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現在上告中の「集団自決訴訟」で被告側の応援団をしている沖縄の学者、研究者のほとんどは宮城晴美氏著『母の遺したもの』(2000年刊)の発刊以降、従来の「通説」を覆して「軍命なし派」に転向した。
ところがその5年後に「集団自決訴訟」が提訴されるや、一斉に「軍名あり派」に再転向するのであるから彼らの辞書には恥と外聞という文字は無いのであろう。
過去に書いた恥知らずの列伝を補筆して掲載する。
■簡単に証言を翻す「転向者」たち■
「集団自決訴訟」の特徴の一つは、被告側証言者が次々と証言を翻したことがある。
分かりやすく言えば、「軍命はなかった」から「軍命はあった」への転向である。
特に信じられら無いのは実体験者である母初枝さんの遺言であり原告側の証拠物にもなっている自著『母の遺したもの』 の記述を、証言台に立つわずか一ヶ月前になって翻し、その後改訂版を出版して「軍命はなかった」から「軍命はあった」に「転向」したた戦後生まれの娘・晴美氏の行動である。
他にも自著の記述を翻した学者と称する人物が被告側には数多くいるが、中でも被告側の学術的中心人物とされる林博史関東学院大学教授の「前言撤回」が一際目につく。
転向理由を強弁をする様は、とても学者の言説とは信じがたい破廉恥ぶりである。
林氏を良く知る現代史の重鎮・秦郁彦氏が、『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』で、林氏がこのように安易に「転向」した理由を「三つ子の魂、百まで」とか「同じ癖が出たな」述べているくだりは興味深い。
林氏は「論文盗用」など学会で問題を起こし、止むを得ず専門の「大正期の労働運動」を途中から「沖縄戦史」に変更した経緯を解説し、それが「三つ子の魂」だとしている。
林氏の「転向」の理由はさておいても、それを弁解する手法を秦氏はその内容によって「開き直り型」、「こじつけ型」等七種類に分類して解説しているくだりは秦氏の意外なユーモアセンスが光って思わず笑ってしまう。
以下『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』からの引用です。(太字強調は引用者)
<文科省は「近年沖縄戦に関する研究者の著書で隊長の命令の存在は必ずしも明らかでないとするものも出てきており、その後、これを否定する研究者の著書等が見られないことから、軍の命令の有無が明らかでないという見解が定着しつつある」と判断して、「軍の命令の有無について確定的な記述を避けるのが適当」だとして、一部を修正させた。 ただし「この検定意見は、集団自決に関する軍の関与(手榴弾の配布や壕からの追い出しなど)を否定するものではない」と付言している。
教科書会社や執筆者は当然の要請と思った、特段の抵抗なしに受け入れたが、「研究者の著書」とは何かと聞かれ、担当官が林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001)を挙げたことから、本人が激烈な反論をくり返す事態となった。 そしてそれに連動する形で興奮した沖縄の世論が政府、文科省へ検定意見の撤回を求める激しい抗議運動へ発展する。
どんな反論かを示す前に、彼が『沖縄戦と民衆』?5「集団自決の構造」で集団自決に触れた部分を抜き出してみよう。 A 「赤松隊長から自決せよという形の命令は出されていないと考えられる。(161ページ)=渡嘉敷島 B 「軍から明示の自決命令は無かった・・・・(自決)を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。(162ページ)=座間味島 C 「慶留間に上陸した米兵が、保護した住民になぜ(自決)したのか聞いたところ、15歳の少年は「日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ」と答えた。 さらに別の住民も『彼らは脅えていた』と答えたという」(166ページ)=慶留間 D 「家族のもとへ逃げてきた防衛隊員が、持っていた手榴弾で家族ごと自爆したケースも少なくない」(167ページ)=沖縄本島 私も刊行直後通読して、さすがに10年かけた労作だけのことはあると感銘し、事実関係、特にA〜Dの部分は共感する思いが強かった。 最左翼と目されていた林さえ「軍の命令があったというような記述はない」と認識しているのだから、検定意見に異存はあるまいと文科省が考えたのもむりはない。 教科書検定にさいし、著書が参考にされたと聞けば喜ぶ著者は多いだろうが、林は違った。謙虚に傍観するでもなく、血相を変えて、あちこちで抗弁に乗り出したのである。 目についたものを列挙し、類型化してみたのが表4である。> ■林教授の強弁物語■ 1ページにわたる「表4」は省略する。 秦氏によると「林博史の文科省への強弁例」の型は次の7種類に分類される。 a【開き直り型】⇒「問題なのは当日の軍命の有無ではなく、従来の研究成果を無視した暴論」(毎日新聞 07・3・31) b【こじつけ型】⇒「日本軍が住民に手榴弾を配り、自決せよと言っている。 これは命令以外の何ものでもない。(季刊戦争責任 (07 夏) c【強弁型】⇒「防衛隊長である助役の『指示』は、戦隊長の『命令』となる構造になっている」(通販生活 07・11) d【すり替え型】⇒「村の幹部が『集団自決』を主導したとしても(軍は無関係ではない)」(同上) e【局所肥大型】⇒「怒りを通り越してあきれてしまう・・・全体の文脈を無視して一行だけ利用するのは極めて悪質だ」(沖縄タイムス 07・11・9) f【肩すかし型】⇒「日本軍がいない島では<集団自決>は起きなかった」(歴史地理教育 08・3) g【闘争型】⇒「貴審議会の重大な歪曲、悪用に対して厳重に抗議したい」(文科省日本史小委員会への意見書 07・12・25)
<言い訳と居直り風強弁が揺れながら混交しているふしぎな言説で、特徴は文科省と検定審議会の控えめな表現とは対照的に、「詭弁」「支離滅裂」「歪曲」「暴論」といった日本語が乱舞していることであろうか。 しかし、こうした汚い日本語は林の言説自体にそっくり返上すべきだと思う人は少なくないだろう。
たとえばfの引用部分につづいて83人が集団自決した読谷村の「チビチリガマでは、日本軍はいなかったが、中国戦線の経験のある元軍人と元従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割りを果たしていた」」との言い訳が同居している。 当時の日本全国を見渡して、健常な成人男子で軍人か元軍人でなかった者はほとんどいなかったのにである。> 秦氏も感銘を覚えるほどの林氏の労作『沖縄戦と民衆』で、「軍命はなかった」と明言しておきながら文科省が教科書から「軍命削除」の根拠の参考にされたと知って、突然自論を翻し抗弁して廻る様を次の章「言い訳と強弁の狭間」で詳しく述べているが、林氏が米国の公文書館を漁って、どうでもいいような史料を「軍命の証拠」として、鬼の首を取ったように舞い上がり新聞に発表するおなじみのパフォーマンスを、当日記でも過去に何度か取り上げた。 ⇒又しても? 林教授の新発見 集団自決の米軍文書 林氏は米軍資料を鵜呑みにし、・・・いや、鵜呑みならまだしも、恣意的誤訳をつけて新聞発表するほどの手の込んだことをするお方である。 一例を挙げると、住民が「soldiers told」(兵隊さんが言った)というくだりが、 このお方の翻訳にかかると「軍が命令した」(commanded )となるから驚きである。 ⇒目くらまし作戦? 「テルかコマンドか」 「沖縄・集団自決訴訟」 つまり前述の「言い訳と強弁の狭間」で述べられている林氏の学者にあるまじき行状が、「三つ子の魂」として復活し、米軍資料を恣意的に誤訳して新聞発表するという姑息な行動の原点であるようだ。 現在「軍命あり」派の論者には、外にも自説を「転向」した学者が見られるが、一方の「軍命なし」派の論者に自説を「転向」したものは筆者の知る限り皆無である。 長年沈黙を守っていた照屋昇雄さんの場合のように、沖縄に在住していながら「軍命はなかった」と証言すると脅迫まがいの嫌がらせを受けるのは必至なので発言する人が少ない。 ただ、沖縄出身で天皇糾弾の極左活動していた人物が、ひょんなことから座間味島の集団自決を聞き取り調査し、地元マスコミが真相を歪曲報道をしている事実を知って「軍命はなかった」と「転向」した例はある。 だが、この反戦活動家は集団自決に関する「転向」で、左翼グループに「裏切り者」として襲われ、車椅子生活を余儀なくさせられている。 この沖縄出身の極左活動家・富山順一氏については『うらそえ文藝』掲載の「星、上原対談」で触れているが、当初その極端な反日活動のため沖縄のマスコミや文化人にちやほやされ、執筆や講演会活動で著名人となり沖縄タイムス刊で出版もしていた。 だが、集団自決の「転向」以来、浪々の身となり現在は大阪に在住し、「集団自決訴訟」の原告側応援をしているという。 詳しくは国民新聞に⇒左翼に襲われ車椅子生活に! <集団自決問題に思ふ 沖縄の「真」と「偽」 座間味島の梅澤裕元隊長、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長が住民に玉砕を命令・強制もしなかつた事実が明らかになつたのも、かつての自分の誤解や嘘を率直に認めて告白した何人もの沖縄人の道義的勇気に負ふところが大きい。 座間味について申せば、住民に自決を命じながら自らは「不明死」を遂げたと『鉄の暴風』で非難された梅澤元隊長の健在を突きとめ、隊長命令のなかつたことを確認し、その事実を座間味の宮城初江さんに伝へた沖縄出身の反戦運動家・富村順一氏こそ、真実究明への端緒を開いた第一の功労者である。(略)> ◆
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教科書会社や執筆者は当然の要請と思った、特段の抵抗なしに受け入れたが、「研究者の著書」とは何かと聞かれ、担当官が林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001)を挙げたことから、本人が激烈な反論をくり返す事態となった。 そしてそれに連動する形で興奮した沖縄の世論が政府、文科省へ検定意見の撤回を求める激しい抗議運動へ発展する。
どんな反論かを示す前に、彼が『沖縄戦と民衆』?5「集団自決の構造」で集団自決に触れた部分を抜き出してみよう。 A 「赤松隊長から自決せよという形の命令は出されていないと考えられる。(161ページ)=渡嘉敷島 B 「軍から明示の自決命令は無かった・・・・(自決)を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。(162ページ)=座間味島 C 「慶留間に上陸した米兵が、保護した住民になぜ(自決)したのか聞いたところ、15歳の少年は「日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ」と答えた。 さらに別の住民も『彼らは脅えていた』と答えたという」(166ページ)=慶留間 D 「家族のもとへ逃げてきた防衛隊員が、持っていた手榴弾で家族ごと自爆したケースも少なくない」(167ページ)=沖縄本島 私も刊行直後通読して、さすがに10年かけた労作だけのことはあると感銘し、事実関係、特にA〜Dの部分は共感する思いが強かった。 最左翼と目されていた林さえ「軍の命令があったというような記述はない」と認識しているのだから、検定意見に異存はあるまいと文科省が考えたのもむりはない。 教科書検定にさいし、著書が参考にされたと聞けば喜ぶ著者は多いだろうが、林は違った。謙虚に傍観するでもなく、血相を変えて、あちこちで抗弁に乗り出したのである。 目についたものを列挙し、類型化してみたのが表4である。> ■林教授の強弁物語■ 1ページにわたる「表4」は省略する。 秦氏によると「林博史の文科省への強弁例」の型は次の7種類に分類される。 a【開き直り型】⇒「問題なのは当日の軍命の有無ではなく、従来の研究成果を無視した暴論」(毎日新聞 07・3・31) b【こじつけ型】⇒「日本軍が住民に手榴弾を配り、自決せよと言っている。 これは命令以外の何ものでもない。(季刊戦争責任 (07 夏) c【強弁型】⇒「防衛隊長である助役の『指示』は、戦隊長の『命令』となる構造になっている」(通販生活 07・11) d【すり替え型】⇒「村の幹部が『集団自決』を主導したとしても(軍は無関係ではない)」(同上) e【局所肥大型】⇒「怒りを通り越してあきれてしまう・・・全体の文脈を無視して一行だけ利用するのは極めて悪質だ」(沖縄タイムス 07・11・9) f【肩すかし型】⇒「日本軍がいない島では<集団自決>は起きなかった」(歴史地理教育 08・3) g【闘争型】⇒「貴審議会の重大な歪曲、悪用に対して厳重に抗議したい」(文科省日本史小委員会への意見書 07・12・25)
<言い訳と居直り風強弁が揺れながら混交しているふしぎな言説で、特徴は文科省と検定審議会の控えめな表現とは対照的に、「詭弁」「支離滅裂」「歪曲」「暴論」といった日本語が乱舞していることであろうか。 しかし、こうした汚い日本語は林の言説自体にそっくり返上すべきだと思う人は少なくないだろう。
たとえばfの引用部分につづいて83人が集団自決した読谷村の「チビチリガマでは、日本軍はいなかったが、中国戦線の経験のある元軍人と元従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割りを果たしていた」」との言い訳が同居している。 当時の日本全国を見渡して、健常な成人男子で軍人か元軍人でなかった者はほとんどいなかったのにである。> 秦氏も感銘を覚えるほどの林氏の労作『沖縄戦と民衆』で、「軍命はなかった」と明言しておきながら文科省が教科書から「軍命削除」の根拠の参考にされたと知って、突然自論を翻し抗弁して廻る様を次の章「言い訳と強弁の狭間」で詳しく述べているが、林氏が米国の公文書館を漁って、どうでもいいような史料を「軍命の証拠」として、鬼の首を取ったように舞い上がり新聞に発表するおなじみのパフォーマンスを、当日記でも過去に何度か取り上げた。 ⇒又しても? 林教授の新発見 集団自決の米軍文書 林氏は米軍資料を鵜呑みにし、・・・いや、鵜呑みならまだしも、恣意的誤訳をつけて新聞発表するほどの手の込んだことをするお方である。 一例を挙げると、住民が「soldiers told」(兵隊さんが言った)というくだりが、 このお方の翻訳にかかると「軍が命令した」(commanded )となるから驚きである。 ⇒目くらまし作戦? 「テルかコマンドか」 「沖縄・集団自決訴訟」 つまり前述の「言い訳と強弁の狭間」で述べられている林氏の学者にあるまじき行状が、「三つ子の魂」として復活し、米軍資料を恣意的に誤訳して新聞発表するという姑息な行動の原点であるようだ。 現在「軍命あり」派の論者には、外にも自説を「転向」した学者が見られるが、一方の「軍命なし」派の論者に自説を「転向」したものは筆者の知る限り皆無である。 長年沈黙を守っていた照屋昇雄さんの場合のように、沖縄に在住していながら「軍命はなかった」と証言すると脅迫まがいの嫌がらせを受けるのは必至なので発言する人が少ない。 ただ、沖縄出身で天皇糾弾の極左活動していた人物が、ひょんなことから座間味島の集団自決を聞き取り調査し、地元マスコミが真相を歪曲報道をしている事実を知って「軍命はなかった」と「転向」した例はある。 だが、この反戦活動家は集団自決に関する「転向」で、左翼グループに「裏切り者」として襲われ、車椅子生活を余儀なくさせられている。 この沖縄出身の極左活動家・富山順一氏については『うらそえ文藝』掲載の「星、上原対談」で触れているが、当初その極端な反日活動のため沖縄のマスコミや文化人にちやほやされ、執筆や講演会活動で著名人となり沖縄タイムス刊で出版もしていた。 だが、集団自決の「転向」以来、浪々の身となり現在は大阪に在住し、「集団自決訴訟」の原告側応援をしているという。 詳しくは国民新聞に⇒左翼に襲われ車椅子生活に! <集団自決問題に思ふ 沖縄の「真」と「偽」 座間味島の梅澤裕元隊長、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長が住民に玉砕を命令・強制もしなかつた事実が明らかになつたのも、かつての自分の誤解や嘘を率直に認めて告白した何人もの沖縄人の道義的勇気に負ふところが大きい。 座間味について申せば、住民に自決を命じながら自らは「不明死」を遂げたと『鉄の暴風』で非難された梅澤元隊長の健在を突きとめ、隊長命令のなかつたことを確認し、その事実を座間味の宮城初江さんに伝へた沖縄出身の反戦運動家・富村順一氏こそ、真実究明への端緒を開いた第一の功労者である。(略)> ◆
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