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2012.01.12 都教組沖縄視察交流団 八重山で交流と連帯を深める 八重山(石垣島・与那国島。竹富島)の方々と交流今年度の都教組沖縄視察交流団は、「八重山を訪れ、日本最西端の与那国島を訪ねる旅」として行われ、40名を超える参加者で八重山(石垣島、与那国島)の人々と交流を行いました。
初日は、石垣島で戦争マラリアの史跡や慰霊碑、八重山平和記念館などで戦争マラリアについて学びました。夜は、「日本人軍と戦争マラリア」と題した玉城功一さん(竹富町史編集委員、石垣市大川字誌編集委員、八重山古典音楽安室流保存会師範)の講演、石垣市の方々による戦争マラリアの紙芝居、八重山教科書問題の現状と運動などについて報告を受けました。その後、石垣市の元教育長、元校長や教育関係者など21名が参加しての歓迎のつどいが催されました。(略)
☆沖縄タイムスの連載特集「第一部 風は南から」シリーズを読めば、極悪複合体(反日左翼)の今年の反日工作のテーマは「八重山マラリア」であることがわかる。
それを裏付けるように教員関係者による「日本軍人と戦争マラリア」を学習するツアーが石垣入りしている。
鬼畜と信じられていた米軍の攻撃から住民を避難させるため行った疎開が、結果的に多くのマラリアの被害を生んだが、それを逆恨みして「残虐非道な日本軍」の強制疎開のせいだとして、戦後70年近くも経っているというのに、いまだに「日本軍のせい」と叫ぶ心根が理解できない。
昨日のエントリーに続いて本日も「疎開」について書く予定であったが、「おまけ」に書いた「潜在主権」に絡む「天皇メッセージ」に読者の反響が多かったので、その中からコメントを二つ引用するする。
■宮古島よりさんのコメント
「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」として反米左翼複合体がデマの宣伝活動に利用している、悪名高き「沖縄メッセージ」とはいかなるものか。
「沖縄メッセージ」とは、昭和22年(1947年)宮内府御用係の寺崎英成がGHQ外交局長ウィリアム・シーボルトへ沖縄に関する天皇の意見として伝えたもの。
以下、ウィリアム・シーボルトの記録。
「天皇は米国が沖縄をはじめ、その他の琉球諸国に対する軍事占領を継続するよう希望している。天皇の意見では、そのような占領はアメリカの利益になり、また、日本を防衛することにもなる、ということである。
また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸国)に対する米軍の軍事占領は、主権を日本に残したまま、長期(※中略)25年ないし50年またはそれ以上の租借方式という擬制に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は、米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利要求を封ずるであろう。」
つまり、沖縄を日本に主権を残したまま(潜在主権)、租借方式という擬制は(あくまでレンタル)、米国占領統治によりソ連や中国の共産主義を跳ね除け(日本の国防の米国に担ってもらう)、いずれ長期租借が解かれたとき、琉球諸島は日本復帰するという昭和天皇の沖縄に対する確固とした意思が分かる。
「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というのは大いなる間違い。
「思わざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果さぬ つとめありしを」
昭和63年8月には、天皇皇后両陛下の沖縄への来島は決定していた。病気になられても、なお、陛下は沖縄への思いはあった。
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■涼太さんのコメント
本日のエントリーで長年の疑問が解決しました。
例えば、「戦傷病者遺族等援護法」も「教科書無償法」も日本本土と、同時期に導入されています。米国の委任統治だからこそ、チャント日本国の行政サービスがあったのですね。
特に、援護法などは民間人にまで50年間に渡り、それこそサラリーマンの生涯賃金に匹敵する額が支給されています。
それでグダグダ言っていたら罰が当たります。
よく言われる基地負担も、今度の大震災で明らかにされた電力負担、それ以外にも京浜工業地帯も公害に苦しんでいます。これなどは産業負担なのでしょう。国には様々負担があります。
それを日本国で分かち合っているのだと思います。
常々思うことだが当日記の読者はレベルが高いのが自慢であり、筆者の説明では足らない部分を埋め合わせてくるので助かるのだが、宮古島よりさんが筆者が敢て触れなかった「天皇メッセージ」の文言を挙げてその概略を説明して下さっている。
一方の涼太さんが、主権は日本のまま米軍統治下になった沖縄で「援護法」や「無償措置法」が適用されたことに着目されたことはさすがです。
日本政府が「援護法」や「無償措置法」を適用したのは、戸籍を残したまま里子にやった子ども(沖縄)が、いつかは祖国に帰ってくるという昭和天皇の親心(「天皇メッセージ」)を政府当局が勘案したからに他ならない。
さらに沖縄の教育に関して、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国負担で受け入れている(国費留学制) ちなみに仲井真県知事はこの国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業している。
いわゆる「天皇メッセージ」とは、、宮中御用掛の寺崎英成が昭和天皇との会話の中から聞き取った天皇の気持ちを、昭和22年9月19日(金)に総司令部政治顧問シーボルトに伝え、それをシーボルトが英訳してワシントンに送ったとされことである。
これも沖縄に関する大きな誤解の一つだが、保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。
筆者の知人にも終戦時、既に米軍占領下にあった沖縄が米国統治になったのはやむ得ないとしても、「天皇自らが(命乞いのように)沖縄を売り渡す手紙を書いた」のは許せないと息巻く人もいるくらいだが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。
寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。
「天皇メッセージ」はシーボルトの手紙では"Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"と訳されている。
だが近代史研究家の秦郁彦氏も驚嘆するように、敗戦直後の社会党政権(片山内閣)下で、当時の社会情勢では政府の誰もが思いも及ばなかった「主権は残した(潜在主権の)まま」いつかは祖国に帰る日のために委任統治という方法を思いついた昭和天皇の判断力の確かさは「天皇メッセージ」というより、いまでは死語になりつつある「昭和天皇の大御心(おおみごごろ)」と訳した方が的を射ているのではないか。
秦郁彦氏はいわゆる「天皇メッセージ」についてその著書「昭和天皇五つの決断」(文藝春秋)で、次のように述べている。
「23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には脱帽のほかない・・・」
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「天皇メッセージ」(昭和天皇の大御心」について稿を改めて詳述すると書いたが、とりあえず凪論さんの孫引きで、小林よしのり氏の「昭和天皇論」を、全文引用させて頂いた。
小林よしのり著「ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論」を読む 2 〜サンフランシスコ講和条約と先帝陛下のかかわりの虚と実〜「昭和天皇論」は、先帝陛下が政治家として動かざるを得なかった時代に脚光をあてている。その中で非常に興味深いのがサンフランシスコ講和条約直前における先帝陛下と政治のかかわりである。昭和24年9月にソ連が原爆保有を表明し、同年10月に中華人民共和国が成立した。それはまさに「アジアの冷戦は朝鮮半島、台湾海峡、ベトナムでいつ熱戦に転じてもおかしい状況下」であり、日本国内で強硬に主張されていた「全面講和」は絵空事に過ぎなかった。
当時占領軍のトップであったマッカーサーは
「日本としては永久中立が保たれればそれが理想であります。また米ソ双方にとっても利益である筈であります。」(昭和25年4月18日第10回会見)
「(日本は)将来いかなる戦争があろうとも中立を保たなければならない。ソ連も軍事上の利点から日米の中立を尊重するものと信じている。」(「リーダーズ・ダイジェスト」)
と現実離れした「非武装中立」を主張し、アメリカ政府はアジアの共産主義との対立のために日本の再軍備と米軍の基地保有が必要との見解に立っており、両者の間の溝は非常に大きいものであった。その中で吉田茂総理大臣はマッカーサーに対しては米軍駐留の主張を引っ込め、ダレス国務省顧問に対しては日本側からの米軍駐留申出を行う用意があることを示唆するなど日本の立場は混乱していた。そのような状況下でダレス国務省顧問が来日し、案の定日本側の姿勢に激怒した。その中で側近の松平康昌を通してダレス国務省顧問にメッセージを送ったのが先帝陛下であった。「吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できず、米軍駐留に関する交渉は吉田とマッカーサー以外の人物によって行うべきだ」という趣旨のメッセージを送り、マッカーサーの頭越しに日米の講和交渉が行われるきっかけとなった。
先帝陛下のメッセージで大きな影響を受けたのが沖縄である。連合国側には米軍による沖縄の信託統治や日本の沖縄に対する主権放棄を主張する声が非常に強く残っており、沖縄が日本から切り離される危険性は非常に高いものであった。ダレス国務省顧問は、
「日本に主権を残しつつ米国の戦略的要請を確保していると解釈解釈できる条約を作るもので、以前の国際法には見られない表現」
である「潜在的主権」という表現を用いて意見を調整し、沖縄の本土復帰において法的根拠となったのはまさにこの「潜在主権」であった。小林氏は
「もし昭和天皇が米国政府に『沖縄メッセージ』を送らなかったら?
そしてやる気を失いかけていたダレスに絶妙のタイミングでメッセージを送って感激させていなかったら?
歴史は違う方向に動いていたかもしれない。
当時の日本には、ここまで現実的に日本を護るための手段を打てる政治家は他に誰もいなかったのである!」
と結ぶ。
そのような講和交渉の現実を見ると、漫画原作者の雁屋哲氏が「美味しんぼ日記」で
鳩山由紀夫氏を攻撃するのは誰か | 雁屋哲の美味しんぼ日記 via kwout
「沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。
それは、昭和天皇である。
昭和天皇が『沖縄にずっとアメリカ軍に存在して貰いたい』といったのが始まりではないのか。
昭和天皇の沖縄についての発言は、いちいち、私はここで挙げないが,様々な文書で明らかにされている。
もし、私の言葉に疑いを抱く人がいたら、ちょうど良い機会だ、昭和天皇の言行録を、当たって欲しい。ちょっとした図書館に行って、昭和天皇についての書籍を調べれば、すぐに分かることだ。(その意図があるから、私はわざと、文書をここに引用しないのだ。読者諸姉諸兄が自分の目で、昭和天皇が何を言ったのか読んで欲しい。それで、驚かなかったら、おかしい)
昭和天皇が、沖縄をアメリカに渡すと言った言葉に従って、その後の政府は忠実にアメリカに沖縄を自由に使うことを許してきた。
歴代の自民党政府が六十年以上にわたって、アメリカに沖縄を自由に使うことを許してきたのだ。」
と述べているのは、雁屋氏の無知と傲慢をさらけ出すだけのものであると言える。
「また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸島)に対する米軍の軍事的占領は、主権を日本に残したまま、長期−25年ないし50年またはそれ以上の−租借方式という擬制(fiction)に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれにより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利の要求を封ずるであろう。」
と述べる先帝陛下のメッセージは間違いなく沖縄の本土復帰の法的根拠となった「潜在的主権」に沿ったものであり、連合国による沖縄の主権放棄への要求を封ずるものであったと言える。おそらく雁屋氏は無知をこじらせたか、史実を明らかにされると自らのイデオロギーにとって都合が悪いのであろう。
引用終了 ☆
「疎開」のひと言を取り上げても、極悪複合体(反日左翼)のように悪意に満ちた色眼鏡で見れば、「残虐非道の日本軍」の象徴になる。
昭和天皇が、アメリカが沖縄を永久支配しないことの保障のために、主権は残したまま(潜在主権)、施政権のみ一時預かる(委任統治)と、当時(昭和23年)の状況でいえば最適の判断をしたことも、悪意に満ちた極悪複合体に言わせれば「天皇が沖縄をアメリカに売り渡した」となるのである。
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【お知らせ】
パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内
表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。
尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。
記
第五回口頭弁論
日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より
場所: 那覇地方裁判所
報告会
日時: 同日 午前十一時半より
会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室
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