Quantcast
Channel: 狼魔人日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 9761

歴史の改竄、消された小銃の連射音

$
0
0

  よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします 

 


 ■消された小銃の連射音

 沖縄戦で米軍が上陸をするパターンは先ず「鉄の暴風」と例えられるほどの圧倒的艦砲射撃で、貧弱な兵器で迎え撃つ日本軍を徹底的に叩き、兵士の戦意を喪失させ、その後で上陸を敢行するという物量作戦をとった。

したがって当時の体験者の証言を聞くと、艦砲射撃の音か小銃の連射や機銃掃射の音で米軍の上陸を察知したという。 勿論砲撃の間は米兵は未だ艦船上にいるが、小銃の連射を身近に聞くと米軍が身近に迫ったという艦砲射撃とは別の恐怖に怯えたわけである。

1945年3月26日の午前9時、米軍が座間味島に上陸を開始した。

これは約10年前に座間味村を取材した毎日新聞にも次のように掲載されている。

毎日新聞 2001.7.12

「米軍上陸」〜 海を覆い隠す艦船 
 座間味島上陸の米軍兵士と水陸両用戦車
(座間味村史より)
 3月26日、早朝から猛砲爆撃。午前9時、水陸両用戦車と共に上陸用舟艇で座間味港と集落と古座間味海岸の3地点に米軍上陸開始。海を覆い隠すほどひしめく艦船からは陽気なジャズが聞こえていたという。古座間味には特攻の第1中隊(31名)、第2中隊(同数)が配置されていたが、特攻舟艇が破滅した状態では隊員になすすべもなかった。米軍上陸で戦隊本部は高月山から島中央部の番所山に移動した。地形複雑な山間部で米軍を迎撃する作戦。その慌しさの中で、25日に負傷した森井芳彦少尉(広島市研屋町出身)は、移動を拒否して本部の壕内で自決。補助看護婦にされていた慰安婦エイコも移動を拒み少尉と共に自決。元衛生兵の関根清さんは移動の直前まで看病していたが、「少尉は瀕死の重傷だしエイコは僕の指示で看護していた。一緒に自決するほどの仲には見えなかったのだが・・・・・・。分らんものだ。」(略)  
                                             ☆

座間味村の産業組合壕では、当時の村の指導者たちによる集団自決が行われた。指導者の中でも最も軍人的言動で住民に畏怖されていた宮里盛秀助役が主導し、自ら村役場に常備されていた小銃で住民を射殺し、自分も自決したといわれている。 「いわれている」というのは、産業組合壕の集団自決は全員死亡で生存者が1人もおらず、目撃者がいないからである。

宮里助役とは25日の夜、本部壕に自決用の爆弾等を求めて押しかけ、梅澤隊長と自決用の爆弾等の支給を求めて押し問答をした村の幹部の中心人物である。

勿論梅澤隊長はこれを拒否し、彼らは自決用の手りゅう弾を支給されることなく「手ぶらで」で忠魂碑前広場に戻ったことは重要なポイントである。

 

戦後密かに流れていた噂では、役場の幹部で最も軍人的であった宮里助役が産業壕の集団自決を先導し自分も自決したといわれたいた。

宮里米子さんの残した記録によると、銃弾を全身に巻いて小銃を持った役場職員の姿を目撃しているが、役場に一つしかない小銃を携帯できるのは役場幹部の中でも特に怖い存在で誰もが絶対服従をしていた宮里盛秀氏をおいて他に該当する人物はいない。

後に産業壕に行った人の証言によると、そこにい潜んでいた人達は全員死亡しており、戦闘帽子をかぶり、足にゲートルを巻き銃をもったまま死んでいる人を見たという証言を残している。

ここでも小銃を持った人物の名前を記していないが、小さな島の濃密な共同体の中では、戦時中のこととはいえ、住民が住民を殺したとなると色々差しさわりが有るので、あえて集団自決の主導者と思われる人物の名を特定して記録に残すのを避けたと思われる。

チビチリガマで毒薬を配布し集団自決を先導したとされる看護婦も名前が特定されていたにも関わらず、戦後しばらくの間は、「村史」の記録では、仮名にされていた。

住民の地縁・血縁で強く結ばれた共同体が自己保存のため、あえて「下手人」の名を特定しなかったことに付け込んだのが、「残虐非道の日本軍」という歴史歪曲を企む沖縄左翼の学者たちであった。

一旦記録された「村史」などに記録された不都合な事実を書き換えるのは問題を残すので、彼らが行ったのは時系列をあいまいにして読者の混乱を誘う卑劣な手法である。 さらに重要なポイントは、引用の際あえて記録からはずすという姑息な手法である。

米軍が3月26日、座間味に上陸した時刻は午前9時であるが、それ以前の26日の午前3時ごろに産業壕近くで小銃の連射音が聞こえたとしたら、当時の体験者ならこれが米軍の発する音ではないことは誰もがわかること。

ましてや海が黒くなったと形容されるほどの数で島を包囲した米艦船に向かって、小銃(三八式)をパチパチと撃つほど梅澤隊は愚かではなかったはず。 それこそ無鉄砲と物笑いにされるのがおちである。

だとしたら村役場にあった小銃を携帯していた村役場職員が発した音であることは容易に想像できる。

多くの住民がいろんな場面で証言しているが、宮里米子、長田一彦、宮里美惠子各氏の証言を線でつないでいくと、産業壕で全員を射殺し、自分も自決した「下手人」として宮里盛秀助役の名前が浮かび上がってくる。

座間味村史には、左翼編集者等の幾つもの作意が見て取れる。

例えば、当時、農協組合保険部で配給物資係りをしていた宮里美恵子さんの証言は、「村史」、「県史」、「沖縄の証言(上)」、「15年戦争の証言」等に掲載されているが、これを読み比べてみると編集者の捏造が手に取るように浮かび上がってくる。

ここで左翼学者たちは一体何を隠蔽したかったのか。

彼らが隠蔽を目論んだものは

(1)産業組合壕での自決の先導者の名前と、

(2)自決手段、

(3)忠魂碑前に住民が集合した

という三つの「不都合な事事」である。


自決の先導者は、宮里助役以外には到底考えられないと述べたが、約60名の住民が集団自決した方法は、村役場にあった小銃であることは明白である。勿論、この引鉄を引いた人物も助役以外には該当するものが見当たらない。

■米軍上陸前の未明に小銃の連射音が!

農協組合保険部で配給物資係りをしていた宮里美恵子さんは、3月26日の午前3時に産業組合壕の近くで、小銃の連射音を聞いている。(『沖縄の証言』(名嘉 正八郎・谷川 健一編 中央新書)

これは、「軍命派」にとっては決定的に不利な証言であるため、次のように改竄されていくのである。

大田昌秀元知事時代の知事公室平和推進課編の「15年戦争の証言」や「座間味村史」には、宮里美惠子氏が3月26日午前3時に聞いた小銃の連射音を、共に3時から10時に改竄してあり、「県史」ではこれを記述から巧みに削除してある。

時間を書き換えたり削除した理由は、米軍の上陸が午前9時であり、それ以前の小銃の音から宮里助役の名前が浮かび上がるのを恐れたからである。

米軍の上陸以前に小銃の連射音を産業組合壕の入り口付近から聞こえていたとする証言は、編集者等には「不都合な事実」だったのだ。

だが、美惠子さんが遺した手記により、26日夜明け前であった事は確定されている。

また、長田一彦氏や宮里美惠子さん等が見た、産業組合壕の入り口付近で小銃を抱え、返り血を浴びた死体こそ、宮里米子さんがヒジャーの山中で目撃した、銃弾を体中に巻きつけた役場職員であり、この人物が宮里盛秀氏であることは、動か難い事実である。

更に、米子さん等が無抜けの空だった産業組合壕に入り、ウトウトしていたところに役場職員の家族等が一緒に帰って来て、追い出された時、上記の銃弾を体に巻きつけた男が居た事実から判断して、梅澤隊長から武器供与を断られた後で、住民に集合をかけた盛秀氏が住民を先導して忠魂碑前から産業組合壕に帰ってきた事は目に見えるようである。
 
また、宮城初枝さん等五人がウチガー山頂でみた「数十人の住民が子供の手を引いたりおんぶしたり、そして、老人を引きずるように、沈黙したまま、何処へともなく駆けていった」 ことからして、忠魂碑前に多数の住民が集まり、解散が告げられたことは、想像に難しくないことである。


宮里美惠子さんのようにさまざまな出版物にその証言が掲載されている方は、編集者によって改竄されたことが判明するが、そうでない方々の証言は、何処が歪められているのか、検証するのが困難である。

証言者が断片的に遺した証言の数々を改めて検証すると、安仁屋名誉教授やその弟子の宮城晴美氏がやったこれらの歴史改竄が尋常でないことがよくわかる。

彼らのとった行為は、犯罪といって言い過ぎではない。

  よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 9761

Trending Articles