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■宮平さんは、7年目に証言していた!■
これまで地元メディアが全く無視していたため、「宮平証言」は当時は全くの新証言とされたが、実はその7年前の2001年6月、毎日新聞備後版の特集記事で宮平さんは後の証言と寸分違わぬ証言をしていた。
それがこれである。
毎日新聞・備後版 2001.6.28
WEB第135回
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/135/index.html
448章「上陸前夜」〜 自決の手助けを頼む ★ 集団自決の場とした忠魂碑前広場
山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。
3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。
戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。
「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。
夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。
この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。 ◇ 宮城晴美著『母の遺したもの』によると、梅澤隊長と村の幹部達の弾薬支給を巡る談判のシーンでで、梅澤隊長は「とにかく今夜はお引き取りください」と言って一行を追い返しはしたが、「自決はするな」とは言っていないことになっている。 その後住民たちが次々と自決したことを考えた被告側は、梅澤隊長には自決を止めなかった不作為の責任があるという極めて理不尽な主張をする有様である。 宮城晴美氏などはその場(本部壕前の談判)では、自決命令は下してなくとも別の機会に命令していた可能性があると単なる推測で「隊長が軍命」と主張する有様である。 上記毎日記事に見るように2001年から2008年と、証言の間に7年の歳月が経過しても、首尾一貫した証言をする宮平さんを「嘘つき秀幸」にするため、 被告側はかねて準備していた宮城晴美氏編纂の『座間味村史』に採録された宮平さんの実母貞子さんの「捏造された証言」を大阪高裁に提出した。 これによって大阪高裁の裁判官は大きな判断を過つことになる。 つまり大阪高裁の小田裁判長は「宮平証言」は虚言で、「貞子証言」は信頼に足ると判断したのである。 そして今回の「大城澄江証言」が、「貞子証言」は村当局と宮城晴美氏により捏造された虚偽証言であり、「宮平証言」が首尾一貫して真実を語っていることを見事に裏付けたのである。 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所
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448章「上陸前夜」〜 自決の手助けを頼む ★ 集団自決の場とした忠魂碑前広場
山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。
3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。
戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。
「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。
夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。
この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。 ◇ 宮城晴美著『母の遺したもの』によると、梅澤隊長と村の幹部達の弾薬支給を巡る談判のシーンでで、梅澤隊長は「とにかく今夜はお引き取りください」と言って一行を追い返しはしたが、「自決はするな」とは言っていないことになっている。 その後住民たちが次々と自決したことを考えた被告側は、梅澤隊長には自決を止めなかった不作為の責任があるという極めて理不尽な主張をする有様である。 宮城晴美氏などはその場(本部壕前の談判)では、自決命令は下してなくとも別の機会に命令していた可能性があると単なる推測で「隊長が軍命」と主張する有様である。 上記毎日記事に見るように2001年から2008年と、証言の間に7年の歳月が経過しても、首尾一貫した証言をする宮平さんを「嘘つき秀幸」にするため、 被告側はかねて準備していた宮城晴美氏編纂の『座間味村史』に採録された宮平さんの実母貞子さんの「捏造された証言」を大阪高裁に提出した。 これによって大阪高裁の裁判官は大きな判断を過つことになる。 つまり大阪高裁の小田裁判長は「宮平証言」は虚言で、「貞子証言」は信頼に足ると判断したのである。 そして今回の「大城澄江証言」が、「貞子証言」は村当局と宮城晴美氏により捏造された虚偽証言であり、「宮平証言」が首尾一貫して真実を語っていることを見事に裏付けたのである。 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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