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沖縄県令は「敵に塩を送った」上杉謙信の末裔だった

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shopping@o-kyohan.co.jp

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那覇市住民訴訟 久米至聖廟(孔子廟)訴訟 

控訴審第1回口頭弁論のお知らせ   4月25日(火) 13時10分 開廷   ■報告会:同日 14時開場 14時30分開会        会場は、県立博物館 美術館講座室        会費は、無料です        問い合わせ:090-9780-7272 ニシコリまで   【ご期待ください!地裁に差し戻しされる可能性は濃厚です】   問題提起から4年 提訴から3年間の長い戦いをご支持ご支援下さいました皆様 第1審の地裁は、私共が訴える条件を満たしていないとして、 訴状の内容に入らずに却下するというとんでもない裁定(最低な)を下しました   しかし、私共は、平成26年3月に第1回目の住民監査請求を行い、至聖廟の撤去と過去1年間の土地使用料の徴収を求めました。この時点では、那覇市は無償処置証明書(減免通知書)は発行していませんでした。(口頭で行ったと主張) そして、那覇市はその直後の4月1日付けにてこれを発行しました よって、私共がこの事実を知ったのは、監査請求の回答が出されてから1年が過ぎた4月下旬でした   そこで先の訴状を下げて改めて、使用料の請求を求める監査請求を行いましたが、この監査の回答は5月に出されたため、追加の訴状は、無償処置から1年と1ヶ月が経過したことになり、地裁はこれを(1年以内)理由に期間が過ぎているとして、私共がそもそも訴える条件を満していない(提訴から2年半も経過したにも関わらず)として却下しました 地裁判事が、行政側に立った不当な判決を行ったことは明らかです   原告弁護団は、この不当判決を控訴理由にしたため今回の口頭弁論を迎えることになりました 高裁法廷が、審議不十分と判断すれば、地裁に差し戻しされることとなります。   今後の高裁のスケジュール 4月25日 結審 6月ないし7月に 判決      

事実は小説より奇なり、はまだ続く。

沖第二代縄県令(県知事の前の職名)は川中島の戦いで「敵に塩を送った」戦国武将上杉謙信の末裔だった!

米沢上杉家と沖縄の縁 県令と通訳のひ孫、120年の時超え対面 沖縄タイムス 2016年6月30日 17:35  

 1881年から83年まで沖縄県令を務めた上杉茂憲さんのひ孫で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授の上杉邦憲さん(73)=旧米沢藩上杉家第17代当主=と、かつて上杉県令の通訳を担い、上杉家の支援を受けて東京に留学した高良次郎さんのひ孫・高良祐之さん(46)らが29日、那覇市内で懇談した。次郎さんが沖縄に戻って以降、交流が途絶えていたといい、約120年ぶりに両家が対面した。

上杉邦憲さん(右から3人目)と対面した(右から)高良祐之さんと父の阮二さん、陸ちゃん、沢子さん=29日、那覇市おもろまちのザ・ナハテラス 拡大する

上杉邦憲さん(右から3人目)と対面した(右から)高良祐之さんと父の阮二さん、陸ちゃん、沢子さん=29日、那覇市おもろまちのザ・ナハテラス

 上杉県令は、県政改革や人材育成に力を入れたことが知られており、82年には沖縄自由民権運動の父・謝花昇さんら5人を第1回県費留学生として東京に留学させている。

 両家によると、次郎さんは16歳の時に上杉県令に出会った。上杉県令は次郎さんの「内地で遊学してみたい」との希望を聞き入れ、県令時代には手伝い兼通訳として住み込みで雇い、県令を終えた後は家族らと東京へ連れて行った。

 次郎さんは上杉家の私費留学生として大学に入学。卒業後は沖縄県に就職したが、詳しいことは分かっていない。

 邦憲さんが29日の沖縄政経懇話会21(会長・豊平良孝沖縄タイムス社社長)の講師として来県することになったことから、上杉記念館(米沢市)が仲立ちし、対面が実現した。

 懇談には祐之さん、妻・沢子さん(36)、今月17日に生まれた長男陸ちゃん、父親の阮二さん(78)も参加。お互いが持ち寄った資料を確認しながら、3代前のつながりを振り返った。

 祐之さんは「曽祖父は県令に連れられて大学まで行ったと親戚から聞いていたが、本当だった。会えてうれしい」と喜び、邦憲さんは「人材育成を大切にしていたことがよく分かる。130年前から続くドラマがつながった」と感激。お互いに「次は、やしゃご同士も会わせよう」と盛り上がった。

                       ☆


>上杉県令は、県政改革や人材育成に力を入れたことが知られており、82年には沖縄自由民権運動の父・謝花昇さんら5人を第1回県費留学生として東京に留学させて

沖縄紙が語る歴史観によると、沖縄自由民権運動の父として尊敬されている謝花昇は、自分に学問の機会を与えてくれた県令・県知事に敵意を燃やしたことになる。 

米軍統治下の沖縄で、日本政府や米国政府に東京の大学や米国留学の機会を与えられた太田昌秀元県知事が反日・反米で凝り固まっていたことに重なって見える。

  >両家によると、次郎さんは16歳の時に上杉県令に出会った。上杉県令は次郎さんの「内地で遊学してみたい」との希望を聞き入れ、県令時代には手伝い兼通訳として住み込みで雇い、県令を終えた後は家族らと東京へ連れて行った。 

当時は現在のようにテレビ・ラジオはもちろん電話も通じない時代。 明治初期に立法化された教育令に基づき、全国に初等教育の普及を目指した県令は、各地方の訛りの強い言葉に困惑し、標準語の励行こそ教育の普及の第一歩と考え、標準語励行を行った。

高良さんの先祖の次郎さんが「手伝い兼通訳」として上杉県令の家に住み込みで雇用されたのは、当時の訛りの強い方言の事情を考えればそれほど不思議なことではない。

司馬遼太郎氏によると沖縄の他にも訛りの強い鹿児島、四国各県、東北地方では標準語励行のため「方言札」を使用した教師もいたという。

だが、それも地方史の記録として残っている程度で、その地方の人でも方言札の存在を知る人は少ないという。

「方言札」の実施を現在でも「沖縄差別の証拠」として新聞や識者が騒ぐのは沖縄だけの特異な現象という。

 

さて、沖縄自由民権運動の父といわれる謝花昇ら有能な沖縄県人に東京留学の機会を与えた第二代沖縄県令・上杉茂憲さんが、あの上杉鷹山の末裔であることに、驚かされたが、驚きはまだまだ続く。

1961年、アメリカの第35代大統領に就任したJ・F・ケネディに、日本人記者から質問があった。
「尊敬する日本の政治家は誰か」と。   ケネディーは即座に答えた。

「上杉鷹山だ」と。

日本には歴史上有名な人物が群居するなか、上杉鷹山とは随分玄人受けする人物の名を米大統領の口から聞き、記者自身も上杉鷹山について詳しく知らず日本人として恥じ入ったという。


米沢藩主だった鷹山は、関ヶ原の戦いの余波を受け禄高を大きく減らされ、藩は極端な財政破たん状態に陥っていた。

藩政改革に取り組んだ鷹山は、年貢の石高を極力抑え、家臣の贅をいましめ、みずから、農作業に手を付け、数々の殖産事業をおこした。

「身を切る改革」により領民や下級武士も鷹山に従った。

「合衆国があなた方に何を為すかを問うな。あなた方が合衆国に何を為せるかを問え」。

ケネディーの有名な就任演説の精神は、この鷹山の影響を受けたものだという話もある。


さらに話は飛ぶ。   2002年、総理大臣になった小泉純一郎は所信表明演説で「米百俵」の故事を引用した。

「米百俵」の故事とは、長岡藩、小林虎三郎の逸話だ。

戊辰戦争後、長岡藩は石高を減らされ、武士も領民も餓えに餓えていた。

見かねた親藩の三根山藩が米百俵を贈った。藩士はこれで当面の飢えはしのげると思っていた。

虎三郎は米は分配せず売って金に換え、学校を作るという。

藩士からの抗議を拒否。

こう答えた。

「米百俵で何日食いつなげるか。あっと言う間に無くなってしまう。学校を作って教育に充てれば、何十年後には、千俵、万俵になってかえってくる」と。

「今の痛みに耐えて明日を良くしようという米百俵の精神こそ、改革を進めようとする今の我々にとっとも必要ではないだろうか」と。

この米百俵の故事は、長岡藩史には今も残されているし、その碑もある。


だが、米百俵を送った側の三根山藩の藩史にはその記述は無い。敢えて書かなかったのだ。

この地方に伝わる言い伝えにこんなのがある。

「刻石流水」

「受けた恩は石に刻め。かけた情けは水に流せ。」

 

さらに歴史を遡る。

この地方(山形県)の米沢藩の当主となる上杉謙信は、川中島の戦いで、敵将・武田信玄が塩不足で悩んでいること聞いて塩を送ったという。 

「敵に塩を送る」は上杉謙信の故事に始まるという。

ちなみに敵に塩を送るという熟語は英語にはなく、「show humanity even to one's enemy」などの表現でごまかしている。

「水に落ちた犬は打たない」と同様に「敵に塩を送る」もやはり、日本人のDNAに存在するのだろうか。

 

 

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