の県外・北部疎開や軍との交渉などに当たった。その後、新任の島田叡知事と行動を共にし、6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出たのを最後に消息不明。
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沖縄防衛のため配備された第32軍を代表する軍人といえば、司令官の牛島中将と参謀長の長勇少将が上げられるだろう。
この二人は、軍人というだけで、沖縄での評価は極端に低い。
長参謀長に至っては、大陸戦線で南京攻略に参加していたという理由だけで、
「南京大虐殺」の実績を引っさげて「沖縄人虐殺」のために沖縄にやってきた、といわんばかりの悪評を受けている。
牛島司令官も長参謀長ほどではないにしても、反日左翼勢力にとっては「悪逆非道日本軍」のシンボルとして、
牛島司令官の孫まで引っ張り出して日本軍を貶め、自分の祖父を罵倒するという醜いシーンまで披露している。
日教組に毒された戦後教育の悪い面を、祖父が自決した沖縄に来てまで、祖父を面罵する孫の姿に見出すのは残念なことである。
軍抗戦「住民に犠牲」 牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語る沖縄戦について授業する牛島貞満さん(右)=豊見城市立長嶺小学校
<沖縄戦で日本軍を指揮した牛島満司令官(中将)の孫に当たる牛島貞満さん(51)が20日、豊見城市立長嶺小学校(大城早智子校長)で「牛島満と沖縄戦」のテーマで平和学習の授業を行った。「沖縄戦ってどんな戦争だった?」と児童たちに質問すると、「住民が多く死んだ」「持久戦だった」などと回答。牛島さんは「人が人でなくなるのが戦争。沖縄は本土の時間かせぎの戦争だった」などと説明した。>
牛島中将の孫に当たるという牛島貞満という人物、
2007年には「11万人集会」にまで駆けつけて、祖父の戦死を公衆の面前で冒涜し続けた。
県民大会の様子 東京で伝えたい 牛島中将の孫・貞満さん http://www.okinawatimes.co.jp/day/200710011300_05.html
<牛島さんは、沖縄戦で日本軍の総指揮を執った牛島満中将の孫。五年前から「牛島満と沖縄戦」をテーマに、小学校高学年を対象に平和授業を続けている。
文科省が「集団自決(強制集団死)」の日本軍の強制を削除したことについて「軍隊は住民に捕虜になるなと徹底しており、日本軍がいた場所で『集団自決』は起きている。軍の強制・誘導があったのは当然だ」と強調した。>(沖縄タイムス)
軍人の評判が悪いのに比べて、県民の安全のために努力した島田叡県知事や冒頭に引用記事の荒井退造警察長官は、県民の間では県民の疎開に尽力した「県民の命の恩人」として今でも尊敬されている。
島田知事については過去にもエントリーしている。
毎日コラムのGJ 沖縄戦で散った本土出身県知事<沖縄マスコミが本土出身の官僚・軍人をいかに悪し様に言おうとも、沖縄県民は島田県知事への敬愛の気持ちを忘れてはいない。
沖縄県の高校野球で夏の県大会を制した高校に「島田杯」が授与されるが、これが野球を愛した島田知事に対する県民の敬慕の念の何よりの証拠である。
島田県知事は1945年1月31日沖縄に赴任し、同じ年の6月27日頃戦死している。>
「昭和18年7月、沖縄県警察部長(現在の県警本部長に相当)となった荒井退造は、黒の制服にきらめく肩章をつけ、真夏の太陽が輝く那覇空港に降り立った。」
(「戦さ世の県庁」荒井紀雄著のプロローグより)
沖縄赴任後、荒井警察部長は島田県知事とコンビを組んで、県民の県内外への疎開に尽力するが、昭和20年6月26日、島田知事と共に沖縄南部の壕を出たあと、消息を絶つ。
遺骨・遺品の無いまま摩文仁の丘の「島守の塔」に、島田知事以下の県職員と共に合祀されている。
63年ぶりに父の遺品が見つかった長男の荒井紀雄さん(75)が、
「父親の肉体に一番近い存在だったものが見つかるとは、本当に驚天動地。遺骨代わりとして大事にしたい」
と感慨深く語る気持ちは共感できる。
昭和19年7月1日、荒井紀夫さんの家族は本土引き上げのため旧式の軍用機で那覇空港をよろよろと飛び立って行った。
当時那覇の甲辰小学校に通っていた荒井紀雄さんは、父・退造氏との別れを自著「戦さ世の県庁」で次のように描写している。
<私には、真夏の太陽が振付ける飛行場でただ一人、真白い警察官の制服をつけた父がいつまでいつまでも白い帽子を振ってみおくっていたのが、昨日のことのように思い出される。 それが私と父との最後の別れであった。>
県民の疎開に尽力をしたことで島田知事と荒井警察部長は、「県民の命の恩人」と讃えられているが、
その一方沖縄配備の第32軍は、
「軍は住民を守らなかった」
というサヨクスローガンにあるように、
沖縄で極めて評判が悪いし、こんな連中もいるが、
⇒極左が陸自の沖縄慰霊祭を批判
果たして実際はどうだったのか。
驚いたことに、予測される米軍来襲に備え、
県民の生命の安全を計るために、
真っ先に「沖縄県民の県外疎開」を発案していたのは、
なんと日本軍・大本営だった。
まだ小学生だった荒井紀雄さんが、父の退造氏に見送られて那覇空港を発った昭和19年7月1日。
第32軍の参謀長に正式着任の一週間前のその日、長勇少将は木村参謀を伴って、那覇空港に降り立っていた。
彼が正式着任の一週間も前に沖縄に着いた最大の理由は、
8月に予定の牛島・新司令官着任の前に、法律的に不備だった「県民疎開」を閣議決定させるための、現地視察であった。(続く)
【お知らせ】
パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内
表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。
尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。
記
第五回口頭弁論
日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より
場所: 那覇地方裁判所
報告会
日時: 同日 午前十一時半より
会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室
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