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八重山を含め、各地の教科書採択の火種となっている「つくる会」系教科書は別名「保守系教科書」とも呼ばれている。これには少々面食らう。教科書に保革の色分けがあったのか
▼戦後教育を批判し、日本の伝統を重んずる教科書は1986年の原書房版「新編日本史」が先駆け。当時は「復古調教科書」と呼ばれた。保守系というよりも、こちらのほうが分かりやすい
▼80年代末から90年代、社会主義国の崩壊を受け、日本の政界では「イデオロギー、保革対立は終わった」との風潮が広がった。選挙で革新政党を攻撃する保守陣営の宣伝文句となり、それは一定の効果を持った
▼それから20年余。教科書の世界では保守を自任する団体は「反自虐」というスローガンを持ち出して教科書普及運動に躍起となり、それにあらがう団体との間で攻防が続いているというわけ
▼過去の戦争の反省に立ち護憲を訴える政治勢力と、「戦後レジームの脱却」を叫び改憲を唱える政治勢力の対立が続いている。この構図が教科書採択にも持ち込まれたとも言えそうだ。しかし、それによって生じた混乱を生徒や現場教師が望んでいるわけではない
▼教科書はそもそも保革対立とは無縁のはず。イデオロギー普及の道具として教科書をもてあそんではならない。そのことを理解できる大人が範を示すべきではないか。
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このコラムの執筆者が、よっぽどトボケるのが上手なのか、「イデオロギー普及の道具として教科書をもてあそんではならない」などとよくも白々しく書けるものだ。自社紙の紙面で連日垂れ流されているイデオロギーまみれの教科書論をよもや見てないとは言わさない。
最近でも、お抱え「識者」の佐久間正夫教授琉大教授が、琉球新報の「識者談話」で、教科書問題に「政治的中立性というのはあり得ない」と断言しているではないか。
≪・・・これまでの経過から、協議で一つにまとめることは困難と考えられる。政治的中立という言葉が1人歩きしているが、政治的中立性というのはあり得ない。 県はそれぞれの教科書に対してどいう判断をもっているのか、具体的指導助言をしても良いのではないのか。≫(琉球新報 9月21日 「識者談話」)
教員上がりの教育委員のことを2チャンネルでは次のように揶揄しているが、沖縄の教育委員を言い得て妙である。、
≪14 :名無しさん@12周年:2011/09/19(月) 15:00:51.20 ID:3SWvmoxJO
>>2学生時代も政治活動。
教師時代も政治活動。
退職しても政治活動。
左翼ってやっぱり声がデカい。 ≫
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琉球新報コラム子よ、寝言を言う前に自社紙の「発狂記事」を目を見開いて熟読し、それでも同じことが言えるのなら、次の言葉を捧げておく。
寝言は寝て言え!
【予告】
八重山日報が本日(24日)から「検証 玉津改革?」と題する連載特集記事を掲載しています。
教育改革を妨害する県教委や竹教委の卑劣な画策を余すとこなく検証し、「不都合な真実」を暴露する秀逸な特集です。明日の当日記で紹介いたしますのでご期待下さい。
【おまけ】
【動画】⇒八重山教科書問題 ニコニコ動画
八重山教科書問題を扱った沖縄発ブログ「オトシタレの読んだか?ブログ」さんの紹介。
八重山で育鵬社騒動が始まり、大体2か月が過ぎた。石垣市はどう変わったのだろうか。
マスコミが反育鵬社の視点で報道ばかりしていた。
住民が反対集会をしている、石垣市教育委員会前で抗議活動をしている、
横断幕を掲げている、そんなことが妖怪電波で伝わってくる。
で、実際に石垣に来てみるといろいろと発見があるはずだ。
写真を撮ったので紹介しよう。
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この横断幕は県立八重山農林高校前の交差点にある。かなり目を引く場所だ。
【共産党の思想と沖縄県教職員組合の思想は、ほとんど同じ
沖教祖=共産党 国旗・国家・基地・自衛隊・教科書・憲法問題、すべて一致】
という横断幕である。知っている人は思わずニヤリとしてしまう。
?
この写真は中央郵便局の裏側のアーケード街にある書店だ。
育鵬社の公民と歴史教科書がレジ前に陳列してある。
もちろん撮影の許可はもらった。「はぁ?」って不思議な顔をされたのが印象的だった。
石垣市の書店で教科書を販売しているのはここぐらいだろう。
私は昨日公民を2冊購入したが(1冊はプレゼント用に。喜ぶ人いるのか?)、あれから公民が1冊売れているようだった。
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歴史観異なる教科書で学ばせよ 2011.9.23 03:04
日本が対米英戦に突入した3年後の1944年秋から米国機が東京へ飛来した。敵味方の飛行機が撃墜されるのを何機も見た。B29爆撃機に体当たりした隼戦闘機が渋谷区大山に不時着し、中学生の私も駆けつけた。そんな時代を生きただけに日本がなぜ戦争に突入したのか、また教科書にどう記述されているのか気になる。
第二次世界大戦について、歴史教科書の大半は日本がアジア諸国に与えた甚大な損害に焦点を当てている。日本が日米開戦を何とか回避しようとした外交交渉などまったく無視した教科書もある。それでも孫が公立中学で使った清水書院『日本の歴史と世界』には戦争突入の経緯が出ていた。
開戦責任は日米いずれに?
「日本はインドシナ南部にも軍をすすめた。ドイツとむすんだ日本のうごきに強い警戒心をいだいていたアメリカは、これに対抗して、日本への石油の輸出を禁止して、日本が戦争をつづけるための資源を断とうとした。この圧力に対し、日本の軍部では、東南アジアに勢力をのばすためにアメリカ・イギリスと開戦しようとの考えが有力になった。しかし、開戦しても確実に目的を達する見通しはなく、政府はアメリカとの外交交渉で事態の解決をはかろうとしたが、失敗した。こうして軍部の発言力がさらに強くなり、1941年10月には、陸軍軍人の東条英機が内閣をつくった。12月8日、日本海軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争(アジア・太平洋戦争ともいう)がはじまった」
いま採択をめぐり対立が生じた育鵬社『新しい日本の歴史』も買って読んでみた。日本の南部仏印進駐、米国の石油輸出禁止、そして「中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄」という要求を日本に突き付けた11月26日のハル・ノートに言及し、「東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました」とある。
辣腕FDRの挑発に乗った
興味深いのは育鵬社教科書にはキッシンジャーの『外交』から「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」と引用されていることだ。
実は日本の同盟国イタリアのチアノ外相も同じ見方をしていた。日米開戦目前の12月3日のこと。三国同盟の関連条項に照らし、日本の開戦に際してはイタリアも米国に対し宣戦布告するよう要請した日本大使との面会後、チアノは日記にこうコメントした。「この新事態は何を意味するか。米国国民を直接この世界大戦に引き込むことのできなかったルーズベルトは、間接的な操作で、すなわち日本が米国を攻撃せざるを得ない事態に追い込むことによって、大戦参加に成功した」。そんな操作をやりとげたところがルーズベルト大統領の天晴れな辣腕(らつわん)で、そんな挑発にのったところが軍国日本の愚かしさだったと私は思う。
烙印恐れなかったグルー大使
では開戦責任は日米いずれにあるか。ここで歴史の正義不正義を測る上でのタイム・スパンの問題が浮上する。日の単位で測るとハワイを奇襲攻撃した日本に非があると世界の目に映った。だが月の単位で測ると、ハル・ノートは明らかに不当な挑発だ。しかし年の単位で測ると、満洲事変、日中戦争、仏印進駐に至る軍国日本の行動がすべて正しかったとはいえない。ルーズベルトやハルとしては軍部が政府に服さぬ日本という国の行動を座視できなかったろう。
だが東京で日米交渉に当たったグルー駐日大使は当事者の苦衷も知っていた。43年『滞日十年』を刊行し、日本側に身命を賭(と)して平和維持に努める者がいたことも米国読者に知らせようとして、「私はこれらの日本の友人諸氏を敬愛し、尊敬し、立派な人物であるという感嘆の念を惜しまなかった」と再三書いている。親日派の烙印(らくいん)を恐れずにそう書いた勇気に私は感服する。グルーは戦後の日米の平和回復を視野に入れて、そんな回想録をあえて刊行したのだ。
歴史を学ぶには双方の見方に留意することが大切だ。それで教科書問題についての平川提案はこうである。見方の異なる教科書を二種類とも読ませ、生徒に相違点を拾わせ、どの記述が納得がいくか議論させる。外交や歴史は両面を観察せねばならない。高校入試には「日本が大東亜戦争と呼んだ戦争は米国で何と呼ばれたか」あるいは「太平洋戦争は戦争中の日本で何と呼ばれたか」といった常識的な問題を出すといいだろう。(比較文化史家・東京大学名誉教授、平川祐弘=ひらかわ すけひろ)
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