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沖縄戦、日本軍による「スパイ容疑虐殺」の真相

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沖縄戦で日本軍による組織抵抗が終わったされる6月23日は慰霊の日として戦没者の御霊を慰霊する式典が行われる。

慰霊の日の前後は、沖縄2紙が沖縄戦の特集記事で埋める。

沖縄2紙の年中行事と化している。

例えば本日の沖縄タイムスは、「残虐非道な日本軍」を印象付ける複数の特集記事が目に飛び込む。

25日付沖縄タイムスの26面には、無辜の民間人がスパイ容疑で日本軍に惨殺される囲み記事がある。

軍命に背くやつは俺が切る

諜報員が1600人支配

多良間島の強制疎開

そこで沖縄戦における日本軍の「スパイ容疑虐殺」ついて触れた過去ブログを紹介しよう。

約9年前に書いた沖縄住民の「スパイ容疑虐殺」の真相008-12-21 07:03:05より全文引用する。(一部編集した)                            ☆

沖縄戦で、米軍は上陸の前、沖縄中を艦砲射撃により「鉄の暴風」を吹き荒らし、沖縄住民の生命と肉体に壊滅的打撃を与えた。

米軍が上陸した後、降り注ぐ砲弾の合間に空から舞い降りてきたのは、膨大な数の「鉄の爆弾」ならぬ「紙の爆弾」であった。

炸裂する砲弾に代わる「紙爆弾」は、今度は沖縄住民の心を破壊していった。

沖縄戦で米軍は沖縄住民の身体のみならず心も共に破壊したのだ。

 

太田昌秀著『沖縄戦下の米日心理作戦』は、米軍が沖縄戦で行った心理作戦ついて、次のように述べている。

<さる太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍が空から撒いた一枚の宣伝ビラ読んで命が助かった人もいれば、それを所持していただけでスパイの汚名を着せられ命を落としたものもいた。このように戦時中、軍人も民間人も一枚の宣伝ビラの対応いかんによって文字どおり、生死を分かったのである。 一片の紙片は、まさに「紙爆弾」そのものだった。 沖縄戦で日本軍は、敵が散布した宣伝ビラを拾ったまま警察や憲兵に届けないで所持しているものは「銃殺に処す」と厳命を下していた。>(『沖縄戦下の米日心理作戦』太田昌秀 岩波書店)

「紙爆弾」といわれる宣伝ビラは、60数万枚にも及ぶ膨大な数量が、小さな島にばら撒かれた。

その種類も日本軍用、沖縄住民用と内容が別れ、

目的別に更に20種類に細分されるという徹底ぶりだった。

だが、米軍の心理作戦部隊が最も重要視したのは、

本土出身の将兵と地元住民との仲を疑心暗鬼の状態にして、

お互い離反させることであった。

沖縄住民と日本兵との間に楔を打ち込むことを目的にした宣伝ビラの例には、次のようなものがある。

沖縄住民用ビラ

<この戦争は、沖縄の皆さんの戦争ではありません。貴方たち沖縄人は、内地人の手先に使われているのです。皆さんは、彼ら内地人の犠牲になっているのではありませんか。(略)>(『沖縄戦した米日心理作戦」)

このような沖縄人用の宣伝ビラを読むと、60数年前に米軍が書いたビラながら、その呪縛は現在の沖縄にも生きており、今でもどこかで良く見るアジ文である。

と思ったら・・・、

そう、当日記のコメント欄に時々嫌がらせを書いてくる「沖縄左翼ボーイ」たちのカキコにそっくりなのだ。

「お前はヤマトンチュの犬だ」とか。(爆)

60数年前の米軍心理部隊が沖縄住民と日本兵の間に打ち込んだ楔(くさび)が、現在も沖縄左翼の間に生きて彷徨っているわけだ。

恐ろしきは「心理作戦」そして「紙の爆弾」。

 

沖縄戦の証言者の中に、身内の者が「スパイ容疑で日本兵に惨殺された」いった話を良く聞く。

係争中の「集団自決訴訟」でも、被告側は「日本軍はスパイ容疑で無辜の沖縄住民を虐殺した」と、

争点とはまったく外れた論議を持ち込んで、

「悪逆非道の日本軍」の印象操作に余念がないのは周知の通り。

「うつろな目の少女」(オカッパ頭の少年)で一躍有名人になった大城盛俊氏も自分の母親が「スパイ容疑」で殺されたいう。

「うつろな目の少女」の秘密!

上羽修著『母と子でみる44 ガマに沖縄戦刻まれた』のなかで、その経緯を次のように述べている。

<収容所で悲しい知らせを受けた。再婚していたお母さんが、大城少年が一番初めに避難していたワチバルの壕まで会いにきたことがあったが、その帰り、日本兵にスパイ容疑で射殺されていたのだ。お母さんがこともあろうニスパイという汚名を着せられ無残に殺されたことを知った大城少年は、どんなにつらかっただろうか。 

沖縄住民をスパイ視した日本兵による陰惨な虐殺事件が、沖縄の各地で起きている。ここに収容されていた住民も、山に潜む敗残兵に射殺されるという事件が起きた。彼等の論理ではアメリカに投降した者はみんなスパイであった。

「私たちはその日本兵を殺そうと、アメリカ軍の憲兵に日本兵の隠れていそうな壕を教えてやりました」

アメリカ兵は住民に親切だったのに対し、日本兵は住民にとってははなはだ危険な存在だった。

戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。>

沖縄戦にまつわる「スパイ」の話しは、ことの性質上明確な証拠・書類の類は残っておらず、数件の例を除いて、ほとんどが伝聞による「スパイ虐殺」が主である。

上記証言者の大城氏の場合も、「日本兵がスパイ容疑で母親を射殺した」という話も、米軍に収容されたときそこで聞かされた伝聞であったが、当時12歳の大城少年に事実確認は無理であったのだろう。

本文は大城少年が「母親が殺された」と聞いたせいか、日本兵に対する憎悪に満ちており、次の文にもそれがよく表れている。

「アメリカ兵は住民に親切だったのに対し、日本兵は住民にとってははなはだ危険な存在だった」

そして、事実確認もしないまま大城少年の心に植えつけられた日本兵への憎悪は、本人は無意識なのだろうが、次のようなスパイ行為へとエスカレートしていく。

「私たちはその日本兵を殺そうと、アメリカ軍の憲兵に日本兵の隠れていそうな壕を教えてやりました」

何気なく読み飛ばしそうな一文だが、これには重大な意味が含まれている。

これはスパイの自白文である。

もし大城少年とその仲間が米兵を日本兵の隠れていそうな壕に案内する光景を、日本兵に目撃されていたら、それは紛れもない「利敵行為」であり、りっぱな「スパイ行為」である。

 

スパイというと、「007」のジェームス・ボンドや、CIAの秘密情報員を連想する人もいるかもしれないが、沖縄戦時のスパイは大体次のように類別される。

①通称CICと呼ばれた連合国軍総司令部第441部隊

②米軍の捕虜になった後、勧誘されスパイになった沖縄住民

③本人は無意識にスパイ行為をしていた沖縄住民

④日本軍の疑心暗鬼で「スパイ容疑」で処刑された無辜の沖縄住民

 

①のCICとは、Counter Intelligence Corpsの頭文字をとった通称で、日本語の話せる日本人二世を中心とし、その一部は沖縄戦以前に「南方帰りの県人」として沖縄に潜入していたいわれる。 沖縄上陸後は公然と捕虜になった沖縄住民をスパイに勧誘していたが、終戦後沖縄が米軍占領下の時代になっても、沖縄住民の共産化防止を任務として暗躍していた。

②の例は、明確な資料として残されてはいないが、琉球政府主席(知事)を務めた当間重剛氏が捕虜になったときの捕虜収容所で、CICにそれとなくスパイ勧誘されたと思われる様子が氏の自伝で次のように述べている。

<・・・その前に私は日本語のしゃべれるCICに呼ばれた。私の身分はすでに明らかにされていた。「これをやったらどういう結果が生まれるだろうか」と、そのCICが紙に書いてみせたのがplebiscite。“国民投票”とか“人民投票”とか、言う意味だ「国民投票やって、何をきめるんだ」「日本に帰りたいか、アメリカに帰属するかを沖縄の人たちに決めさせるんだ」「それは日本帰属に決まっているよ。アメリカにつきたいというのはいないよ」そしたらこのCIC「そうかな」と言ったきり、それから口をきこうともしなくなった。私が、ぐるぐるあちこちひきずり回されたのはその後まもなくたってからであった。

あのころ、私は伊良波で全く対照的な人物像をみた。一人はいかにも古武士的な風格の裁判長で、もう一人は敬虔なクリスチャン検事正だ。検事正は山下という人で、戦前からのクリスチャンだったようだ。捕虜になってからは、戦時中のようにクリスチャンであることに肩身のせまい思いをする必要もなくなり、今度は却って胸に十字架をぶらさげて歩くようになった。

一方、古武士的な裁判長は、CICに対しても“お前たちは今に負けるよ”と主張して譲らなかった。裁判長の頑固さをCICに対しても“お前たちは今に負ける”と主張して譲らなかった。裁判長の頑固さをCICは“危険思想の持ち主”と思ったのか、あるいは“いじめてやろう”と思ったのかどうかは知らんが、この人だけは、ひとりトゲ鉄線の中に囲まれ、日本に帰るまで「あっち掃除しろ」「こんどはこっちだ」とこき使われているようだった。民間人は捕虜になると、いろんな班にわけられた。DDTを散布する衛生班、食料を配る配給班。一般労務をする労務班等々。>(「当間重剛回想録」1969年3月25日)

 

 

 

捕虜になった民間人をスパイにする②の例は、本島のみならず離島でもあったようで、先島戦記刊行会代表の瀬名波栄氏が『沖縄春秋』(1974年1月発行)に寄稿した「離島戦史の裏面」と題する文に次のような記述がある。

<沖縄戦も一段落した昭和20年の7月頃(6月頃の説もある)宮古平良町の成川部落で沖縄出身者とみられる挙動不審の男が現れた。その態度に不審の点が多々あるのに気がついた部落民が、その旨憲兵隊に通報、憲兵隊が現場へ急行して取り押さえて調べた。 その男は最初、名護出身のアラサキ某と名乗り、クリ舟に乗って漁労中、難に遭い宮古島に漂着したと申し立て、スパイ容疑を極力否認したが、陳述があいまいでそのうえ所持品の中からスパイ行為を裏付けるようなメモ帳が現れ、ついに包み隠すことができず、米軍のスパイである旨を自白した。 
それによると、同人は米軍のもとで抑留されていたが、スパイになるように強制され、他の仲間三名と共に潜水艦に乗せられ、一人だけ宮古島近海でに下ろされ、ゴムボートで狩俣海岸に上陸した。 任務は、宮古島の陸海軍部隊の兵力概況と高級指揮官の階級氏名を探ることが主で、脱出の際は海岸で信号弾を使用して合図すれば、時を移さず米潜水艦が救出にくる手筈になっていた。宮古に潜入したのは自分だけで、たの三名のことは知らない。上陸後しばらく人目のつかない所に潜んでいたが、そのうち手持ちの食料が尽き、食料を求めて出てきたところを捕まった。
憲兵隊ではこれに基づいてスパイ容疑は動かせないと断定、司令部に報告、指示を仰いで処断したようで、銃殺刑に処したという説が強いが、当時後方を担任していたM参謀の回想にによると、西表島へ監禁したのではないかとも言う。 もし殺害したとしたら痛ましい戦争犠牲者ともいえる訳だが、当時の日本軍は追い詰められて勝算を失ったせいか、スパイ対策には神経過敏と言えるほど気をつかっていたようで、沖縄人を色メガネで見る向きが少なくなかったようである。>(「沖縄春秋」1974年)

③の本人が無意識に「スパイ行為」に走った例は「うつろな目の少女」の大城少年が典型だが、本人や周囲の人が無意識だけに、これが発覚して処刑された場合でも、被害者側としては「無実の罪」を訴えるだろう。

③と④で処刑された場合の峻別は、客観的資料や証言に乏しく、さらに「反日本軍イデオロギー」がこれに加わると、事実の解明には困難が伴うと思われるが、いずれにせよ今後の研究・調査が待たれる。 (続く)

 

米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。

だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。

1950年の朝鮮戦争や、中華民国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、

CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。

米本国の政府高官だ視察のため沖縄を訪問したとき、空港に出迎えにいったユースカー(在沖統治機関)の幹部が、同行した地元琉球政府の幹部を紹介した。

「こちらが、ミスターセナガです」

遠来の米政府高官に対し、歓迎の意をこめてにこやかに握手を求めて手を出したセナガ氏に対し、高官はアメリカ人らしからぬ奇妙な反応を示した。

「オー、ノー! セナガ」

と叫んだ件の高官、握手の手を引っ込めたのだ。

隠れ共産党の瀬長亀次郎氏の「悪名」は米国本土政府の中にも知れ渡っており、

空港に出迎えた「セナガ」氏に思わず握手の手を引っ込めたのだろう。

米政府高官に握手を拒否された哀れな男は、当時の琉球政府副主席・瀬長浩氏の「瀬長違い」であった。

米政府高官が本気で握手拒否をしたのか、それとも握手を求めた男が「セナガ」と聞いて、

とっさに思いついたアメリカ人特有のジョークだったのか、今となっては確認出来ないが、

とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対しいかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。

厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日 
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。

  瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
 情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
 瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
 瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
 沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>

                   ◇

小林よしのり著『沖縄論』で、著者が犯した唯一の過ちは、

元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を沖縄の英雄と祭り上げて書いてしまったことである。

沖縄左翼を取り込む意図があったのだろうが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。

瀬長氏は米軍政府と自存のために戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた神話である。

瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。

そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたとらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた様子が伺える。

瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。

終戦後の米軍統治下の沖縄でCICが暗躍した様子は、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年文芸春秋社 奥野修司著)に、

自らCIC要員として働いていた金城良安氏が赤裸々に語っている。 

米軍統治下の沖縄でCICの代理人になった者は、教員、財界人、政治家と多士済々であったという。

CICの活動が目立たなかったのは、MPが制服であったのに対し、CICは私服で活動し、当時の合言葉であった「琉米親善」を口にする善良な民間アメリカ人を演じていたからだという。

<沖縄のCICはライカム(Rycom=琉球軍司令部)の管理下にあった。八重山民政府からCICに移った金城良安によれば、「八重山には3人ぐらいしかいませんでした。その下に協力者はたくさんいました。つまり情報提供者です。CICは密貿易そのものには関心がなかったのです。関心があったのは外からはいってくる人物です。スパイは密貿易船を使って移動したりしますからね。たとえば中国大陸から誰が来ているとか、そういうことには神経質になっていました」  ちなみにどんな情報提供者がいたのか、当時の軍政府に勤務したことのある人物に尋ねると、「当時の八重山には30人ぐらいおりましたかな。トップは学校の先生で次は財界人と政治家。なぜ協力したのかって? そりゃ、いろいろ便宜を図ってもらえるからだよ。あの頃の米軍は神様よ。もうほとんど死んだが、あのときCICに協力した者はみな大物になっているよ」  自らすすんで協力する人もすくなくなかったという。 CICは諜報活動はするが、基本的に密貿易の取り締まりはしない。 米兵がからんだ場合はCID(陸軍憲兵隊犯罪捜査部)が民警と一緒に動く。 CICもCIDも基本的には私服である。>(『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年奥野修司)

終戦後、CICに勧誘されて情報提供者になった住民のことは、よく聞く話だが戦時中に勧誘されてスパイになることは一か八かの大きな賭けであった。 もし、日本軍が勝利をしていたら間違いなくスパイ罪で死刑は免れないからだ。

一方、アメリカの勝利の場合は将来の豊かな生活を保障されていた。

事実南方帰りを自称して住民の中に混じって生活していた者が、戦後米軍服を着用して米軍ジープを乗り回している姿を目撃し、その男はその後ハワイで裕福な生活をしていたといった伝聞談は多い。

だが、自他共に認めるスパイで、戦後も「琉球王」とよばれたスパイの親玉の記事が本人の顔写真付きで、古い「月刊沖縄ダイジェスト」の記事になっている。

<米軍のスパイといわれ臨時琉球王

沖縄戦の、4月3日、美里村で捕虜になって以来、米軍に積極的に協力、降伏勧告放送もやり、沖縄本島の東西分断も進言、志喜屋孝信らの諮詢委員会ができるまでは「臨時琉球王」で、日本が勝てばスパイとして処刑確実という男がいた。 その名は首里生まれの多嘉良朝朋(当時70歳)。 米軍はそのお礼として昭和24年、米軍政府のセーファ大佐から、コカコーラの民間への一手販売権を与えるーと口約束されたが、中城公園売店でのコーラ横流し事件が摘発されて、おあずけのまま、不遇のうちに死んだ。>(「沖縄事始・世相史事典」月刊沖縄社)

                   ◇

この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えたが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。

それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない。

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