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最高裁判決に決定的影響を与えると思われる「澄江証言」の登場。
発掘者である藤岡信勝拓大教授が、解説論文を雑誌『正論』寄稿している。
論文の前半は「澄江証言」が裏付けした「宮平証言」の解説になっているのでそこは省略し、後半の「大城澄江の証言」の部分を全文紹介する。
『正論』7月号掲載論文
沖縄戦「集団自決」控訴審判決の誤診を糾す
拓殖大学教授藤岡信勝
(前略)
大城澄江の新証言
私は以前に、大城澄江に面会したことがある。 2008年2月、世界日報記者・鴨野守とともに座間味住民の証言を集め始めた時、出会ったお年寄りの一人であった。 その時は、第一戦隊長の・梅沢裕少佐が村の女子青年のあこがれの的であったことを、相好を崩して話していただいたことが印象に残っている。 しかし、その当時は、澄江が今回のように沖縄集団自決訴訟の控訴審判決を根底から覆す決定的な証言の証言者のポジションにあることなど想像も出来なかった。
大城澄江は大正9年1月20日生まれで、現在、90歳の高齢である。 集団自決があった65年前の昭和20年3月の時点では、25歳であった。 当時は旧姓・宮平澄江で、学校の職員をしていた。
澄江の名前は、宮城晴美著『母の遺したものー沖縄座間味島「集団自決」の新しい証言』(平成12年、高文妍)に収録された宮城初枝(当時24歳)の手記の中に登場する。本部壕を去るとき、村の重要書類を忠魂碑前に運んで焼却するように助役の宮里盛秀から命じられた宮城初枝は、4人の青年達に仕事を手伝わせ、そのあと、5人で米軍包囲下の村の中を逃避行する。 その5人組の一人が大城澄江だった。 初枝の手記には次のように書かれている。
《私はそこにいた宮平初枝さん(25歳)、小嶺つる子さん(22歳)と弟の茂さん(17歳)、そして妹の美枝子(22歳)に事情を話し、5名で役場の壕から重要書類(土地台帳)を持ち出し、忠魂碑の前に運ぶことにしました。
1回はどうにか運びましたが、2回目の時、突如飛来した照明弾が、私たちの頭上をパーッと明るい光線で照らし、ゆっくり落ちてきました》
澄江は初枝らとともに、忠魂碑前に来たことになる。 その時、澄江は秀幸とその家族に会っていたいたというのが、今回の証言のポイントである。
5月1日、午後2時半ごろ、大城澄江は簡易椅子を押しながら忠魂碑前にやってきた。 インタビューは忠魂碑を背にして行われた。 以下、私の質問は「−−」で示し、( )は前後の文脈や意味を補うために付け加えたものである。
【山に行ったら、(小嶺)つるさん、私、初枝さん、美枝(子)さん、(小嶺)尚弘さん(当時は茂。戦後改名して尚弘)、この5名いっしょになって逃回って、あと、こっちまで来たんだけど、こっちは初枝さんが・・・・ ーーここは忠魂碑前、(地元の名前では)マカーですよね。 マカーに来るようになったのはどうしてですか? だから、壕の中にいるときに、みんな呼びかけて、あっちに集まりなさいということだから、自分らは勘違いして、米の配給かねーと思って、農業組合(名称変更で後に産業組合)の店があって、米はこっちの上に積んでいたから、ああ、これとりに来なさいというんだねーと、(忠魂碑前に)集まったら、誰も来ない。 マカーで米の配給があるかなーと思って自分から先に来たら、待っても待っても誰も来ない。 シーンとしている。 初枝さんが待っている間に役場の書類こっちにあるから、こっちからどんどん出してきたら、バラバラ飛ぶものがあって、聞いたら土地台帳だったって、みょうにち(翌日)は、バラバラと風に飛んだ。 ーー土地台帳、どこに置きました? この辺(忠魂碑の手前2メートルほどの草の上を両手で示しして)に持ってきたんですよ。 初枝さんは役場のかただったから、「壕があるから命令でこっちに積んでおこうね」と言って、土地台帳しかわからなかったけれど、一人ひとり行ったり来たりして運んで、そうしているうちに、秀幸さんたちに会ってね。 ーー秀幸さんだけですか? 家族? 家族、会ったから、誰も来ない。 自分らは初枝さんの 家に整備中隊の団体がいたから、もしどこにもいけなかったら、整備中隊の壕に行きなさいといわれていたって。 もうこっちにいても誰も来ないから。(秀幸の)家族、会ったんですよ。 ーー覚えている人は、どんな人? おばあさん(貞子)、秀幸さんと、千代さんはあとから来たね。 ーー千代さんにも会ってる? 千代さん、(米軍の)捕虜になってから、あとから合流して、あばあ探して山に来た。 こっち(忠魂碑前)にいる時はね、もう(千代を)チラッと見たけれども、もう逃げる考えさね(逃げることに気がとられていた)。 自分らは初枝さんらの整備中隊の壕に・・・ ーーもう一度聞くけど、この忠魂碑の前で、秀幸さんと、お母さんの貞子さんと、千代さんはチラッと見る程度で、まあ、話はしなかったけれど・・・。 そうそう。 ーー要するに、秀幸さんの家族がここにこられて、その夜、会っているわけですね。 会って、また別れて、自分らは整備中隊の壕に行こう、あっちには何もかもあるから、万が一のことがあったら、あっちに行きなさいといわれていたから】 右のように、大城澄江は、昭和20年3月25日の夜、忠魂碑前で宮平秀幸とその家族に会っているのである。 控訴審判決が誤判であることが証明された瞬間であった。
澄江が運んできた土地台帳の書類を、秀幸は忠魂碑の台座の上に置き直した。 どこからどこに運んだか、澄江と秀幸で、現場検証が行われた。 忠魂碑の台座にのせられた書類の一部は、3月26日に上陸した米軍が撮影した忠魂碑の写真ではっきり確認できる。
この時、忠魂碑前で、初枝は千代に、「ここにいたら殺されるからいっしょに山に逃げよう」とさそったが、千代は昌子をおぶっていたので、ことわった。 秀幸はそのやりとりを、そばで聞いていた。
なお、右の澄江証言に関連して、重要な発見があったので書いておきたい。 澄江は証言の中で、しきりに、忠魂碑前に「誰も来ない」とくり返している。 「誰も来ない」という言葉を字義通りに解釈すれば、秀幸とその家族がそこにいたいたことと矛盾する。 だから、この言葉が字義通りでないことは明らかだ。 はなし言葉でしばしば用いられる一種の誇張表現で、米の配給を取りに大勢の人々が集まっていると期待していたのに、その期待に比して、ほとんど人がいないということであろう。
それにしても、80人の村人が忠魂碑の前にいたという証言とは矛盾する。 現地調査で確認できたことだが、忠魂碑に来た村人、忠魂碑に向かって右手にあるに、大きな日本のマツの木の下に、家族単位で身を寄せ、ひそんでいたのである。秀幸の家族の後ろにも、大勢の家族がいた。 しばしば米軍の証明弾があがり、真昼のように照らし出されるので、敵に見つからないように身をかくしていたのである。
それに加えて、あたりは硝煙がたちこめて、視界が悪くなっていた。 「忠魂碑前に来たが誰もいないので引き返した」という証言が多数出てくる理由は以上のような事情も反映したもので、本当に人がいなかったとは限らない。 今後は証言の読み方を変えなければならない。 捏造された「座間味村史」 一体、貞子の証言は、どのような状況の中で記録されたのだろうか。これについて、今回、秀幸の妻・照子の証言と、秀幸自身の(二度目の)証言とを得ることができた。
「座間味村史・第三巻・証言編」は、1989年8月に発行されている。 貞子の証言が記録されたのは、おそらくその前年、1988年のことであると想定される。 証言の当日、貞子は、午前中に役場に出かけてソンシの編集者担当者のインタビューを受け、昼頃、長男・秀信の家に帰ってきた。 ちょうどその時、フェリーの機関長をしていた秀幸と、妻の照子が秀信の家にいて、役場から帰ってきた貞子の愚痴を聞いていた。 以下は照子の証言である。 【ちょうど長男の秀信さんが、縁側にすわって、ナイロンの釣り糸とか釣り針とか、海の道具を準備していました。 そこに私も、ななめ横のほうに子供をだっこして立っていました。 横のうしろのほうに、じいちゃん(秀幸)が船に勤めていましたが、帰っていたんですよ。 それで、ばあちゃん(貞子)が役場のほうから帰ってきましてね。
午後12時半くらいじゃなかったかと思います。
「あんまよ、ま、ちかれて(疲れて)、もう、くり返しくり返ししゃべらされて、もう疲れた」って、おばあ(貞子)、言ってたんですよ。 「『ん、まあ、しゃべっていい。 こっちはしゃべっていけない』って、こんなにして、まあ、何回もくり返させられて、ああ、もう疲れた」」って言ってたんですよ】
すでに、8月7日付けの宮平秀幸陳述書には、「母はテープに証言を吹き込む取材を受けたとき、『そこはストップ』、『はい戻って』などとくり返され、終わって帰ってきてから『「ああ、疲れた』とこぼしていました」という一節がある。 今回、改めて次の秀幸の証言を得た。
【時期ははっきり覚えていませんが、とにかく夏でした。 兄貴(秀信)がちょうどトローリングの時期で、桟橋に定期船が入港した時に、「兄さん(秀信)は今朝からサワラとってきて、きのうからずっと大漁しているよ」って(誰かが)言うもんだから、お昼休みに桟橋を降りて兄貴の家に寄ったのです。 兄貴と釣り道具の話をしている時に、おふくろ(貞子)が帰ってきたんです。 帰ってきたのはお昼ごろではなかったかと思いますがね。
「お母さん、どこに行ってたの?」と言ったら、「ああ、もう、疲れてクタクタだ」と言ったから、「何で?どこに行っていたの? 畑の仕事をやっているわけでもないのに、疲れたというのは・・・)(ときいた。 すると貞子は)「そうじゃないよ。 役場でのインタビューがね、何が何やらわからん。 戦争のことを話そうとしたら、話を進めていくのだが、『ここやっていい。 ここ、わるい。はい、また進めなさい。 はい、また振り出しに戻して』、やり直しやり直しさせられて、疲れてコテンコテンになっている。 ゴーヘイバック、ゴーヘイバックというのはこんなもんだろう」と言われたんですよ】
長男・秀信の家で聞いた母・貞子の愚痴の内容について、秀幸と照子の証言はは、右の傍線のとおり、全く一致している。 テープレコーダーに録音しているうちに、貞子が忠魂碑前に家族で行ったことをつい話してしまうので、テープを何度も止めて巻き戻し、インタビューをやり直す様子が目に浮かぶようだ。秀幸の証言通り、「忠魂碑前のことはしゃべるなと役場で取り決めて」、貞子に禁じていたことは間違いない。 村ぐるみの歴史の偽造が行われていたのである。
宮城晴美は、大阪高裁に提出した陳述書の中で、次のように書いている。
《私は昭和60年[1985年]から四年あまり、座間味村役場の委託を[受けて、『座間味村史』全三巻の編集・執筆に携わりましたが、昭和63年1月頃から「村民の戦争体験」を」まとめるため、ご自身では書けない高齢の方々から証言の聞き取り調査をはじめました。
村ぐるみの歴史の偽造の中心人物は、宮城晴美その人だったのである。 ◇ 沖縄戦史の改竄を企む沖縄二紙等の左翼勢力は「澄江証言」を全く黙殺し平静を装っているが、地方紙でありながら「澄江証言」を一行も取り上げないのが、動揺している一番の証拠である。 だが、同証言の登場で、今一番戦々恐々としているのは、「座間味村史」を改竄した宮城晴美氏と、「渡嘉敷村史」の監修者の安仁屋政昭沖国大名誉教授の左翼師弟コンビであろう。 自己のイデオロギーを守るため公的刊行物まで偽造して、宮平証言を虚言として葬り去り、結果的に沖縄戦史を改竄した罪は限りなく大きい。 つづく 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所
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大城澄江は大正9年1月20日生まれで、現在、90歳の高齢である。 集団自決があった65年前の昭和20年3月の時点では、25歳であった。 当時は旧姓・宮平澄江で、学校の職員をしていた。
澄江の名前は、宮城晴美著『母の遺したものー沖縄座間味島「集団自決」の新しい証言』(平成12年、高文妍)に収録された宮城初枝(当時24歳)の手記の中に登場する。本部壕を去るとき、村の重要書類を忠魂碑前に運んで焼却するように助役の宮里盛秀から命じられた宮城初枝は、4人の青年達に仕事を手伝わせ、そのあと、5人で米軍包囲下の村の中を逃避行する。 その5人組の一人が大城澄江だった。 初枝の手記には次のように書かれている。
《私はそこにいた宮平初枝さん(25歳)、小嶺つる子さん(22歳)と弟の茂さん(17歳)、そして妹の美枝子(22歳)に事情を話し、5名で役場の壕から重要書類(土地台帳)を持ち出し、忠魂碑の前に運ぶことにしました。
1回はどうにか運びましたが、2回目の時、突如飛来した照明弾が、私たちの頭上をパーッと明るい光線で照らし、ゆっくり落ちてきました》
澄江は初枝らとともに、忠魂碑前に来たことになる。 その時、澄江は秀幸とその家族に会っていたいたというのが、今回の証言のポイントである。
5月1日、午後2時半ごろ、大城澄江は簡易椅子を押しながら忠魂碑前にやってきた。 インタビューは忠魂碑を背にして行われた。 以下、私の質問は「−−」で示し、( )は前後の文脈や意味を補うために付け加えたものである。
【山に行ったら、(小嶺)つるさん、私、初枝さん、美枝(子)さん、(小嶺)尚弘さん(当時は茂。戦後改名して尚弘)、この5名いっしょになって逃回って、あと、こっちまで来たんだけど、こっちは初枝さんが・・・・ ーーここは忠魂碑前、(地元の名前では)マカーですよね。 マカーに来るようになったのはどうしてですか? だから、壕の中にいるときに、みんな呼びかけて、あっちに集まりなさいということだから、自分らは勘違いして、米の配給かねーと思って、農業組合(名称変更で後に産業組合)の店があって、米はこっちの上に積んでいたから、ああ、これとりに来なさいというんだねーと、(忠魂碑前に)集まったら、誰も来ない。 マカーで米の配給があるかなーと思って自分から先に来たら、待っても待っても誰も来ない。 シーンとしている。 初枝さんが待っている間に役場の書類こっちにあるから、こっちからどんどん出してきたら、バラバラ飛ぶものがあって、聞いたら土地台帳だったって、みょうにち(翌日)は、バラバラと風に飛んだ。 ーー土地台帳、どこに置きました? この辺(忠魂碑の手前2メートルほどの草の上を両手で示しして)に持ってきたんですよ。 初枝さんは役場のかただったから、「壕があるから命令でこっちに積んでおこうね」と言って、土地台帳しかわからなかったけれど、一人ひとり行ったり来たりして運んで、そうしているうちに、秀幸さんたちに会ってね。 ーー秀幸さんだけですか? 家族? 家族、会ったから、誰も来ない。 自分らは初枝さんの 家に整備中隊の団体がいたから、もしどこにもいけなかったら、整備中隊の壕に行きなさいといわれていたって。 もうこっちにいても誰も来ないから。(秀幸の)家族、会ったんですよ。 ーー覚えている人は、どんな人? おばあさん(貞子)、秀幸さんと、千代さんはあとから来たね。 ーー千代さんにも会ってる? 千代さん、(米軍の)捕虜になってから、あとから合流して、あばあ探して山に来た。 こっち(忠魂碑前)にいる時はね、もう(千代を)チラッと見たけれども、もう逃げる考えさね(逃げることに気がとられていた)。 自分らは初枝さんらの整備中隊の壕に・・・ ーーもう一度聞くけど、この忠魂碑の前で、秀幸さんと、お母さんの貞子さんと、千代さんはチラッと見る程度で、まあ、話はしなかったけれど・・・。 そうそう。 ーー要するに、秀幸さんの家族がここにこられて、その夜、会っているわけですね。 会って、また別れて、自分らは整備中隊の壕に行こう、あっちには何もかもあるから、万が一のことがあったら、あっちに行きなさいといわれていたから】 右のように、大城澄江は、昭和20年3月25日の夜、忠魂碑前で宮平秀幸とその家族に会っているのである。 控訴審判決が誤判であることが証明された瞬間であった。
澄江が運んできた土地台帳の書類を、秀幸は忠魂碑の台座の上に置き直した。 どこからどこに運んだか、澄江と秀幸で、現場検証が行われた。 忠魂碑の台座にのせられた書類の一部は、3月26日に上陸した米軍が撮影した忠魂碑の写真ではっきり確認できる。
この時、忠魂碑前で、初枝は千代に、「ここにいたら殺されるからいっしょに山に逃げよう」とさそったが、千代は昌子をおぶっていたので、ことわった。 秀幸はそのやりとりを、そばで聞いていた。
なお、右の澄江証言に関連して、重要な発見があったので書いておきたい。 澄江は証言の中で、しきりに、忠魂碑前に「誰も来ない」とくり返している。 「誰も来ない」という言葉を字義通りに解釈すれば、秀幸とその家族がそこにいたいたことと矛盾する。 だから、この言葉が字義通りでないことは明らかだ。 はなし言葉でしばしば用いられる一種の誇張表現で、米の配給を取りに大勢の人々が集まっていると期待していたのに、その期待に比して、ほとんど人がいないということであろう。
それにしても、80人の村人が忠魂碑の前にいたという証言とは矛盾する。 現地調査で確認できたことだが、忠魂碑に来た村人、忠魂碑に向かって右手にあるに、大きな日本のマツの木の下に、家族単位で身を寄せ、ひそんでいたのである。秀幸の家族の後ろにも、大勢の家族がいた。 しばしば米軍の証明弾があがり、真昼のように照らし出されるので、敵に見つからないように身をかくしていたのである。
それに加えて、あたりは硝煙がたちこめて、視界が悪くなっていた。 「忠魂碑前に来たが誰もいないので引き返した」という証言が多数出てくる理由は以上のような事情も反映したもので、本当に人がいなかったとは限らない。 今後は証言の読み方を変えなければならない。 捏造された「座間味村史」 一体、貞子の証言は、どのような状況の中で記録されたのだろうか。これについて、今回、秀幸の妻・照子の証言と、秀幸自身の(二度目の)証言とを得ることができた。
「座間味村史・第三巻・証言編」は、1989年8月に発行されている。 貞子の証言が記録されたのは、おそらくその前年、1988年のことであると想定される。 証言の当日、貞子は、午前中に役場に出かけてソンシの編集者担当者のインタビューを受け、昼頃、長男・秀信の家に帰ってきた。 ちょうどその時、フェリーの機関長をしていた秀幸と、妻の照子が秀信の家にいて、役場から帰ってきた貞子の愚痴を聞いていた。 以下は照子の証言である。 【ちょうど長男の秀信さんが、縁側にすわって、ナイロンの釣り糸とか釣り針とか、海の道具を準備していました。 そこに私も、ななめ横のほうに子供をだっこして立っていました。 横のうしろのほうに、じいちゃん(秀幸)が船に勤めていましたが、帰っていたんですよ。 それで、ばあちゃん(貞子)が役場のほうから帰ってきましてね。
午後12時半くらいじゃなかったかと思います。
「あんまよ、ま、ちかれて(疲れて)、もう、くり返しくり返ししゃべらされて、もう疲れた」って、おばあ(貞子)、言ってたんですよ。 「『ん、まあ、しゃべっていい。 こっちはしゃべっていけない』って、こんなにして、まあ、何回もくり返させられて、ああ、もう疲れた」」って言ってたんですよ】
すでに、8月7日付けの宮平秀幸陳述書には、「母はテープに証言を吹き込む取材を受けたとき、『そこはストップ』、『はい戻って』などとくり返され、終わって帰ってきてから『「ああ、疲れた』とこぼしていました」という一節がある。 今回、改めて次の秀幸の証言を得た。
【時期ははっきり覚えていませんが、とにかく夏でした。 兄貴(秀信)がちょうどトローリングの時期で、桟橋に定期船が入港した時に、「兄さん(秀信)は今朝からサワラとってきて、きのうからずっと大漁しているよ」って(誰かが)言うもんだから、お昼休みに桟橋を降りて兄貴の家に寄ったのです。 兄貴と釣り道具の話をしている時に、おふくろ(貞子)が帰ってきたんです。 帰ってきたのはお昼ごろではなかったかと思いますがね。
「お母さん、どこに行ってたの?」と言ったら、「ああ、もう、疲れてクタクタだ」と言ったから、「何で?どこに行っていたの? 畑の仕事をやっているわけでもないのに、疲れたというのは・・・)(ときいた。 すると貞子は)「そうじゃないよ。 役場でのインタビューがね、何が何やらわからん。 戦争のことを話そうとしたら、話を進めていくのだが、『ここやっていい。 ここ、わるい。はい、また進めなさい。 はい、また振り出しに戻して』、やり直しやり直しさせられて、疲れてコテンコテンになっている。 ゴーヘイバック、ゴーヘイバックというのはこんなもんだろう」と言われたんですよ】
長男・秀信の家で聞いた母・貞子の愚痴の内容について、秀幸と照子の証言はは、右の傍線のとおり、全く一致している。 テープレコーダーに録音しているうちに、貞子が忠魂碑前に家族で行ったことをつい話してしまうので、テープを何度も止めて巻き戻し、インタビューをやり直す様子が目に浮かぶようだ。秀幸の証言通り、「忠魂碑前のことはしゃべるなと役場で取り決めて」、貞子に禁じていたことは間違いない。 村ぐるみの歴史の偽造が行われていたのである。
宮城晴美は、大阪高裁に提出した陳述書の中で、次のように書いている。
《私は昭和60年[1985年]から四年あまり、座間味村役場の委託を[受けて、『座間味村史』全三巻の編集・執筆に携わりましたが、昭和63年1月頃から「村民の戦争体験」を」まとめるため、ご自身では書けない高齢の方々から証言の聞き取り調査をはじめました。
村ぐるみの歴史の偽造の中心人物は、宮城晴美その人だったのである。 ◇ 沖縄戦史の改竄を企む沖縄二紙等の左翼勢力は「澄江証言」を全く黙殺し平静を装っているが、地方紙でありながら「澄江証言」を一行も取り上げないのが、動揺している一番の証拠である。 だが、同証言の登場で、今一番戦々恐々としているのは、「座間味村史」を改竄した宮城晴美氏と、「渡嘉敷村史」の監修者の安仁屋政昭沖国大名誉教授の左翼師弟コンビであろう。 自己のイデオロギーを守るため公的刊行物まで偽造して、宮平証言を虚言として葬り去り、結果的に沖縄戦史を改竄した罪は限りなく大きい。 つづく 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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