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驚くべきことに「うつろな目の少女」は、やはり女性だった!
「うつろな目の少女」の意味を知らない読者は、意味がよく飲み込めず不審に思うだろう。
少女が女性なのは当たり前。 狼魔人も教科書問題の「発狂新聞」に取り憑かれ、ついに頭がイカレテシマッタと考えるかもしれない。
一方、「うつろな目の少女」が「オカッパの少年」であることを知っている古くからの読者なら、ストレートに衝撃を受けるか、沖縄戦を伝える沖縄2紙のデタラメ報道に「やっぱり」と改めて呆れ返るだろう。
古いエントリー記事「続・沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎」のコメント欄に次のような読者のコメントがあった。
≪絶対!おかしい! (Unknown)
2011-09-09 17:43:37 この写真の少女?は、大城盛俊氏じゃないですよ!玉那覇春子というれっきとした女性です!
1985年に製作された短編記録映画「戦場ぬ童」という映画で、この写真の女性、玉那覇さんが出演・証言していますよ!
このときに右手首を負傷されていて、映画では右手を切断されてのインタビュー出演でした。
この映画を撮った、橘 祐典(たちばな ゆうてん)という監督も共産党員の左翼主義者ですが、どっちがホントなんですかね!!??
ただひとつ真実なのは、どちらかが、ウソをいってることです。 ≫
コメントがあった9月9日といえば八重山教科書問題で多忙を極めていたので、上記記録映画の検証を昨日まで放置していたが、本日この少女は大城盛俊氏ではなく玉那覇春子さんであることが確認できた。
先ず「うつろな目の少女」とは太田昌秀著『これが沖縄戦だ』の表紙に使用され有名になった「少女」の写真のクレジットである。
■うつろな目の少女 1945.6月
ところが、驚くべきことに「このオカッパの少女は私だ」と名乗る75歳の老人(男性)が現れたのだ。
写真を見るとどう見ても戦渦にほんろうされるいたいけない少女の姿だが、実は日本全国で沖縄戦の講演行脚をする大城盛俊氏の女装姿だというのだ。
この衝撃的ニュースは、「11万人集会」があった2007年8月、琉球新報によって沖縄メディアとしては(筆者の知る限り)、初めて報じられた。
それがこれ。
2007年8月25日琉球新報「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社
「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略) (深沢友紀)
◇
この記事を見て驚いた素直な感想を、当時のブログに書いたのがこれ。⇒「うつろな目の少女」の秘密!
このニュースは直ちに沖縄タイムスがフォロー記事を掲載し同じような衝撃が全国を走った。
2007年の夏といえば沖縄戦の教科書記述をめぐって、「沖縄の抗議」が全国の注目を浴びていた時期である。
こんな美味しい記事を全国紙が見過ごすはずはない。
翌2008年2月には朝日新聞がこれを大きく報じた。
それがこれ。↓
ニッポン人脈記/沖縄の「少女」 これは僕朝日新聞 2008年02月01日
1枚の写真が大田昌秀(82)の目をくぎ付けにした。
おかっぱ頭の少女が血まみれで座りこみ、うつろな目をカメラに向けている。あの沖縄戦のなかを逃げまどったのだろう。
大田は学生時代、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員され、大勢の友を失った。戦後、琉球大学で教壇に立ち、米国の公文書館などで沖縄戦の資料を集める。
そこでみつけた写真を「うつろな目の少女」と名づけ、本の表紙に使った。琉球新報に書いた連載をまとめ、77年に出した記録写真集『これが沖縄戦だ』である。
与那原町でクリーニング店を営んでいた大城盛俊(75)は、この写真を84年に見る。内臓病で入院中、隣のベッドの患者が広げた地元紙にのっていた。
その新聞をもらい、タクシーで新聞社に駆けつけ、大田の自宅を聞く。けげんな顔で玄関にあらわれた大田に紙面をつきつけた。
「これは僕です」
「でもあんた、男じゃないか」
*
大城は沖縄戦当時、12歳。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」と案じた父のいいつけで、女の子のように髪を伸ばしていた。
だが、なりすましてもムダだった。島がまるごと戦場になった45年6月、家族の食料を奪おうとした日本兵にとりすがる。「生意気だ。反抗するのか」。ひそんでいた壕からひき出された。こっぴどく殴られ、けられ、気を失う。右腕は脱臼、右目は失明。右足にいまも障害が残る。
大田がみつけた写真は、米軍につかまった大城が治療されている時に撮られたものだった。「あんた、生きていたのか……」。大田は泣きだした。大城も涙する。ふたりはかたく抱きあった。
大城は、沖縄戦の悲惨を語りつぐ「語り部」になった。全国の学校や平和団体を訪ね、1200回を超す。喉頭がんの手術をして22年前から人工発声器をつかう。低く聞きとりにくい声。生徒たちは息をころして聴き入る。
「日本軍は『お前ら、アメリカにつかまるとスパイになるんだろう』と住民に手投げ弾を渡した。壕から出るときも、子どもを先頭に立たせて盾にした。沖縄の住民の敵は日本軍だったんです。そういう戦争を知らない人が歴史の教科書を書いている。情けない」(略)
*
2008年6月、大城氏は沖縄での最後の講演会を石垣市で行い、長年の講演会活動を、翌2009年の3月で終了するとした。
何ゆえ大城氏は長年の講演会活動を沖縄本島で行わなかったのか。
激戦地のある沖縄本島南部地域は大城氏の故郷ではなかったか。
日本軍の暴行や虐殺を静かな怒りで語る大城盛俊さん=21日、石垣市民会館中ホール
★
この大城氏の衝撃的告白に最初から疑念を持った筆者は大城氏の戦後を追跡調査し、エントリーした回数が実に18回にも及んだ。
だが調べれば調べるほど大城氏の告白に対する疑念は深まるばかりであった。
詳細を知りたい方は⇒オカッパの少年(18)
今回大城盛俊氏の告白が記録フイルムによって真っ赤のうそであると判明した。
いくら子どもの頃の写真とは言え、大城氏の顔は「うつろな目の少女」の顔に面影さえ見出すことは出来ない。
記録フィルムで証言する玉那覇春子さんは7歳の写真とは同一人物であることは面影からもはっきり読み取れる。
玉那覇さんは右腕の半分がなく、負傷している写真の少女の右手は、その後気を失って目が覚めたときは米軍医療班ににより既に切断されていたという。
沖縄戦の報道をする沖縄メディアは、自分の都合の良い証言・告白等は何の検証もなく大々的に報道するが、「不都合な真実」は一切報道することはない。
大城盛俊氏は千数百回にも及ぶ講演会で、自分のデタラメな告白とそれを記事にした沖縄2紙をネタに聴衆を騙したことになる。
仮に講演料で収入でも得ていたら詐欺の疑いも浮上する。 またこれを裏づけも取らずに報道し講演会を支援したメディアは詐欺を共謀したといわれても仕方はない。
これまでにも沖縄メディアが沖縄戦に関してデタラメな証言(例えば毒おにぎり)は数多くあるが、大城氏のデタラメ告白は、それをネタに講演会をしていただけに、前代未聞の醜聞である。(怒)
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