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■やはり最強の「転向者」は宮城晴美氏■
「集団自決訴訟」の被告側証言者たちが、次々と前言を翻し「転向」する例を林博史関東学院大学教授を例に挙げ、
その「転向」の強弁を検証した。
だが、数ある「転向者」の中でも最も非難されるべきは、母の遺言を破棄して沖縄左翼に魂を売り渡した宮城晴美氏であろう。
彼女の「転向」について当日記でも再三述べた。
今話題の『うらそえ文藝』でも星氏と上原氏の対談でこれについて語っているので引用する。
星: それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。 上原: 集団自殺と関係者の発言はまさに援護法というものが作用しているんです。実は一九五一年九月八日に「サンフランシスコ平和条約」が締結され、それで沖縄は日本から切り離されて、沖縄から抗議の声が上がったわけですよ。どこにもこの記録はないんですが、僕の推定では、沖縄の声を日本の政府は開き入れて、沖縄はアメリカに自由に使ってくださいと提供したが、そこで沖縄に申し訳ないという気持ちがあったわけですよ。そのために沖縄にお金を落とすことにしたわけでですよ。これが援護法の拡大適用というやつです。
それで、この援護法というのは、本来は軍人と軍属だけにしか下ろされないものなんです。ヤマトでは東京でも大空襲の被害者にはお金は一銭も下りてません。また、原爆被害者にもお金は一銭も下りていません。それは原爆手帳というかたちの診療を受ける権利しかないわけです。それなのに、日本政府は自国民には一銭も出してないが、沖縄には集団自決者にも援護法を拡大適用して給付金を出した。沖縄の人たちはそれを隠し通したわけですよ。 星: 一般住民にも遺族年金が支給されたのは、『鉄の暴風』が隊長命令で集団自決が起きたと書きたてたために、後で援護法が適用されるようになったと、そんなふうに解釈している人もいる。 上原: いや、『鉄の暴風』が書かれても書かれなくても援護法は、拡大適用されたのです。沖縄だけなんです。 星: 「沖縄住民に特別配慮を賜つた」わけだ。 上原: この援護法というものに、厚生省は条件を付けた。それは軍協力者であるということ。そうであれば五歳以上の者は受ける権利があるということだった。後年、幼児も含めるようになつたようです。 星: 隊長の命令とは関係ないが、追いつめられ住民は軍民一体にさせられた・・・。 上原: それでね、渡嘉敷村役場でも、それから座間味村役場でも偽の報告書を作ったわけですよ。それぞれ「赤松隊長の命令によって我々は集団自決しました」と。座間味でも「梅澤隊長の命令によって集団自決しました」と出して、遺族年金がもらえることになったわけです。それで、それに立ち会つた県援護課の照屋登雄(ママ・引用者注;昇雄の誤植と思われる)さんは非常に重要な証人なんですね。まだ那覇に健在の照屋さんは、、二〇〇六年の一月の産経新聞のインタビューの中で、そのことを証言している。
■沖縄側研究者の「転向者」−大城将保氏■
学者にあるまじき強弁をくり返す、林博史関東学院大学教授もさることながら、沖縄側の研究者の中にも大城将保しのように、その「転向」の強弁を書き連ねた本『沖縄戦の真実と歪曲』を出版し、儲けのネタにする強かな人物もいる。 大城氏の略歴とその「転向」ぶりについては『ウィキペディア』が要領よくまとめているのでそのまま引用する。
<大城将保 (おおしろまさやす、昭和14年(1939年) - )は、沖縄県出身の歴史研究者、作家。ペンネーム「嶋津与志」(しま つよし)で作家活動を行っている。沖縄国際大学講師。「沖縄平和ネットワーク」代表世話人。特定非営利活動法人沖縄県芸術文化振興協会理事長、新沖縄県史編集委員。 沖縄戦での住民の被害調査、平和研究、小説執筆などを行っている。沖縄戦研究では沖縄県史の編集に携わった後、県立博物館長などをつとめた。嶋津与志名では『琉球王国衰亡史』や映画『GAMA―月桃の花』のシナリオ作品などがある。また家永教科書裁判や大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判では原告側(集団自決への日本軍による強制を否定する側)の引用文献著者として登場する。2007年、沖縄戦「集団自決」の教科書検定意見撤回運動の高まりの中で、教科書検定の内容、「集団自決」訴訟での状況について告発書『沖縄戦の真実と歪曲』を執筆した。> 大城氏の「転向」ぶりを書く前に、一昨年の「11万人集会」の熱気も覚めやらぬ頃、氏が東京で行った講演会に触れたエントリーから1部加筆して抜粋引用する。 以下引用 大城将保氏の講演会の参加人数はタイムスも新報(ウェブサイトには記事自体が無い)も参加人数については何故か触れてないが、実際に参加した人の情報によると「40名〜50名」の小規模集会だった模様。 ウェブサイトに載せたタイムス記事には特に目新しい内容は無いが、ネットを避けた?新報には突っ込みどころが満載だ。 ≪津堅島で住民が「集団自決」に」追いつめられたとき、女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった事例を紹介し、「軍命から逃げられない。 隊長の一言が生死を分ける。 梅沢隊長は本当に『自決するな』と」言ったのか。自己弁護に過ぎない」と強調。 隊長が住民を制止していたら「集団自決」は起こらなかったと訴えた。≫(琉球新報 2007年 10月26日 夕刊 ウェブサイトには無い) 講演会は「集団自決」は軍の命令以外にはありえない、といった主旨で、 大城氏は独自の調査でそれを証明しているつもりのようだが、新報記事が正しいとすれば、 逆に「軍の命令は無かった」と証明したことになる。
>住民が「集団自決」に」追いつめられたとき、女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった・・・ 誰に追いつめられたかを具体的に書いていないが、文脈からいって「米軍の上陸、艦砲射撃によるパニック」追いつめられた、としか考えられない。 女児の泣き声で我に返るくらいだから「パニック」から我に返ったのだろう。 という事はこの事例は、命令が無くとも孤絶された島で、あのような状況になれば誰でもパニックに陥るということの証明になる。 「死を思いとどまった」ことは自分の意思で「自決」を中止したことになる。 >軍命から逃げられない。 係争中の裁判の証人・金城重明氏を始め、軍命を主張する人は多数いるが、全て「軍命を逃れて」生きているではないか。 何よりも上記新報記事の「女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった事例」があるではないか。 >隊長が住民を制止していたら「集団自決」は起こらなかった・・・ 梅澤隊長は自決現場にはいなかった。 現場に居合わせていない隊長に対して、「制止していたら・・」とは単なる言いがかりに過ぎない。 参加者の情報によると、講演内容は「日本軍の悪行」の追求に終始したという。 ≪「軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、」、この3つの言葉は集団自決体験者がみんな口をそろえて言った≫、これを特に強調していたとの事。 講演の結びで次のように言ったと聞き、あきれ返った。
「慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない」。 軍の命令で自決を強制したと糾弾する相手に「軍命が無かったとする証言」に裏付けを要求するとは、これこそ「悪魔の証明」だ。 当日は講演の始めに、大城氏の小説を原作にし、アニメ映画『かんからさんしん』の最後の部分が上映されたとのこと。 講演会でも研究者、作家と二つの顔を交互に出して「暴虐非道の日本軍」を糾弾すれば、聴講者は虚実の境目が分からなくなる。 ◇ 引用終了ー 続きを読みたい方は⇒「沖縄戦」都内で講演会 作家と研究者二足の草鞋を履く男 (コメント欄がおもしろい!) ◇ 大城氏の講演会についてはこのブログが詳しい。 沖縄「集団自決」問題(10) 沖縄戦首都圏の会 連続講座第3回 同ブログで大城氏の主張を箇条書きにしてあり、読む方は分かりやすいがツッコミどころ満載で一々対応するのは疲れる。 一部取り上げると以下のようなもの。 ●生き残った者には、後ろめたさ、加害者意識もある。大城氏自身も5歳のときに本土に疎開したことがいまだ後ろめたい。 ⇒大城氏自身が軍が住民の安全を考えて県外疎開させた見本ではないか。 大城氏の集団疎開はこれにも矛盾する⇒ ≪「軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、」、この3つの言葉は集団自決体験者がみんな口をそろえて言った≫
●読谷村の米軍上陸地点に近いチビチリガマでは「集団自決」があったが、その近くのシムクガマではなかった。旧日本軍がいて、義勇隊も含め、竹槍での最後の斬り込みを行うといった状況も同じだ・・・略 ⇒チビチリガマには日本軍はいなかったが集団自決は起きた。 ●裁判の原告は、大城氏が、自ら執筆した「沖縄県史」において隊長命令のことを覆したと主張している。そんなことはありえない。単に主張だけなら自由だから、「研究紀要」に掲載されただけだった。 ⇒こんな開き直りで、己の「転向」を強弁することに納得できる人がいるのが不思議。
●そして慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない ⇒軍命があったとする証言を裏就けるものはまったくない、というのが論争の基本ルールでは? 本職の作家でありながら「沖縄戦史の研究者」という二束のわらじを履く大城将保氏は、ここでもが主張する「軍命から逃げられない」は実は生き残り証言者の心の葛藤に深く突き刺さる言葉である。 「軍命に逆らって」生き延びた金城重明氏。 沖縄県人なら誰でも密かに考えることだが口に出し難いことがある。 集団自決という「肉親殺し」は、自分で一生十字架を背負うべきことである。 「肉親殺し」の汚名から逃れるためには、何が何でも軍の命令でやったことにしなければならないという態度こそ歴史のわい曲ではないのか。 続く 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所
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また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。 上原: 集団自殺と関係者の発言はまさに援護法というものが作用しているんです。実は一九五一年九月八日に「サンフランシスコ平和条約」が締結され、それで沖縄は日本から切り離されて、沖縄から抗議の声が上がったわけですよ。どこにもこの記録はないんですが、僕の推定では、沖縄の声を日本の政府は開き入れて、沖縄はアメリカに自由に使ってくださいと提供したが、そこで沖縄に申し訳ないという気持ちがあったわけですよ。そのために沖縄にお金を落とすことにしたわけでですよ。これが援護法の拡大適用というやつです。
それで、この援護法というのは、本来は軍人と軍属だけにしか下ろされないものなんです。ヤマトでは東京でも大空襲の被害者にはお金は一銭も下りてません。また、原爆被害者にもお金は一銭も下りていません。それは原爆手帳というかたちの診療を受ける権利しかないわけです。それなのに、日本政府は自国民には一銭も出してないが、沖縄には集団自決者にも援護法を拡大適用して給付金を出した。沖縄の人たちはそれを隠し通したわけですよ。 星: 一般住民にも遺族年金が支給されたのは、『鉄の暴風』が隊長命令で集団自決が起きたと書きたてたために、後で援護法が適用されるようになったと、そんなふうに解釈している人もいる。 上原: いや、『鉄の暴風』が書かれても書かれなくても援護法は、拡大適用されたのです。沖縄だけなんです。 星: 「沖縄住民に特別配慮を賜つた」わけだ。 上原: この援護法というものに、厚生省は条件を付けた。それは軍協力者であるということ。そうであれば五歳以上の者は受ける権利があるということだった。後年、幼児も含めるようになつたようです。 星: 隊長の命令とは関係ないが、追いつめられ住民は軍民一体にさせられた・・・。 上原: それでね、渡嘉敷村役場でも、それから座間味村役場でも偽の報告書を作ったわけですよ。それぞれ「赤松隊長の命令によって我々は集団自決しました」と。座間味でも「梅澤隊長の命令によって集団自決しました」と出して、遺族年金がもらえることになったわけです。それで、それに立ち会つた県援護課の照屋登雄(ママ・引用者注;昇雄の誤植と思われる)さんは非常に重要な証人なんですね。まだ那覇に健在の照屋さんは、、二〇〇六年の一月の産経新聞のインタビューの中で、そのことを証言している。
■沖縄側研究者の「転向者」−大城将保氏■
学者にあるまじき強弁をくり返す、林博史関東学院大学教授もさることながら、沖縄側の研究者の中にも大城将保しのように、その「転向」の強弁を書き連ねた本『沖縄戦の真実と歪曲』を出版し、儲けのネタにする強かな人物もいる。 大城氏の略歴とその「転向」ぶりについては『ウィキペディア』が要領よくまとめているのでそのまま引用する。
<大城将保 (おおしろまさやす、昭和14年(1939年) - )は、沖縄県出身の歴史研究者、作家。ペンネーム「嶋津与志」(しま つよし)で作家活動を行っている。沖縄国際大学講師。「沖縄平和ネットワーク」代表世話人。特定非営利活動法人沖縄県芸術文化振興協会理事長、新沖縄県史編集委員。 沖縄戦での住民の被害調査、平和研究、小説執筆などを行っている。沖縄戦研究では沖縄県史の編集に携わった後、県立博物館長などをつとめた。嶋津与志名では『琉球王国衰亡史』や映画『GAMA―月桃の花』のシナリオ作品などがある。また家永教科書裁判や大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判では原告側(集団自決への日本軍による強制を否定する側)の引用文献著者として登場する。2007年、沖縄戦「集団自決」の教科書検定意見撤回運動の高まりの中で、教科書検定の内容、「集団自決」訴訟での状況について告発書『沖縄戦の真実と歪曲』を執筆した。> 大城氏の「転向」ぶりを書く前に、一昨年の「11万人集会」の熱気も覚めやらぬ頃、氏が東京で行った講演会に触れたエントリーから1部加筆して抜粋引用する。 以下引用 大城将保氏の講演会の参加人数はタイムスも新報(ウェブサイトには記事自体が無い)も参加人数については何故か触れてないが、実際に参加した人の情報によると「40名〜50名」の小規模集会だった模様。 ウェブサイトに載せたタイムス記事には特に目新しい内容は無いが、ネットを避けた?新報には突っ込みどころが満載だ。 ≪津堅島で住民が「集団自決」に」追いつめられたとき、女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった事例を紹介し、「軍命から逃げられない。 隊長の一言が生死を分ける。 梅沢隊長は本当に『自決するな』と」言ったのか。自己弁護に過ぎない」と強調。 隊長が住民を制止していたら「集団自決」は起こらなかったと訴えた。≫(琉球新報 2007年 10月26日 夕刊 ウェブサイトには無い) 講演会は「集団自決」は軍の命令以外にはありえない、といった主旨で、 大城氏は独自の調査でそれを証明しているつもりのようだが、新報記事が正しいとすれば、 逆に「軍の命令は無かった」と証明したことになる。
>住民が「集団自決」に」追いつめられたとき、女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった・・・ 誰に追いつめられたかを具体的に書いていないが、文脈からいって「米軍の上陸、艦砲射撃によるパニック」追いつめられた、としか考えられない。 女児の泣き声で我に返るくらいだから「パニック」から我に返ったのだろう。 という事はこの事例は、命令が無くとも孤絶された島で、あのような状況になれば誰でもパニックに陥るということの証明になる。 「死を思いとどまった」ことは自分の意思で「自決」を中止したことになる。 >軍命から逃げられない。 係争中の裁判の証人・金城重明氏を始め、軍命を主張する人は多数いるが、全て「軍命を逃れて」生きているではないか。 何よりも上記新報記事の「女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった事例」があるではないか。 >隊長が住民を制止していたら「集団自決」は起こらなかった・・・ 梅澤隊長は自決現場にはいなかった。 現場に居合わせていない隊長に対して、「制止していたら・・」とは単なる言いがかりに過ぎない。 参加者の情報によると、講演内容は「日本軍の悪行」の追求に終始したという。 ≪「軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、」、この3つの言葉は集団自決体験者がみんな口をそろえて言った≫、これを特に強調していたとの事。 講演の結びで次のように言ったと聞き、あきれ返った。
「慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない」。 軍の命令で自決を強制したと糾弾する相手に「軍命が無かったとする証言」に裏付けを要求するとは、これこそ「悪魔の証明」だ。 当日は講演の始めに、大城氏の小説を原作にし、アニメ映画『かんからさんしん』の最後の部分が上映されたとのこと。 講演会でも研究者、作家と二つの顔を交互に出して「暴虐非道の日本軍」を糾弾すれば、聴講者は虚実の境目が分からなくなる。 ◇ 引用終了ー 続きを読みたい方は⇒「沖縄戦」都内で講演会 作家と研究者二足の草鞋を履く男 (コメント欄がおもしろい!) ◇ 大城氏の講演会についてはこのブログが詳しい。 沖縄「集団自決」問題(10) 沖縄戦首都圏の会 連続講座第3回 同ブログで大城氏の主張を箇条書きにしてあり、読む方は分かりやすいがツッコミどころ満載で一々対応するのは疲れる。 一部取り上げると以下のようなもの。 ●生き残った者には、後ろめたさ、加害者意識もある。大城氏自身も5歳のときに本土に疎開したことがいまだ後ろめたい。 ⇒大城氏自身が軍が住民の安全を考えて県外疎開させた見本ではないか。 大城氏の集団疎開はこれにも矛盾する⇒ ≪「軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、」、この3つの言葉は集団自決体験者がみんな口をそろえて言った≫
●読谷村の米軍上陸地点に近いチビチリガマでは「集団自決」があったが、その近くのシムクガマではなかった。旧日本軍がいて、義勇隊も含め、竹槍での最後の斬り込みを行うといった状況も同じだ・・・略 ⇒チビチリガマには日本軍はいなかったが集団自決は起きた。 ●裁判の原告は、大城氏が、自ら執筆した「沖縄県史」において隊長命令のことを覆したと主張している。そんなことはありえない。単に主張だけなら自由だから、「研究紀要」に掲載されただけだった。 ⇒こんな開き直りで、己の「転向」を強弁することに納得できる人がいるのが不思議。
●そして慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない ⇒軍命があったとする証言を裏就けるものはまったくない、というのが論争の基本ルールでは? 本職の作家でありながら「沖縄戦史の研究者」という二束のわらじを履く大城将保氏は、ここでもが主張する「軍命から逃げられない」は実は生き残り証言者の心の葛藤に深く突き刺さる言葉である。 「軍命に逆らって」生き延びた金城重明氏。 沖縄県人なら誰でも密かに考えることだが口に出し難いことがある。 集団自決という「肉親殺し」は、自分で一生十字架を背負うべきことである。 「肉親殺し」の汚名から逃れるためには、何が何でも軍の命令でやったことにしなければならないという態度こそ歴史のわい曲ではないのか。 続く 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所
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