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地元紙が報じない玉津氏の素顔

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昨日は大阪維新の会を率いる橋下新大阪市長の誕生の日だった。 

「独裁者」を呼ばわりしたマスコミのバッシングや、束になっても既成政党の攻撃も潰せなかった「独裁者」が、大阪市長の椅子に初めて座ったその日に、金正日の死亡のニュースが日本列島を駆け巡ったことは橋下伸市長にとっては不運なことだった。

おかげで折角「独裁者」・橋下新大阪市長のニュースは本物の独裁者のニュースですっかり陰が薄くなったというのに、今朝のテレビワイドショーや新聞の見出しは死せる金正日にメディアジャックされた様相である。

「独裁は良くないが独裁的にやるのは良い」という先輩「独裁者」の石原都知事の支援を受け、国政にも切り込む勢いの橋下新市長にとって、金正日の死は出鼻をくじかれた格好になった。

残念無念。橋下新大阪市長として、本物の独裁者には、せめて今年一杯くらいは生きていて欲しかったことだろう。

フセイン、カダフィー、金正日と、本物の独裁者が消えていく。

そういえば、メディアの「独裁者との批判があるが」との問いには、橋下氏は「軍隊を持たない独裁者等ありえない」と一蹴していた。

橋下新市長の政策の中には現在の沖縄で燻っている八重山教科書問題とも大きく関わる全国的普遍的な問題も含まれている。

「政治が教育に介入してはいけない」という神話への挑戦だ。

橋下氏は「教育委員会の解体」などと激しい口調で日教組が巣食う教育委員会に戦いを挑んでいる。

この神話の影響力は強く、沖縄では県知事が保守、革新どちらの政権でも、県教委は「教育への政治不介入。政治的中立」の旗印を守り続けてきた。 これは仲井真県知事の八重山教科書問題への無関心振りを見れば明白だ。 県教委は保守系知事の下に有りながら、大田革新知事から脈々と受け継いできた「反日左翼」の物差しで全てを判断してきた。

つまり県教委は「政治的中立」との隠れ蓑の中で、沖教組の影響を受けるイデオロギー集団と化しているのである。

今回県民の耳目を集めることになった八重山教科書問題も、極左ペンギン市長の16年の間は、法令で義務付けられている教科書展示会等も一般住民には知らされることなく沖教組の内々で行われていた。 教員の中にも展示会の存在を知らなかったという人が沢山いたくらいだ。

最近になってプロ市民が玉津教育長に向かって発している「説明責任・情報公開」などの合言葉がむなしく独り歩きしているが、ペンギン市長の時代には「説明責任」は「100%説明なし」、「情報公開」は「100%情報非公開」で沖教組の独裁で教科書は採択された事実をプロ市民たちはどのように「説明する」のだろうか。

玉津教育長が唱える「教育改革」は長年、歴代教育長が行ってきた沖教組独裁による違法な教科書採択を是正することから始まっているのだ。

これまでイデオロギーまみれの教科書採択を主導してきた歴代教育長が急遽「ゾンビの会」を結成し、「玉津教育改革」の妨害工作をするのは、これまで己が犯してきた「旧悪」が露見するのが怖いからだ。

旧悪が露見するとどうなるか。

16年もの長きにわたって八重山の違法な教科書採択を見てみぬ振りしてきた県教組も、共同正犯として責任を取らされることになる。

そこで地元紙、沖教組、県教委等で構成する「極悪複合体」が一丸となって発狂したかのように「玉潰し」ならぬ「玉津潰し」を仕掛けたというのが今回の八重山教科書騒動の真相である。

「発狂3紙」は「玉潰し」、失礼、「玉津潰し」の手段として「法令を守らぬ独裁者」のイメージ作りのため、元校長の玉津氏が郷土史の専門家であることや教育行政の経験者であることを一切報じてこなかった。

ところが「女子高生投稿事件」を発端に玉津氏のこれまで知られなかった教育者としての顔が知られるようになったことは「玉津潰し」を目論む勢力にとっては皮肉な結果となった。

読者のヒロシさんもこんなコメントを寄せておられる。

≪玉津会長からの回答を読ませていただくと八重山地区の子供達が海外へ留学しやすい環境を整えるために大変尽力していただいたと思います。
玉津会長自ら経緯を説明していただかなければこのような事は全く知られないままであったと思います。
この点に関しては「城所氏の公開質問状」を出していただいて本当によかったと思います。
玉津会長を糾弾する方達にとってはとても不都合な事実ですね。
八重山地区から公費で海外留学された方達ならびにご家族の方にぜひとも玉津会長と城所氏のご意見を聞いて(読んで)いただきたいと思います。
きっと彼らは玉津会長の応援団になってくれる事でしょう。
玉津会長をこれ以上悪者扱いすればするほど
「竹富町立船浦中学校の教頭のセクハラ事件」や「2009年度の教育事務点検評価報告書を作成していないこと」など、どんどん自分たちの不都合な事実が明るみになってきます。

「教科書選定がこじれた原因は慶田盛氏や教育委員会にある」というのは賢明な沖縄県民やこの問題に関心を持っている日本国民には十分理解できる事であり、「平和教育」と称した沖縄の教育が誤りであり教育界とマスコミが一体となった病巣が手の施しようのないまでに腐りきっている証拠ですね。
お医者様であられる城所氏や前石垣市長はこの病巣を治療することもなく、むしろ率先して拡散転移させるという取り返しのつかない事をしていますが自らが侵された身でありますから自覚症状は無いのでしょう。
オウム真理教でも医者や弁護士を取り込み率先して普及活動を行ない被害拡大しています。
「壷」を購入した人、「オレオレ詐欺」で振り込んだ人はダマされた事に気がつきません。
人の話を信じるのは悪い事ではありませんが、「自分で考える・判断する」ということを普段から習慣付けないといけません。(八重山日報以外のタイムス新報八重山毎日は偏向報道を勉強するいい教材ですね、笑)
そのためには教育です。
玉津氏や崎原氏のような方達は沖縄の教育改革の明るい光です。
八重山の教育改革だけでなく沖縄の教育改革、そして日本の教育改革へとつないでいくために賢明な沖縄県民・日本国民は彼らを応援していきましょう。≫

以下に引用の読者コメントは非公開を前提に書かれているが、内容が示唆に富むので筆者の責任で公開する。

≪(前略)
郡域の住民、市民のみなさんに、玉津先生の面倒見のよさ、立派さは、
見えていたと思うのは、私ひとりではないと思っています。

しかし、公開質問状のおかげで、
玉津教育長は、自らが真摯に取り組まれた仕事の一端を
自ら語る機会を与えくれました。
(おかげさまで、ありがたいことだと思います。)

玉津教育長にとって「この立ち合い」、
決然と「望む」ところであったようですね。

「城所望」氏の公開質問、たしかに、結果として、左傾き脳の応援団らには、
ブーメラン?という皮肉な結果となったろうと思っています。

玉津教育長、我が郷土史大家「牧野清」先生の晩年の頃、
索引を含む680頁余に及ぶ「八重山のお嶽」出版の補佐の仕事を通じて
当時から沖縄や郷土の歴史研究に携わっておられたが分かります。

老齢の郷土歴史大家「牧野清」先生の「まえがき」に
玉津博克先生も記名された謝辞が載っています。

玉津先生、若い頃から本当に面倒見がよく、
歴史研究に取り組む教育者であった、立派な方である証左です。

著者牧野先生の「あとがき」には、本日のブログエントリー文中の今話題の
ドキュメンタリー作家「上原正稔」さんのお名前も載っています。

皆様、若い頃から立派なお仕事をされていたこと、ほんとによく判ります。

ご参考までにPDFフアイル添付します。
(表紙、まえがき抜粋、あとがき抜粋)

石垣島、匿名≫

              ☆

 以下は筆者が文字お起こした。

『八重山のお嶽』 牧野清

まえがき

追記
本書の出版は筆者老齢のためその成り行きを心配していたところ、あーまん企画(仲若直子代表)と石垣肇、石垣博孝、大浜永旦、砂川哲雄、玉津博克氏等、八重山文化協会のメンバーが協力して刊行委員会を組織、遂行して頂くということになった。 末尾ながらここにこのことを記して深甚なる謝意を表したい。

平成元年 10月25日 著者 識す

あとがき

「青い目の見た大琉球」の著者ラブ・オーシェリーさん「大琉球発見」を発表した上原正稔氏からは重要な写真、記事の引用を許可して頂き感謝に耐えません。

平成元年(1989年)8月28日

         ★

牧野清氏の逝去を伝える琉球新報。

  牧野清さん死去/明和大津波の実態を解明

 2000年10月23日       
  【石垣】八重山郷土史研究家で「八重山の明和大津波」などの著書がある八重山文化研究会顧問で元石垣市助役の牧野清(まきの・きよし)氏が22日午前8時半、肺炎のため石垣市のかりゆし病院で死去した。90歳。自宅は石垣市登野城425ノ三。告別式は24日午後4時から5時、石垣市石垣285、桃林寺で。喪主は妻光枝(みつえ)さん。
  1771年に先島全域を襲った明和大津波の実態を解明しようと、津波で打ち上げられた津波石のデータや民間伝承をこつこつと集め、古文書と照らし合わせてまとめた研究を1968年に自費出版した。その後も「新八重山歴史」「登野城村の歴史と民俗」「八重山のお嶽」などを著し、多方面にわたって八重山研究を発展させた。八重山文化研究会の初代会長として率先して調査、研究発表にあたり、各地の村誌編集や在野の研究者の指導にも尽力した。東恩納寛惇賞(91年)、県文化功労賞(99年)など受賞も多数。
  喜舎場永■の顕彰碑、明和大津波慰霊碑の建立にも先頭に立って取り組んだ。毎年4月24日の大津波慰霊祭に出席し、防災思想を説いた。昨年は著書「明和大津波」を全国の自治体や関係機関に寄贈して津波への備えを訴えた。
 
 八重山研究の光失った/石垣繁八重山文化研究会会長の話
 
  「八重山研究の父」といわれる喜舎場永■以後の明治生まれの世代と私たちとの間の年齢的断層を埋めた人だった。結核で片肺を失っているのに、率先して調査をした。八重山研究の光を失った。
 
 記録者として希有な能力/谷川健一日本地名研究所所長(民俗学)の話
  記録者として希有な能力を持った方だった。八重山全体を把握しようという情熱があった。もうあんな百科事典的な人は出ないでしょう。八重山にとって損失は大きいのではないか。本当に残念だ。
 
  ■は王に旬

           ☆ 

読者の石垣島、匿名様のコメントの続きです。

≪こんばんは。昼間の疲れから寝入んでしまい、今この時間にPCに向っています。
書き終えれば、また寝ますので、おやすみなさい、のあいさつとなります。

さて、先般添付送信したPDFファイルの追加説明と
「城所望」事件、本人からの投稿を拝見しての私見です。

添付ファイルは、牧野清著「八重山のお嶽」の表紙、まえがきの抜粋、
おとがきの抜粋でした。

「あとがき」648頁の中頃に、著者、今は亡き八重山郷土歴史研究の大家
牧野清先生が、老齢の身ながら、さしたる健康上の問題もなく、
原稿を完成し得たことは、正に奇跡という感を禁じえないとの趣旨を述べたうえ、
「医療を保障した国家、社会のお陰であり、衷心感謝に堪えない。」と書き記し、
国家と社会に対する謙虚なご自身の感謝の気持ちを述べておられます。
優れた郷土の先達の至言であり、この至言「公民」教科書の意義にも通じます。

一方、国家は個人の自由を束縛する、国家など必要ない、と
堂々と紙媒体に書く無政府主義の者らがこの地域、県内に棲息し、
その主義者であるとの自己紹介までする者がいます。

八重山毎日新聞「八重」氏記名コラムの「不連続線」があります。
「八重洋一郎」こと「糸数用一」氏は、「わが国は11年後、二度目の崩壊をする
気がする、・・」と述べ、わが国崩壊の予言(期待?)する妄言を新聞コラムに
書き、市民、郡民、県民、国民に喧伝し惑わしていますが、
八重山郷土歴史史大家亡牧野清先生の前記至言「国家、社会のお陰です」の言葉と、
この者らの言動とは、天地ほどの差を感ずる違和感を覚えて読みました。

玉津教育長、若き教師時代に、郷土「八重山文化研究会」の会員として
老齢の牧野先生の薫陶の下、牧野先生自身、著作の「あとがき」で「遺言」と
述べておられる「八重山のお嶽」の執筆補佐をしていたろうことを思います。
牧野先生、老齢にあって、若き玉津先生は、おそらく牧野先生の最後の
「師弟関係者」のお一人かもしれません。

今は亡き牧野先生、郷土歴史研究の承継、人材育成の必要性、継続性など当時の
郷土歴史研究家らに託し、語っていたろうこと、著者牧野先生自身、遺言書する遺作
「八重山のお嶽」の「まえがき」と「あとがき」に発刊の謝意を書き述べておられます。

その謝意の中に、「八重山文化研究会」会員のお一人であった若き玉津先生
(現教育長)も記名のうえ、その功績に謝意を記しておられます。

投稿者も、牧野先生に直接に教えを請う機会があり、
牧野先生の人柄をよく知る者であります。

牧野先生、惜しげなく資料を提供し、これらを参考にされよ、
との激励のお言葉を賜りました。長くお付き合いした間柄になくとも、
無私無欲の郷土を思う、研究の志一筋のご立派な先生でありました。

その亡き牧野先生と「師弟関係」にあり、その薫陶を受けた若き当時の凛とした
玉津先生(現教育長)を思うとき、私が牧野先生との面会の経験から、
亡き牧野先生の遺志に相通ずるものがあったと推測いたします。

ところで、「師弟関係」というと、現代の者ら一部には、
「封建的だ、世話などになっていない。自分一人の努力で今の自分になった。」
などと言う者らもいます。しかし、私は、人は、人から教えを受け、
互いに支えあって今の自分があり、そして、自ら得た経験は後継する責務がある
と考える者であります。

今は亡き牧野先生の人柄に接した者からすれば、
人と人との感性、時代の違いによるのかもしれませんが、
後継の研究者に託す研究継続の思いは、仕事の分野を問わず、
受け継ぐ研究者らは、先達の遺志を受け継ぎ、その期待に応える思いと
気持ちは無私無欲、自然なものであると思われます。

とまれ、玉津先生(現石垣市教育長)、八重山郷土歴史家牧野清先生の遺言作、
「八重山のお嶽」発刊の労に携わった若き当時から、世話好きな沖縄、郷土の
歴史研究の継承者に間違いはなく立派な方であります。
繰り替えしになりますが、この評価、亡牧野先生が遺作とする著作本の
「まえがき」と「あとがき」に謝意として語られています。

また、私が生前の牧野先生の人柄に接し人柄を知る者として、
牧野先生の薫陶を受けた玉津先生が郷土、沖縄歴史研究と後継育成の熱き思いを
承継し、実践してきたことは、容易に推測できる者であります。
玉津教育長の回答書は、公開質問者の娘さんが海外留学者であったので、
玉津教育長はその観点から自らの実務経緯を縷々書き述べていますが、
後継者人材育成の必要を感ずる教育者、行政の執行者の立場から公開質問に
誠実に回答していること、市民、郡域住民に伝わっていると思います。

そして、このブログ読者を通じて全国民に玉津教育長の本意が伝わることを
心から願っています。

以上、自己体験も交えてのご報告追記まで

追記
発刊著作本とはいえ、現職の関係者の記名がありますので、
「非公開の資料」提供でした。

「城所望」氏、第三者を介して「交渉」するとのことですが、
「交渉」に拘ることは、お止めすることがご自身と娘さんの将来のため、
とお考えいただきたいものです。お二人のケース「人の災いを生業とする者」を
第三者に介するべきでないことだけは助言に申し添えたいと思います。

私見、父親と娘が個人的に「玉津先生に素直に詫びる」ことを助言したいのです。
娘さんの将来のこと、お二人のこれからの心身の安定を思うとき、
冷静になって、おこがましい助言とは思いますが、人として歩むべき道を歩む、
このことこそ、和解とご自身らの新たな第一歩だと思っています。

というのは、自ら蒔いた災いの種、自ら刈り取るべきです。
決意が要るでしょうが、玉津先生のお人柄と、玉津先生は故牧野先生の薫陶を
受けています。すべてを水に流すことができる度量の人柄であることを信じます。

ただし、お互いの気持ちに和解解決があったときは、
「城所望」氏、市民、郡域住民、県民、国民を騒がしたのですから、
それなりに「説明責任」を果たされることを望みます。
その「説明責任」は、ご自身と娘さんのこれからのためになる、と思うからです。

私が望む、「詫びる」自己決定による解決が一番だと思っていますが、
城所氏に私の思いが伝わるよう心から願っています。(願う独り言)

石垣島、匿名≫


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