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「集団自決」歴博パネル 日本軍関与 記述復活

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よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします   ブログセンターランキングへクリックで応援願います。 読者のなおさんからこんなコメントを頂いた。 <こんな記事を見つけました。
>歴博、旧日本軍関与の記述復活へ 沖縄戦「集団自決」展示で (共同通信)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_war2__20100810_2/story/
10kyodo2010081001000297/


何か恐ろしいまでの執念を感じます> 確かにサヨク勢力の恐ろしいまでの執念は感じるが、肝心の同じ日(10日)の沖縄タイムスが、この共同記事をスルーしているのが不可解だ。 「軍関与復活」とは」いっても、まだ結果は出ておらず、修正した展示が公開されてから独自取材で大々的に報道するつもりなのか。 ところが、驚いたことに一方の琉球新報はこれを一面トップで大々的に報じているではないか。 それがこれ。 歴博パネル 日本軍関与 記述復活へ   2010年8月10日          【千葉】国立歴史民俗博物館(歴博、佐倉市、平川南館長)の第6展示室「現代」で沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の解説文から日本軍の関与を削除したまま一般公開されている件で、同展示責任者の安田常雄副館長は9日、琉球新報社の取材に対し、日本軍関与の記述を復活させ、早ければ来月にも展示内容を全面刷新する考えを明らかにした。解説文については近く公表する。新たな展示では膨大な「集団自決」に関する証言記録も展示される予定で、安田副館長は「沖縄戦の持っている特質を明確に示す上でも、これが主になる」と話した。
 歴博では展示のリニューアル委員会を重ね、「集団自決」の関連文書や証言資料を検証し、史実と認定した。日本軍関与の記述復活について安田副館長は「21人いる委員のうち、討議や検証に参加した委員からは慎重論などは全体を通して出なかった」と説明した。
 これに伴い現行のパネルの記述を全面的に見直す。さらに、パネルの下段で「集団自決」に関する証言資料を展示する予定だ。証言は膨大なため、図書室などでも証言を閲覧できるよう検討する。安田副館長は「単なる文言の修正だけでなく、展示全体を動かす」との考えを示した。
 展示刷新について「委員会で討議は終え、方向性については了承を得た」ことから、今後、関連団体との事務的な手続きに入る。展示刷新に伴うパネル工事の業者入札も近く行い、休館日に作業を行うという。
 9日、歴博では、現代史の研究者ら100人以上を集めたセミナーが開催され、その展示解説でも安田副館長は「沖縄戦についてはパネルをかなり修正をする。7月の委員会で基本的方向性はほぼ確定したので、沖縄戦そのものの基本的性格をシャープに表す考え」と説明した。(斎藤学)                                                         ◇ 一面に載せることにより歴博側にプレッシャーを与えるのが目的だと思われるが、いずれにしても修正結果も見ないでこの派手な取り扱いは異様である。 最近「集団自決」に関する記事が少なくなったが、「軍命の有無」の核心部分については再三書いてきたように既に勝負はあった、というのが大勢である。 今回の歴博の修正も「軍の関与」の復活に止まると思うが、そもそも「軍の関与」は「軍命なし派」の論者も認めていることであり、勿論、教科書検定意見でも認めている事実である。 軍が管理すべき手りゅう弾で自決した人がいる以上、「軍の関与」が全く無かったとは言えず、「軍の関与の有無」には必ずしもこだわってはいないからだ。(ただし「軍命なし派」でも藤岡信勝拓大教授は、「軍命令」はおろか「軍関与」も認めていない) 手りゅう弾で自決した人のほとんどは、管理が不備だった弾薬庫から盗み出したもの手りゅう弾か、親しくしていた兵士から「ねだった」物だといわれている。 この場合軍が「手りゅう弾で自決せよ」と命令したことにはならないのは誰の目にも明らかである。 最近警察官が手錠を噴出し、拾った少年が届け出て大事に至らなかったニュースがあった。⇒機動隊巡査部長が手錠紛失 少年が届け出る(2010.8.10) 仮にこの場合、手錠の代わりに拳銃を紛失したとしよう。 偶然自殺手段を探していた自殺願望者が渡りに舟で拳銃自殺をしたとする。 警察が管理すべき拳銃で自殺したのだから、「警察の関与」は否めないとしても拳銃自殺を根拠に「警察が自殺命令をした」ということにはならない。 この場合警察が糾弾されるとしたら「拳銃保管の義務違反」ではあっても「自殺命令」ではないことは、軍隊における手りゅう弾と自決命令の関係と同じである。                       * 例年、終戦記念日が近づくと沖縄二紙は沖縄戦特集を組んで、「残虐非道の日本兵」の印象操作記事を連載する。 沖縄二紙は、慶良間島の集団自決に関する「軍命」は、大阪高裁では証明できず、「軍命の有無」は事実上の敗訴となった。 そのせいなのか、最近の紙面に「集団自決」に関する記事は少くなってきている。 最近では、沖縄戦からさらに南に伸びて県民が多くいたといわれるサイパン、テニアンでの戦争体験を特集にしているが、時々オヤッと思うような証言を見ることがある。 「集団自決」が軍命であったと主張する重要な根拠に、「日本兵から手りゅう弾や、毒薬を手渡された」と言う証言があるが、この「手りゅう弾配布軍命説」はこれまで論破され尽くしているのでここでは深入りしないが、逃げ場を失った住民が「自決」する手段がなく大部分の人がカミソリや農具を使ったことは良く知られている。 そんな中読谷村のチビチリガマの例でも分かるように、死ぬための武器を持たない住民にとって看護婦上がりのCさんが配布した毒薬は、容易に死ぬための貴重な「宝物」であった。 毒薬配布の列に並んだ少年が、子供は駄目だと断られ悔しがったという証言もあるくらいだ。 下記引用記事もサイパンでの証言なので琉球新報も気が緩んだのか、自決用の毒薬は「貴重なお米と交換するほど」の「宝物」だったことを証言する記事であるのは爆笑物である。 これは「手りゅう弾軍命説」を主張する論者には、隠しておきたい「不都合な真実」のはずだが。 少し古い記事ではあるが自決を望む住民にとって手りゅう弾や毒薬がいかに貴重な(有り難い)「自決手段」であったかを示す証言を紹介する。 太平洋戦争時サイパン 大けがの子「おぶって逃げる」亡き家族に思い 2010年7月4日       
 1944年の太平洋戦争時、サイパンで砲弾の破片で大けがを負い、家族に一度は山中に置き去りにされた体験を持つ山口(旧姓座喜味)克子さん(76)=うるま市=がこのほど、66年前の体験を本紙に語った。4日に出発する南洋群島慰霊墓参団には喪中のため参加できないが、米軍の収容所で数え3歳で亡くなった弟の勝さんら戦争で失った家族・親類への思いを証言に込めた。
 44年6月、サイパンの山中は砲弾が雨のように降っていた。克子さんら家族5人は島東部・チャチャの家を出て山中に避難。安全な場所を求め歩く中、砲弾の破片が当時10歳の克子さんの右足ふくらはぎを直撃した。母・カマドさん=故人=が悲鳴を上げ、噴き出す血を手で押さえた。父・蔡善さん=故人=におぶわれた克子さんは「痛い、下ろして」と泣きじゃくった。
 蔡善さんは意を決して克子さんを下ろし、木の根元にもたれさせ、そばで線香をたき、手を合わせた。悲しみを抑え「必ず迎えに来るから、待っておきなさい」と声を掛けた。置き去りにされると思わなかった克子さんは「迎えに来てよ」と言い、山中に残された。
 家族は砲弾の中を北へ向かったが、カマドさんは「息をしている間はおぶっていたい」と訴えた。数時間後、痛みに耐えていた克子さんの元に家族は戻った。家族は島北端に追い詰められた。蔡善さんは日本兵から米と引き換えに譲り受けていた毒薬を水に溶かし、家族に飲ませた。しかし、避難の途中で他の家族に分けていたため毒の濃度が薄く、誰も死ななかった。
 家族と共に米軍に保護された克子さんは収容所内で入院し、一命を取り留めた。しかし弟の勝さんは下痢が続き、栄養失調で命を落とした。(略)(宮城隆尋)
                         ◇ >蔡善さんは日本兵から米と引き換えに譲り受けていた毒薬を水に溶かし、家族に飲ませた。しかし、避難の途中で他の家族に分けていたため毒の濃度が薄く、誰も死ななかった。 死ぬ手段を持たない家族にとって、手りゅう弾はお米と引き返してもよいくらいの貴重品であったのだ。 この証言を聞いて「日本兵が手りゅう弾を手渡したことが「自決命令」の証拠だと信じる人はよっぽどモノをねじ曲げて考える人だろう。 沖縄タイムスの子(孫)会社の琉球朝日放送の「QABテレビ」でも、場所が慶良間でなかったせいなのか、「軍命」による自決を意味する「悪意の手りゅう弾配布」というより、むしろ証言者の方から手りゅう弾を「ねだった」(★註)て隊長に断られ生き延びよ、と助言している。 仮にこのようなケースで手りゅう弾を手渡していたとしても、万が一に備えて貴重な手りゅう弾を配布するという「善意」が読み取れるではないか。 (★註)隊長命令説を否定!沖縄タイムスが   【おまけ】 ◆琉球朝日放送 65年前のきょうは1945年7月7日(水) 01-07-07-1945-01.jpg 65年前の今日、積徳女学校の看護隊のハルさんたちは解散命令のあと地獄をさまよい、捕虜になりました。積徳高等女学校の生徒25人が看護隊として入っていた糸州の壕。ここに、司令部の玉砕と「最期まで戦え」という命令が伝わったのは6月23日のことでした。 ハルさん「隊長がこんなことになるんだったら君らを預からなかった本当に許してくれと。自分から死ぬことはない。絶対に生きて帰ってお父さんお母さんにあいなさい。そしてこの悲惨な戦場のこと、後世に伝えてほしい。これが隊長の最期の言葉」01-07-07-1945-02.jpg 長野県の住職だった小池勇助隊長は、兵士には北部で持久戦をせよと命じる一方、非戦闘員の看護隊員には投降するよう命じました。女生徒たちは一緒にいたいと号泣しました。 ハルさん「北極星っていうのは変わらない必ず自分より北にいるから、北に向かって進んで行ってくださいって。隊長殿の言葉よ、これ。」 26日の夜、言われた通り北極星を目当てに、ハルさんたちは3人で壕を出て行きました。小池隊長は翌日、ここで自決しました。しかしハルさんもアメリカ軍の黄燐弾にやられます。 ハルさん「上にはアメリカ兵がテントを作って音楽鳴らしているの。私なんかドクガスやって死のうとしているのに、これをうま乗り体制っていうの」「やられた春ちゃん助けて逃げないで。やられた。やられた」「みんな助けて。助けて。してるけど、みんな血の海」01-07-07-1945-03.jpg 地獄をさまよい、何も見えなくなって死んだと思ったハルさん。アメリカ軍のトラックに乗せられて水を飲まされた途端、ようやく景色が見えるようになったと言います。動員された3月6日から4カ月がたっていました。
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