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集団自決の重要証人とされる金城重明氏の「手榴弾軍命説」は破綻してしまったが、最近では「軍命あり派」のなかに、「軍命の有無は問題ではない」と宗旨変えをし、軍の命令が無くとも集団自決に追い込まれたのは「軍の強制」であるという説だ。
「集団自決訴訟」で梅沢・赤松両隊長による自決命令があったという証言・証拠が皆無であるとわかった段階で、被告の大江健三郎氏は「軍隊のタテの構造」とか「読者の誤読」とか、後出しジャンケンのような卑怯な理屈を持ち出してきた。
⇒大江健三郎のいかがわしさ
「軍命あり派」のシンボルである金城重明氏は、現在でも学生相手に破綻した「軍命論」を講演し続けている。
⇒何時まで続く金城重明の強弁 渡嘉敷島の集団自決
彼の詭弁が反対派の攻撃に晒されるのは自然の帰結であり、小林よしのり氏の金城兄弟への「攻撃」も当然予想は出来たことである。
これに対し、沖縄の作家目取真氏がブログで、金城兄弟への攻撃を許してはならないとご立腹のようだが、その的外れな論はおいても、反論は認めないと言う姿勢には呆れてしまう。
これでは、自身が狢だと批判する「言論封殺魔」(佐藤優氏)と同じではないか。
これを世間では敵前逃亡と言う。
折角、小林よしのり氏が金城兄弟の原罪についてわかりやすく説明してくれたし、かつての論敵目取真氏も問題提起をしてくれているので、これを機会に金城氏の過去の証言を検証してみる。
宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかったが、過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。
以下は続・39年前の金城重明氏の証言を加筆したものである。
■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■
今を遡る39年前、曽野綾子氏の『ある神話の背景』が発刊される3年前のこと。
金城重明氏は沖縄タイムスのインタビュー記事で、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。
米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、
「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。
「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがあるが、まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。
その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」と強弁する矛盾に、
贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。
後年、訴訟が起きるとは夢想もしなかったのか、正直に心の内を吐露してはいるが、当時から金城氏にとって「軍命」とは一生叫び続けねばならぬ免罪符であったのであろう。
ちなみに金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。
1970年3月27日付沖縄タイムス
集団自決の生き残りとして
ー牧師となった金城重明さんの場合ー
記者:当時の状況はどうでしたか。
牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。
記者:赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。
牧師:直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。
記者:自決命令についてはどう思うか。
牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。
記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。
牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。
記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。
牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(略)
(1970年3月27日付沖縄タイムス)
◇
1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。
ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に終結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。
沖縄人は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。
沖縄人の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。
同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。
だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。
■死者の命令で肉親を殺害する不可解■
軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。
村民が銃剣で装備した軍人に囲まれ、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺されるような状況に追い込まれたのなら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられるだろう。
だが、渡嘉敷島の集団自決は、自決実行の現場に隊長は勿論、自決を強制する軍人の姿はない。
それどころか、自決実行の際は、金城氏は「軍部もすでに玉砕した」というのが頭にあったというではないか。
だとしたら自分の生命に関わる重大な「軍命」を下した命令者は、自決実行の際すでに死んだと思われていたことになる。
既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。
自分がパニック状態による「まったくの異常心理」で肉親を殺害しておきながら、
「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と強弁するのは責任転嫁もはなはだしい。
くり返していう。 命令を下したとされる軍部は「既に玉砕している」と考えられていたのではないか。
金城氏の証言に従うとすれば、集団自決した住民達は、「既に玉砕している軍部」、つまり既に死んだと思われている軍人の命令で死ぬほど、愚かだったというのであろうか。
インタビィーした記者は「軍命」を何とか引き出そうと、次のような核心を突く質問を連発しているが、軍命を直接軍から聞いた者は一人もいない。
「赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが」
「自決命令についてはどう思うか」
結局、軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であり、幻であった。
■金城兄弟は父親殺害を隠していた■
もう一つ疑問がある。
金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。(去年になってジャーナリスト鴨野守氏が金城氏が隠蔽していた父親殺害を暴きだしている)
⇒沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分
多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下したという。
だが、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害した他に類を見ない例である。
やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。
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