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琉球新報で、初めて「オカッパの少年」の記事を見たとき、一つの大きな疑念が湧き上がってくるのを抑えるる事が出来なかった。 大城氏がウソを付いたのを、琉球新報が裏づけ調査もせず、そのまま垂れ流したのではないかと言う疑念である。 ところがである。 琉球新報は「裏取り」どころか大城氏がウソを付いていることを、以前の自社の記事で知っていながら、平気でウソを垂れ流したのである。 *
琉球新報は2007年、大城氏のヨタ話を「スクープ」として報道した。
その年2007年は沖縄マスコミにとっては特別の年であった。
その年の3月末、高校歴史教科書に文科省の検定意見が発表された。
沖縄戦の最中慶良間島で起きた「集団自決」は「軍命だった」という記述を、教科書から削除せよという検定意見である。
それに対し沖縄マスコミが一斉に反発し、連日狂気のような「検定意見撤回」のキャンペーンを張った。
沖縄紙に登場する沖縄戦の体験者は、「集団自決」にからむ「悪逆非道の日本軍」を告発し、報道は加熱して行った。
当時の県議会議長までもが「日本兵に毒おにぎりを喰わされそうになった」などとありえない証言をし、琉球新報はこれを何の検証もなく事実として報道した。
日本兵から毒おにぎりを喰わされそうになったという仲里県議会議長の琉球新報記事は現在削除されている。(笑)
⇒毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る
海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
(琉球新報 6/21 9:50)
「悪逆非道の日本軍」についての証言であれば、何の検証もなくそのまま報道するというのが、2007年という狂気の年の沖縄マスコミの報道姿勢だった。
当時の琉球新報にとって、大城盛俊氏氏の「告白」は、「集団自決は軍の命令だった」という印象操作をするには、他に類を見ないほど「日本軍の悪」を表現していた。
2007年の8月、琉球新報は、沖縄タイムスでさえも報道を控えた大城氏の嘘の証言を「スクープ」として大々的に報道したのだ。
その一方で、「集団自決軍命説」を主張する琉球新報は、自社の主張と異なる意見はあからさまに紙面から排除した。
2007年という年は、琉球新報が、上原正稔さんの長期連載中の記事を、「自社の方針に合わない」という理由で掲載日直前に言論封殺した年でもある。
大城氏は「スクープ記事」の翌年、戦火の激しかった沖縄本島での講演会は避けるように、戦争体験者の比較的少ないといわれる石垣市で講演会をして、日本兵の悪逆非道の数々を訴えている。
大城氏が講演会で「日本兵の悪行」訴えるその時の八重山毎日新聞の記事がこれ。
日本兵が暴行、右目失明 表紙の「少女」大城さん、沖縄戦を語る 2008年6月22日
日本軍の暴行や虐殺を静かな怒りで語る大城盛俊さん=21日、石垣市民会館中ホール
6月 22日 2008
大城盛俊氏が講演
うつろな目の少女の写真(省略)
23日の「慰霊の日」を前に、戦争の実相を正しく理解しようと世界平和の鐘の会沖縄県支部と石垣市は21日午後、市民会館中ホールで平和講演会を開いた。“うつろな目の少女”の写真で知られる旧玉城村出身の大城盛俊さん(76)=兵庫県伊丹市=が「沖縄で起きた戦争の話」のテーマで講演し、「県民は日本軍に協力したが、日本軍は県民を犠牲にした」と訴えた。 写真に写っている大城さんは当時12歳。おかっぱの髪形になっているのは、育ての親から「日本軍に連れて行かれないよう女の子の格好をさせられた」からだという。 日本兵に暴行を受けたのは米軍上陸後の1945年5月ごろ。当時、大城さんは伯父伯母とともに旧玉城村のガマにいた。大城さんが持っていた黒砂糖の入ったリュックサックの中身を問いただすやりとりで「生意気だ」と言われ、殴るけるの暴行を受けた。同年6月、大城さんは米兵に保護され、血まみれになったまま診療所で手当てを受けた際、写真に撮られたという。 生みの母親は別のガマにいたが、大城さんを訪ねて戻るときにスパイと疑われ、日本兵がガマに投げ込んだ手りゅう弾で死んだ。大城さんは「私は日本軍の兵隊に暴行され、母親は兵隊が投げた手りゅう弾で殺された。このことは一生忘れない」と語気を強めた。 講演前に八重山平和祈念館を訪れたという大城さんは戦争マラリア被害にも言及、「日本軍のために4000人近い人が命を失った。ほんとに悔しい」と冥福を祈った。 大城さんはこう頭がんで声帯を失っているが、沖縄戦を全国に訴える会の会長として人工声帯を通して沖縄戦の実相を訴え続けている。講演は1000回以上。「アメリカ兵に助けられたが、暴行の後遺症で右目はまったくみえない。左目も0.03しかない。それでも、くじけずに一生懸命頑張ってきた。命があれば必ず未来は開ける」と語りかけた。
☆
■「スクープ記事」報道の年(2007年)の持つ意味■
筆者がこの「少女」が実はオカッパ頭の少年であったという事実を初めて知った2007年8月当時の沖縄は、「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」(「11万人」集会)を目前にして、地元紙が沖縄戦の証言者を連日のように紹介し、「悪逆非道の日本兵」を喧伝するキャンペーンが真っ盛りの時期であった。
沖縄中が反日本軍キャンペーンに熱気を帯びている最中に、大城氏は地元紙の取材を受けるため伊丹市からわざわざ沖縄を訪れ驚愕すべき証言をした。
その年2007年は、琉球新報は3月に文科省が高校の歴史教科書検定意見で、「慶良間の集団自決は軍命である」という記述は削除するように指示したことに対し、島中が集団発狂したかのように「検定意見撤回」のキャンペーン報道を展開していた年である。
3月の文科省検定意見の発表から9月の「11万人集会」に至る2007年という年は、小林よしのり氏が言う「全体主義の島沖縄」を象徴するような狂気に満ちた年であった。
そんな時期に上原正稔さんが長期連載中の「パンドラの箱が開く時」の中で、「慶良間で何が起きたか」の内容は琉球新報にとって「不都合な真実」であった。
連載中の沖縄戦記で「軍命はなかった」と書かれては、琉球新報にとって言論封殺の対象にせざるを得なかった。
沖縄メディアは「赤信号みんなで渡れば怖くない」の風潮に乗って歪曲・捏造記事を垂れ流していた。
琉球新報は大城氏のウソの証言を報道するという「赤信号」を渡った。
琉球新報はその年、2007年には大城氏の「スクープ記事」のような捏造記事の他に、連載中の沖縄戦記を掲載日直前になって掲載を一方的に拒否するという言論封殺を行っている。
その年、琉球新報は連載中の上原正稔さんの沖縄戦記を言論封殺するという「赤信号」を渡ってしまったのである。
周知の通り、ドキュメンタリー作家上原正稔さんは琉球新報に長期連載中の「パンドラの箱が開く時、慶良間で何が起きたか」を突然掲載拒否され、現在琉球新報を相手取って言論封殺の法廷闘争中である。
★
【おまけ】
琉球新報の「スクープ」記事により「悪逆非道の日本兵」を告発する「語り部」としてのお墨付きをもらった大城氏の講演会のチラシ。
発声器を使いながら講演を行う大城盛俊さん
【おまけ】2
2008年、朝日新聞の一面トップ記事で「語り部」を引退宣言した大城氏だが、その後引退を撤回し、あいも変わらず「デタラメな体験談」で聴衆を騙し続けている。
詐話師大城盛俊氏にお墨付きを与えた琉球新報の罪は限りなく大きい。
新兵庫人 輝く 第17部戦後65年の夏に (2010/08/01)
戦争体験者の高齢化は避けられない。
沖縄戦を生き延び、伊丹市で暮らす大城盛俊(もりとし)(77)は昨年秋、語り部をやめようとした。25年間、全国で重ねた講演は1500回を超えた。体力的に厳しく、病気の妻の介護に専念するつもりだった。
反響の大きさが大城を驚かせた。「今、やめてもらっては困る」「もっと話を聞かせて」―。引退宣言を撤回した。既に来年8月まで講演予定が埋まっている。
45年5月、沖縄本島南部。身を潜めるガマ(洞穴)に来た日本兵に、なけなしの食料を奪われそうになり、抵抗した。暴行を受け、右目を失明した。
母親は、日本兵にスパイと疑われ、逃げ込んだガマに手榴(しゅりゅう)弾を投げ込まれ殺された。その最期の姿は昨年、沖縄で出会った目撃者から聞いた。
「戦争は味方も敵もない」
喉頭(こうとう)がんで声帯を失い、人工声帯をのどにあてて声を振り絞る。
暴行の1カ月後、米兵に保護され治療を受け一命を取り留めた。「男子は12歳でも日本軍に連れて行かれる」と話す親類がいて髪を伸ばしていた。その姿を米兵が撮った。写真は「うつろな目の少女」として戦後、本の表紙にもなった。
「命は自分一人のものでないこと。お互いを思いやること。命の大切さを伝えたい」
平和な世の自殺や児童虐待に心を痛める。そして、米軍普天間飛行場移設問題を思う。「今も沖縄が犠牲になっていることを、どれだけの日本人が知っているだろうか」
生かされて65年が過ぎた。心に刻み付けられた記憶が、生き証人の背中を押す。(敬称略)
(社会部・石沢菜々子、大月美佳)
ーパンドラの箱掲載阻止訴訟ー
■第4回口頭弁論のお知らせ■
皆様、日頃のご支援ご協力、誠に有難う御座います。
いよいよ、沖縄の閉ざされた言論空間に亀裂が入り始めました。
本年1月にドキュメンタリー作家の上原正稔氏が琉球新報社を著作権の侵害と表現に自由の侵害を理由に提訴して以来、新聞販売店主から相つぎ「押し紙訴訟」が提訴されるようになっており、このまま「押し紙訴訟」が増えてゆけば、琉球新報社は弁護士費用で首が回らなくなるかもしれません。
同時に、沖縄タイムス社も同様の押しつけを新聞販売店にしているだけに、火の粉が飛んで来ないように、ハラハラしている状況です。
さて、そういう意味で、この第4回以降の口頭弁論がどのように進められて行くかに、世間は注目し始めております。
今回の法廷は(これまでも見所十分な内容でしたが)、被告側の主張が破綻して行くさまをご覧いただけるものと思います。お時間の許す方は是非傍聴にご参加下さい。
尚、その後の報告会も恒例通り、行いますので、こちらの会場にも参加頂けましたら、今後の展開を予測いただけるものと思います。
■第4回口頭弁論
11月8日(火)午前11時開廷(傍聴希望者は10時30分までに)
那覇地裁
■同報告会
同日 正午より 奥武山 護国神社社務所 2階会議室
参加費 無料
お問い合わせ: 090‐9780‐7272 錦古里まで
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