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朝日新聞が捏造したウソの記事が、後にそれがウソであることが論証されても「歴史」として一人歩きした例は「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行」等など枚挙に暇が無いほどである。
捏造記事の帝王とも言える朝日新聞の子会社テレビ朝日が「8月15日の捏造写真を暴く」と大上段に構えてはみたが、それが親会社のブーメランとなるオソマツ劇だったとは・・・。
コメンテーターの 山口一臣さん、あなた朝日のOBでしょうが。
昨日(13日)のテレ朝「スーパーモーニング」は、「終戦は本当に8月15日だったのか、その真相に迫った」と題する終戦特集番組を組んだ。
6月15日の玉音放送に聞き入りながら号泣する国民の写真。 終戦の象徴ともいえる心に迫る光景である。
ところが、「スーパーモーニング」によると、それがねつ造だった可能性があるというのだ。
番組は昭和20年8月15日付「北海道新聞」に掲載された「玉音放送に、頭を垂れて聴き入る坊主頭の子供の写真」から本人を付きとめ、カメラマンに頼まれ意味も分からないまま写真のようなポーズを取ったいう証言を引き出している。
8月15日の「捏造写真」の後、番組は終戦の日以降も戦争が行われていたという占守島で、ソ連と戦った元日本兵の武蔵哲さんの証言を放映している。
占守島の戦争は、ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って、一方的に仕掛けてきた理不尽な戦いであることはいうまでも無い。
コメンテーターの 山口一臣氏や大谷昭宏氏が、戦後行われたソ連の理不尽な攻撃に怒って見せ、もっと国民に知らせるべきだと主張していたが、
何を今頃寝ゴトを云っているのだ。
ソ連の理不尽さを意識的に報道しなかったのは彼らサヨクマスコミではなかったのか。
終戦後、粛々と武装解除した日本兵をシベリヤ抑留し、多くの犠牲者をだしたのは理不尽なソ連軍ではなかったのか。
同じ外地でも台湾には残留孤児が出なかったのに、満州には多くの残留孤児が出たのは戦後のソ連の理不尽な攻撃のせいではなかったのか。
そして、そのソ連の狼藉を口をつぐんで批判しなかったのはサヨクマスコミではなかったのか。
ソ連軍の対日宣戦布告の理不尽さは、ここでの主題ではないので、これくらいにしておく。
捏造写真に戻る。
「8月15日の捏造写真」で、テレ朝「スーパーモーニング」は鬼の首を取ったように北海道新聞の「写真」を画面に見せていた。 終戦の日の象徴といえば朝日新聞が掲載した「皇居前の号泣写真」こそ、最も全国に知られた写真であり、これは教科書にも掲載されている。 だがこの朝日新聞が報道した終戦の日、6月15日の皇居前の「号泣写真」が捏造であったことを朝日新聞の子会社のテレビ朝日が知らなかったとなると、とんだ大笑いである。 手元に2005年発行の「文藝春秋」「戦後60周年総力特集」(2月号)があるが、その特集の中で、外交評論家の加瀬英明氏が、「捏造された『宮城前号泣記事』」と題する記事を書いている。 その年2005年から31年前の1974年には、既に朝日新聞の「終戦の日の皇居前の捏造記事」に気が付いていたと記している。 加瀬氏は今から36年前の昭和49年5月から翌年4月にかけて「週刊新潮」に、終戦の日から始まるノンフィクションを連載したが、資料として見た敗戦の日、8月15日の朝日新聞縮小版で、奇妙なことに気がついたという。 同誌から引用する。 <昭和20年8月15日の朝日新聞の1面は、「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。 2面には二重橋の写真の下に「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙 嗚呼(ああ)・胸底抉(えぐ)る6年の戦ひ」と見出しが、組まれている。
記事は「溢(あふ)れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙、ああけふ昭和20年8月15日」と始まっている。 記者は「歩を宮城前にとどめたそのとき、最早私は立ってはおられなかった、抑へ抑へて来た涙が、いまは堰(せき)もなく頬を伝った、崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、しゃくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、激しく泣いた」・・・> 加瀬氏が引用する朝日の、思い入れたっぷりな文章はこの後も情緒連綿と続くが、煩雑なので省略する。 朝日新聞は、終戦の日の一日前まではこのような感情に訴える文言で国民を扇動していたわけだから、終戦の日に一夜にして記者の文体が変るはずも無いが、 加瀬氏が奇妙に思ったのは朝日の誇張した文体ではなく、その描く皇居前の風景が朝日の捏造ではないかということである。 「文藝春秋」の引用を続ける。 <当時の新聞は物資が欠乏していたから、裏表2ページだった。 当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。 この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達されることに、決まっていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた捏造であったのである。(略) 私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三から、この件について経緯を説明した手紙をいただいた。 花田氏は学校教員だったということだが、当時は学生で、工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。 そして上司からいわれて、東京に外注部品を促進するため上京した。
花田氏の手紙から、引用しよう。
「14日、何時ものように栄養失調の足を引き摺(ず)りながら、宮城前の明治生命館6階にあった日立製作所の事務所へ、ネオン管の催促に行った。 (略)
そこを出て、『宮城を前に来たから拝んでいこう』という気持ちで二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、『写真を撮りたいので、そこに」土下座して欲しい』と言われた。 他に写真のように多くの人が座らされ、『撮しますからお辞儀して下さい』といわれて撮られたのです。
後で振り向くと、件(くだん)のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、『何か様子がおかしい』と思い、又、『何かの記念になるかも知れない』と思って、『写真が出来たら譲って欲しい』と頼んでみた。 すると、『この写真は特別のものだから呉れるわけにはいかない。 しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。
妙な気分で、その場を去ったが、それでも、まだ敗戦ということは思い浮かばなかった。(略) それにしても、私が取材したところでは、玉音放送の数時間後に都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、不思議に思った者がなかった。 当時も今も、従順な読者が多いのだ。
ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」とルビを振るべきだと思う。> ◇ 蛇足ながら加瀬氏の結語の皮肉は、新聞と書いて「やらせ」と読ますべきということ。 テレ朝の親会社の朝日新聞の終戦後第一回の発行紙が「捏造新聞」だったということは、その後の同紙の捏造体質を考えれば、さもありなんと言うべきだが、それを子会社のテレ朝がブーメラン報道したとはとんだ大笑いである。 テレ朝「スーパーモーニング」がブーメラン報道した同じ日(13日)の読売新聞が「捏造」を証明する記事を掲載しているのも皮肉である。 (上) 土下座写真は作られた?
8月15日 玉音放送
1945年8月15日、終戦の玉音放送を聞き、悲しみに肩を落とす人々を撮影した数々の写真は、終戦の瞬間として長く認識されてきた。しかし、この写真は前日に撮影された「ポーズ写真」との説もある――。 青森市に住む花田省三さん(79)は、終戦前日の14日、仕事帰りに皇居前で腕章をつけた青年に声をかけられた。「写真を撮りたいので、土下座してください」。突然で訳が分からなったが、そのまま砂利の上で土下座した。19歳の時だった。 花田さんは、旧制弘前中を卒業し通信技術などを勉強した後、福島市の工場に派遣された。東京大空襲があった45年3月ごろから、東京の工場にいた。 周りでは、同様に10人ほどが土下座をさせられている。「何に使いますか」。思い切って聞いたが、教えてくれなかった。「写真、くれませんか」と尋ねると、「これは大事な写真。明日の正午を過ぎたらあげられるかもしれない」と意味ありげな言葉が返ってきた。写真を撮り終えて脚立を降りる時、青年は手で涙をぬぐっていた。 翌15日。玉音放送は、工場のラジオで聞いた。「ニューギニアに連行される」と工場ではデマが飛び交い、逃げるように乗り込んだ路面電車で、乗客が持つ新聞を見て驚いた。午後に発刊されたばかりの新聞が敗戦を報じ、前日に写されたのと同じ「土下座写真」が掲載されていた。脇には、「宮城前にひれ伏す赤子(せきし)」とのキャプションが書かれていた。一瞬、「あの写真がなぜ…」と思ったが、逃げたい一心ですぐに忘れた。帰りの電車では、陸軍と海軍の兵士が「お前が弱いから負けた」と言い合っていた。「戦争はくだらないな」と思った。 60年がたった今年、花田さんはある新聞記事で、8月15日に皇居前で土下座する人々を撮影した写真が、「前日14日に撮影された『ポーズ写真』の可能性がある」と指摘した記事を読んだ。「やはりあの時、カメラマンの青年は玉音放送が流されることを知っていたのでしょう。敗戦ムードが漂っていましたから」 終戦の約1か月前、郷土は青森空襲でひどい戦禍を受けていた。その傷跡を目にしたのは戦後3年ほどしてからだ。奇しくも妻哲子さん(74)は青森空襲を経験していた。現在は、空襲を後世に語り継ぐ活動をしている。「彼女は火の下をかいくぐって助かった。その額には焼夷(しょうい)弾の傷跡があるんです」。終戦の日の前日の奇妙な出来事と、戦禍にあえいでいた市民の姿の隔たりが今も心に引っかかったままだ。 ◇ 読売は「この写真は前日に撮影された『ポーズ写真』との説もある」と慎重な表現にしているが、 加瀬氏が朝日ОBに取材したところ、「その日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された」という。 朝日の捏造であることは間違いない。 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします ブログセンターランキングへクリックで応援願います。
「8月15日の捏造写真」で、テレ朝「スーパーモーニング」は鬼の首を取ったように北海道新聞の「写真」を画面に見せていた。 終戦の日の象徴といえば朝日新聞が掲載した「皇居前の号泣写真」こそ、最も全国に知られた写真であり、これは教科書にも掲載されている。 だがこの朝日新聞が報道した終戦の日、6月15日の皇居前の「号泣写真」が捏造であったことを朝日新聞の子会社のテレビ朝日が知らなかったとなると、とんだ大笑いである。 手元に2005年発行の「文藝春秋」「戦後60周年総力特集」(2月号)があるが、その特集の中で、外交評論家の加瀬英明氏が、「捏造された『宮城前号泣記事』」と題する記事を書いている。 その年2005年から31年前の1974年には、既に朝日新聞の「終戦の日の皇居前の捏造記事」に気が付いていたと記している。 加瀬氏は今から36年前の昭和49年5月から翌年4月にかけて「週刊新潮」に、終戦の日から始まるノンフィクションを連載したが、資料として見た敗戦の日、8月15日の朝日新聞縮小版で、奇妙なことに気がついたという。 同誌から引用する。 <昭和20年8月15日の朝日新聞の1面は、「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。 2面には二重橋の写真の下に「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙 嗚呼(ああ)・胸底抉(えぐ)る6年の戦ひ」と見出しが、組まれている。
記事は「溢(あふ)れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙、ああけふ昭和20年8月15日」と始まっている。 記者は「歩を宮城前にとどめたそのとき、最早私は立ってはおられなかった、抑へ抑へて来た涙が、いまは堰(せき)もなく頬を伝った、崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、しゃくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、激しく泣いた」・・・> 加瀬氏が引用する朝日の、思い入れたっぷりな文章はこの後も情緒連綿と続くが、煩雑なので省略する。 朝日新聞は、終戦の日の一日前まではこのような感情に訴える文言で国民を扇動していたわけだから、終戦の日に一夜にして記者の文体が変るはずも無いが、 加瀬氏が奇妙に思ったのは朝日の誇張した文体ではなく、その描く皇居前の風景が朝日の捏造ではないかということである。 「文藝春秋」の引用を続ける。 <当時の新聞は物資が欠乏していたから、裏表2ページだった。 当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。 この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達されることに、決まっていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた捏造であったのである。(略) 私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三から、この件について経緯を説明した手紙をいただいた。 花田氏は学校教員だったということだが、当時は学生で、工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。 そして上司からいわれて、東京に外注部品を促進するため上京した。
花田氏の手紙から、引用しよう。
「14日、何時ものように栄養失調の足を引き摺(ず)りながら、宮城前の明治生命館6階にあった日立製作所の事務所へ、ネオン管の催促に行った。 (略)
そこを出て、『宮城を前に来たから拝んでいこう』という気持ちで二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、『写真を撮りたいので、そこに」土下座して欲しい』と言われた。 他に写真のように多くの人が座らされ、『撮しますからお辞儀して下さい』といわれて撮られたのです。
後で振り向くと、件(くだん)のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、『何か様子がおかしい』と思い、又、『何かの記念になるかも知れない』と思って、『写真が出来たら譲って欲しい』と頼んでみた。 すると、『この写真は特別のものだから呉れるわけにはいかない。 しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。
妙な気分で、その場を去ったが、それでも、まだ敗戦ということは思い浮かばなかった。(略) それにしても、私が取材したところでは、玉音放送の数時間後に都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、不思議に思った者がなかった。 当時も今も、従順な読者が多いのだ。
ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」とルビを振るべきだと思う。> ◇ 蛇足ながら加瀬氏の結語の皮肉は、新聞と書いて「やらせ」と読ますべきということ。 テレ朝の親会社の朝日新聞の終戦後第一回の発行紙が「捏造新聞」だったということは、その後の同紙の捏造体質を考えれば、さもありなんと言うべきだが、それを子会社のテレ朝がブーメラン報道したとはとんだ大笑いである。 テレ朝「スーパーモーニング」がブーメラン報道した同じ日(13日)の読売新聞が「捏造」を証明する記事を掲載しているのも皮肉である。 (上) 土下座写真は作られた?
8月15日 玉音放送
1945年8月15日、終戦の玉音放送を聞き、悲しみに肩を落とす人々を撮影した数々の写真は、終戦の瞬間として長く認識されてきた。しかし、この写真は前日に撮影された「ポーズ写真」との説もある――。 青森市に住む花田省三さん(79)は、終戦前日の14日、仕事帰りに皇居前で腕章をつけた青年に声をかけられた。「写真を撮りたいので、土下座してください」。突然で訳が分からなったが、そのまま砂利の上で土下座した。19歳の時だった。 花田さんは、旧制弘前中を卒業し通信技術などを勉強した後、福島市の工場に派遣された。東京大空襲があった45年3月ごろから、東京の工場にいた。 周りでは、同様に10人ほどが土下座をさせられている。「何に使いますか」。思い切って聞いたが、教えてくれなかった。「写真、くれませんか」と尋ねると、「これは大事な写真。明日の正午を過ぎたらあげられるかもしれない」と意味ありげな言葉が返ってきた。写真を撮り終えて脚立を降りる時、青年は手で涙をぬぐっていた。 翌15日。玉音放送は、工場のラジオで聞いた。「ニューギニアに連行される」と工場ではデマが飛び交い、逃げるように乗り込んだ路面電車で、乗客が持つ新聞を見て驚いた。午後に発刊されたばかりの新聞が敗戦を報じ、前日に写されたのと同じ「土下座写真」が掲載されていた。脇には、「宮城前にひれ伏す赤子(せきし)」とのキャプションが書かれていた。一瞬、「あの写真がなぜ…」と思ったが、逃げたい一心ですぐに忘れた。帰りの電車では、陸軍と海軍の兵士が「お前が弱いから負けた」と言い合っていた。「戦争はくだらないな」と思った。 60年がたった今年、花田さんはある新聞記事で、8月15日に皇居前で土下座する人々を撮影した写真が、「前日14日に撮影された『ポーズ写真』の可能性がある」と指摘した記事を読んだ。「やはりあの時、カメラマンの青年は玉音放送が流されることを知っていたのでしょう。敗戦ムードが漂っていましたから」 終戦の約1か月前、郷土は青森空襲でひどい戦禍を受けていた。その傷跡を目にしたのは戦後3年ほどしてからだ。奇しくも妻哲子さん(74)は青森空襲を経験していた。現在は、空襲を後世に語り継ぐ活動をしている。「彼女は火の下をかいくぐって助かった。その額には焼夷(しょうい)弾の傷跡があるんです」。終戦の日の前日の奇妙な出来事と、戦禍にあえいでいた市民の姿の隔たりが今も心に引っかかったままだ。 ◇ 読売は「この写真は前日に撮影された『ポーズ写真』との説もある」と慎重な表現にしているが、 加瀬氏が朝日ОBに取材したところ、「その日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された」という。 朝日の捏造であることは間違いない。 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします ブログセンターランキングへクリックで応援願います。