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「戦場ぬ童」が暴く琉球新報の捏造体質

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 明けましておめでとうございます。

旧年のご支援に感謝の意を表すとともに、今年が読者の皆様にとってよき年であるように祈念いたします。

さらに欲張ってもう一つ、旧年に勝るご支援をお願いします。

皆様のご支援のコメント(批判でも結構)がブログ更新の元気と勇気の糧となります。

平成24年 元旦

                   ☆

半年にも及ぶ八重山教科書騒動は、未解決のまま年を越したが、未解決とは県教委と竹富町にとっての話であり、実際は八重山採択地区協議会の会長である玉津石垣教育長の指摘するとおり、「8.23協議」で既に決定済みであり、監督官庁の文科省もこれを認めている。

その一方で、一連の教科書騒動が沖縄の教育界の知られざる暗部に光を与えてくれたことは、教科書騒動がもたらした思わぬ功績である。

不毛に思えた教科書騒動が、沖縄の教育界、いや、沖縄社会そのものに潜む数々の問題を炙り出してくれた。

言葉を換えれば沖縄社会をダメにしてきた極悪複合体という反日左翼集団を県民の目に晒してくれた功績は大きい。

沖教組、県教委、沖縄2紙、そして左翼大学教授などで構成する極悪複合体が、独裁的かつ法令無視の手法で教科書を採択してきた事実を県民が知ることが出来たのだ。 これは八重山教科書問題がもたらした大きな成果である。

他にもイロイロ教科書騒動の成果はある。

沖縄の新聞が偏向していることは夙に知られたことだったが、その新聞が歪曲・捏造は当たり前で、発狂新聞といわれるほど常軌を逸した大嘘記事を垂れ流すことを県民が知っただけでも大きな成果である。

沖縄紙がデタラメ記事を垂れ流し、都合が悪くなるとただ沈黙を守って読者の忘却を待つ。

これが沖縄紙の常套手段である。

そこで、沖縄タイムスの元旦特集号を眺めてみると、あれほど長期にわたって狂ったような記事を垂れ流していたのに、分厚い新聞のどの頁を見ても「八重山教科書問題」については一行の報道もない。

発狂新聞にとって「八重山教科書問題」は昨年末で完敗に終わったということの証左である。

極悪複合体が行ってきた数々の「悪事」の中でも、沖縄2紙、特に琉球新報が行ってきた歪曲・ねつぞ報道には目に余る物がある。

上原正稔さんが琉球新報を相手取って「パンドラの箱掲載拒否訴訟」で提訴した事実が、いみじくも琉球新報の歪曲・捏造「言論封殺」の体質を証明している。

以下は過去のエントリーを基に再度書き下ろしたものだが、その目的は琉球新報がウソの報道を平気で垂れ流す新聞であること証明することにある。

                      ☆

 1985年(昭和60年)8月24日付琉球新報の社会面に3段抜きで次の見出しが躍った。

「戦場ぬ童」が優秀作品賞

第32回教育映画祭・映像教材選奨

同紙によると、記録映画「戦場ぬ童(いくさばぬわらび)」は、戦争を知らない世代に、戦争とはどんなものかを知らせる教育的映画として評価され、全国各地で上映されているという。

さらに同紙は「戦場の童」が「平和学習に」に頻繁に活用されている様子を次のように伝えている。

有事法案に警鐘/1フィートの会が学習会
琉球新報 2002年6月22日       
  沖縄戦記録フィルム一フィートの会(牧港篤三代表)は21日夜、那覇市の久茂地公民館で有事法制学習会を開催し、市民ら約30人が参加した。沖縄戦記録映画「戦場ぬ童」「沖縄戦未来への証言」の上映後、県平和委員会の大城保英氏が「有事法制って?」との題名で講演した。
  小泉政権が成立を目指す有事関連法案について大城氏は「有事"という言葉自体がはっきりしない。適用範囲が広く、危険だ」と指摘し、「憲法前文の平和主義や第九条などの意味が曲げて解釈され、戦争をしない国から戦争を行う国になろうとしている」と同法案に警鐘を鳴らした。そして「たくさんの犠牲の上に現在が成り立っている。私たちは戦争をしない国を守っていかないといけない」と呼び掛けた。

                       ☆

突然古い琉球新報の記事の引用で、面食らう方も多いと思うが、沖縄戦記録映画「戦場ぬ童」が沖縄では頻繁に上映され平和学習に利用された事実を示すための引用である。

「戦場ぬ童」は数多くの沖縄戦映画を作製している共産党員の橘佑典氏が監督を務め、沖縄戦研究家の大城将保氏が嶋津与志というペンネームで台詞を作成し、沖縄芝居のベテラン女優北島角子氏がナレーションを担当している。

 「戦場ぬ童」(いくさばぬわらび)製作=「戦場ぬ堂」制作委員会 公開:1985.11.06 26分 カラー 16ミリ

製作:上池完道 監督:橘祐典 台詞:嶋津与志(大城将保) 撮影:知念稔 音楽:海勢頭豊 編集:矢走直子

…沖縄戦40周年記念、沖縄戦のドキュメンタリー

この映画は、1フィート運動の創始者である上原正稔さんが米国公文書館の膨大な記録フィルムの中から発掘した沖縄関連のフィルムをもとにして製作されている。 

内容は左翼沖縄戦研究家の大城将保氏が台詞を作成しているだけあって、戦争の惨さというより「残虐非道な日本兵」を糾弾するような印象を与える構成になっている。

この映画で特に注目してほしいのは、琉球新報社発行の太田昌秀編著『これは沖縄戦だ』の表紙に載っている有名な写真「うつろな目の少女」は自分であると名乗り出た玉那覇春子さんが登場していることである。

写真では右手を負傷しているが、その後米軍医療班に右手を切除された玉名那覇さんは映画の中で失った右手を見せながら、当時の様子や戦争の悲惨さを語り反戦平和を訴えている。

■「戦場ぬ童」が教育映画祭で優秀賞受賞

沖縄戦40周年記念記録映画として製作された「戦場ぬ童」は、沖縄のみならず本土各地の平和学習でも頻繁に上映され、1985年度の優れた教材映画などを選ぶ第32回教育映画祭で、優秀映像教材選奨の「教養部門」で優秀作品賞を受賞している。 

同映画の受賞理由について審査委員会は「子どものころ、地獄の戦場をさまよった生々しい証言をもとに、沖縄戦の実態を子どもにまとをしぼって描いている。沖縄の過去と現実を描きながら戦争を知らない世代に戦争とはどんなものかを知らせる映画」とその内容を高く評価している。(沖縄タイムス 1985年8月24日)

この「戦場ぬ童」を見た朝日新聞は次のような特別記事を書いている。

[写真] あの時 子どもだった

映画出演し 惨劇を証言

、この夏、沖縄では映画『戦場ぬ童(いくさばぬわらび)の自主上映が盛んに行われている。 公民館、小学校、小さな集会場には人々が集い、スクリーンを食い入るように見つめる。沖縄戦終結から40年を期して作られたこの映画は、米軍と日本軍の地上戦戦闘に否応なく巻き込まれた沖縄の子どもたちの姿を追う。 そして、現在40代となったその最後のおきなわせんの体験世代に、証言の列に加わるように呼びかけた。 

虐殺住民のさなかで
沖縄市西原町の玉那覇(たまなは)春子さん(48)は、映画のなかで、積極的に自身の戦場体験を語る。 春子さんが映画に出演するようになったのは、1枚の写真がきっかけだった。 その写真には、米軍従軍写真班が撮影した「右腕を負傷した少女」だ。 撮影は「6月21日具志頭(ぐしかみ)で」となっている。 この日は沖縄戦の総指揮官だった牛島満中将自決の2日前。 戦闘は終結に近づき、日本軍による住民虐殺、集団自決の強要などの惨劇のさなかだった。 
春子さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。 現在の春子さんは、右腕のひじの先がない。 写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。 生まれは沖縄本島南部の具志頭村。 父は楽器製造家。 米軍上陸から2ヶ月余りたった6月の初め、背走してきた日本軍が村に入り込み、「軍が使うから」と、家を追われた。 父親はすでに防衛隊にとられており、母親は春子さんと妹を連れ、食料、衣類を手に、親類の人たちと一緒に村を出た。 
「イモのくずを湯でといて飲み、飢えをしのぎながら、あちこちの防空壕を渡り歩いた。 ちょうど梅雨で、雨にぬれながら、戦場を逃げ惑いました」

4日目に母が死亡
家を出てから何日目だっただろうか。 大きなかわら屋根の家にたどりついた。 避難民があふれ、仕方なく軒下で夜露をしのんだ。 3日目に、その民家が直撃弾を受け、血の海となった。 母は全身から出血し「水が飲みたい、水が飲みたい」と言いながら、ガジュマルの木下で4日目に息をひきとった。
春子さんは右腕とわき腹に負傷した。 鉄の破片が入っていた。 その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕をつってくれた。 妹も両足に大怪我をした。 どこをどう逃げまどったのか、気がついた時は、コザの野戦病院のベッドに横たわっていた。 右腕は切断されていた。 傷口には無数のピンク色のウジがはい回り、すごく痛んだことは記憶にあるのだが。 写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じにに見えた。 身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。 新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前に「どうせ死ぬのだから、きれいなかっこうをしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。 戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と春子さんはいう。(略)(朝日新聞 1985年8月12日)

★ソース
夏草の祈り  あの時子供だったhttp://blogs.yahoo.co.jp/masazumi_kenmochi/32654237.html

 

                        ☆

映画『戦場ぬ童』には2人の少女が登場する。

1人は「白旗の少女」で有名な比嘉富子さん。 

もう1人が「右腕を負傷した少女」の玉那覇春子さん。 つまり太田昌秀著『これが沖縄戦だ』(1977年出版)では「うつろな目の少女」として紹介されている写真の少女のことである。

玉那覇春子さんは、 映画『戦場ぬ童』に登場して「うつろな目の少女」は7歳当時の自分の写真であると証言した。

繰り返し映画「戦場ぬ童」を報じる琉球新報のことを書いてきたが、ここで確実に言えることは琉球新報は自社が発刊した大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』で紹介された写真「うつろな目の少女」は、まぎれもなく玉那覇春子さんであるという事実を知っているということである。

そして、このことから琉球新報は、イデオロギーのためにはウソと知りつつウソの記事を平気で書く新聞であるということの証明でもある。

琉球新報は、記録映画『戦場ぬ童』の中で玉那覇春子が「うつろな目の少女」は自分であると名乗っているのを知りながら、2007年には、西宮に住む大城盛俊氏(75)が、写真の少女は、オカッパの少女に変装した自分だと名乗り出たとき、その証言がウソであることを知りながらスクープとして大々的に報道したのだ。

その時の報道がこれ。

「教科書の嘘は許さず」という大見出しを書きながら、その一方で琉球新報自身は大嘘の報道をしていたことになる。 

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社


日本兵に暴行され、傷だらけになった大城盛俊さん(当時12歳)=1945年6月(大城さん提供)

 「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
 大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
 数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略) (深沢友紀)

             ☆

この記事を書いた深沢友紀記者が記録映画「戦場ぬ童」やそれをもとに朝日新聞が書いた特集記事を見ていないとしたら、沖縄戦の解明を最大のテーマにしている地元紙の記者としては不勉強の謗りを受けても仕方がない。

何しろ琉球新報は本社ビルの中に新聞博物館設営しており、特に沖縄戦に関する新聞記事等の資料はは膨大な数の収集を誇っているくらいだ。

いや、仮に深沢記者個人の怠慢で記録映画「戦場ぬ童」や朝日の特集記事を見ていないとしても、琉球新報の誰かが見ていたはずだ。

『戦場ぬ童』は琉球新報の記事でも繰り返し紹介されているし、何よりも 1985年度の優れた教材映画などを選ぶ第32回教育映画祭で受賞した作品なのだ。

深沢記者一個人の問題ではなく琉球新報が『戦場ぬ童』やそれをもとに書いた朝日新聞の記事を見ていなかったという言い訳は、世間では通用する話ではない。

つまり琉球新報は「うつろな目の少女」が玉那覇春子さんであると知りながら、大城盛俊氏のウソの報道を、確信犯的にウソと知りつつ垂れ流したことになる。

これは琉球新報が意識せずに報道したよくある誤報の類ではない。

「悪逆非道の日本軍」のイメージ作りを意図した極めて悪質な捏造記事であるということが出来る。

琉球新報はこのようにイデオロギーのためには確信犯的に捏造記事を書くのみならず、自社の方針(イデオロギー)に合わないと分かると、上原正稔さんの例でも分かる通り、連載中の記事といえども読者のは何の断りもなく突然掲載拒否をする新聞なのだ。

言葉を変えれば、琉球新報は己のイデオロギーのためには言論封殺を行って恥とも思わぬ新聞なのである。

 

年明け早々の1月24日午前10時30分より、上原正稔さんが琉球新報の言論封殺」に敢然と戦いを挑む「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の五回公判が那覇地裁で行われるので、支援の傍聴をお願いしたい。

 

【カンパのお願い】

現在、沖縄の言論界で村八分状態の上原正稔さんは、裁判の闘争資金が不足しています。緊急に皆様のご支援を必要としています。

上原正稔を支援する三善会にご協力をお願いします。

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