沖縄の出版界が
出版を拒否した
問題の書!
『沖縄に内なる民主主義はあるか』
著者:又吉康隆 定価:税込み1575円
ネット販売註文先 ezaki0222@ybb.ne.jp
※住所氏名と電話番号を御連絡いただければ、受注当日か翌日までに発送いたします<送金方法等詳細はここ>
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「沖縄に内なる民主主義はあるか」の売り上げは目下破竹の勢いでうなぎのぼりです!
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昨日も浦添市のキャンプキンザーでは海兵隊のお祭りが催されたようだが、筆者は朝7時宜野湾の家を後にして高速を北上し名護に向かった。名護に向かったといっても辺野古「テント村」に殴りこみに行ったわけではなく、名護に住む孫娘の運動会を観るためだ。
家を出たとたんものすごい豪雨に見舞われ車のワイパーも役に立たない状況だったが、名護市に着く頃には絶好の運動会日和になった。
孫娘は名護市立屋部小学校の幼稚園部に今春入園し、この学校では始めての運動会。
学校についた午前8時ごろは、先生方や上級生が準備に大童だったが、視線が合うとにこやかに挨拶をしてくれ、挨拶の苦手な沖縄の子どもたちにしては非常に感じのよい印象を受けた。 ここで運動会の顛末をクドクド書いたら完全な「爺バカ」になって、読者に見放されるだろうが、それでも一つだけ書いておきたいことがある。
9時30分の運動会開始で、幼稚園部から6年生までの全校生徒が運動場に集合し、先ず最初に行ったのが国旗掲揚。 全校生徒が国旗に注目し、続いて国歌演奏が行われた。 日本の小学校なので大きな行事の始に国旗掲揚や国歌演奏の儀式があってもおかしくはないのだが、これまで5人の子どもを育てたが運動会の冒頭に国旗掲揚・国歌演奏の儀式を見たのは始めての経験であった。 特に名護市は左翼系の稲嶺市長になってから「辺野古テント村」などの悪評が立って反日左翼の巣窟のような印象だったので意外な感じがした。
☆
さて、沖縄本島を南北に縦断する国道58号は沖縄の交通の大動脈であり、その那覇から浦添市にいたる重要部分に時ならぬ大交通渋滞が起きたら、その原因のいかんを問わず翌日の新聞の社会面に載ると誰でも考える。
だが実際には翌日の地元紙に海兵隊のお祭りはおろか交通の大渋滞についても一行の記載もなかった。
仮にこの交通渋滞の原因が米軍車両の事故だったら、おそらく翌日の新聞の社会面トップは発狂見出しで狂いまくっていたはずだ。
先日那覇地裁で行われた「パンドラ・・訴訟」について、完全に黙殺を決め込んでいる沖縄2紙に取って代わって、追って詳細な報告をすると言っておきながら、オスプレイ騒動にかまけて延び延びになっていた。
昨日の世界日報が詳細な記事にしているので渡りに舟で、そのまま引用させてく。
またしても地元紙が報じない重要事件を全国紙の報道にたようるという沖縄特有の結果になった。
■世界日報 2012年9月23日
「パンドラの箱」掲載拒否訴訟が結審、11月20日判決
「二重掲載」の根拠示し切れぬ被告/琉球新報側が和解模索も決裂
原告の上原氏 「社の方針として拒否」は許されず
ドキュメンタリー作家の上原正稔氏が琉球新報社の夕刊に連載していた『パンドラの箱を開ける時』が突然、一方的に掲載拒否され、上原氏が同社を相手に損害賠償などを求めた訴訟が18日、那覇地裁で結審を迎えた。最終準備書面で原告側が被告側の主張する「二重掲載」の理論破綻を指摘する一方で、被告側は、最後まで原告の連載が「二重掲載」で「初出の内容を用いて原稿を書く」という契約に違反していると主張を繰り返すだけで、「二重掲載」の根拠を示し切れないまま終わった。(那覇支局・豊田 剛)
上原正稔氏が「何か沖縄戦の連載をお願いしたい」と琉球新報社から依頼され執筆した『パンドラの箱を開ける時』の連載は、2007年5月25日から琉球新報夕刊で始まった。
被告側の琉球新報社によると、連載の趣旨は次の通りだ。
「慰霊の日を前に、沖縄戦の様子を米軍の戦時日記を中心に紹介する。資料は米公文書館所蔵の米軍日誌。初出の資料を使い、米軍がどのように戦っていたか、日本軍や沖縄住民は米軍にどのように映っていたか、終戦直後の住民の様子などを紹介する」
ところが、第2話の「慶良間で何が起きたのか」の原稿を新聞社に渡したところ、掲載予定の前日にあたる同年6月18日、掲載拒否を一方的に通達された。その約4カ月後、集団自決の核心に触れる第2話は抜け落ちたまま連載は再開されたものの、渡嘉敷島旧指揮官の故赤松嘉次氏の手紙を含んだ最終回の181回目の原稿掲載も拒否された。琉球新報は、掲載拒否理由を「二重掲載」にあたると示しただけで、その根拠を明らかにしなかった。
『パンドラの箱を開ける時』の新聞連載は180回で終了するのだが、同じ資料の引用は180回のうちのわずか3回分。しかも『パンドラの箱を開ける時』掲載の前年に上原氏は同じ琉球新報に「沖縄戦記−生き残ったものの記録」を長期連載しており、『パンドラの箱を開ける時』の書き始めの部分に「これは『沖縄戦記−生き残った者の記録」の続編に当たる」と記している。
その当時、歴史教科書における沖縄戦の内容で集団自決の軍命の記述を削除する検定意見に抗議する9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」開催に向け、琉球新報や沖縄タイムスなど沖縄のマスコミがそろって検定意見撤回キャンペーンを張っていた背景があった。
これに対して、原告側は最終準備書面で、被告の主張する「二重掲載」の論理は破
綻していることを指摘した上で、こう主張した。
「ドキュメンタリー作家である原告と新聞社である被告との間に、それまでの連載の実績と相互信頼に基づいて、長期間にわたる連載執筆に係る契約が成立しており、原告はその契約に従って執筆した原稿につき、原稿料の支払いとともに、琉球新報紙上の所定欄・枠に掲載を求める契約上の権利を有していたのである。社の編集方針に反するという理由で、掲載を拒否することは許されない」
原告の準備書面が25ページに及んだのに比べ、被告はわずか8ページ。証人尋問ですでに論理破綻を露呈した「二重掲載」の主張を繰り返しているにすぎない。
被告はこのままでは敗訴は免れないことを承知の上でか、和解を持ちかけてきたことが沖縄県文化協会の星雅彦会長の証言により明らかになった。
沖縄戦の聞き取り調査の結果、集団自決の軍命の根拠がないと主張している星会長は2007年8月頃、上原氏と同様に琉球新報に提出した原稿が明確な理由もなく掲載拒否された経験がある。星氏は前回7月17日の口頭弁論で原告側の証人に立ち、「社の方針で掲載拒否された」と証言している。星氏によると、その10日後の27日、あるパーティーの場で琉球新報社の人物と雑談している中、「和解」の相談を受けたという。その人物は、当時の編集委員である前泊博盛・沖縄国際大学教授の代わりに被告として証言した枝川健治・総務局付参与である。
「これ(裁判)にあなたが深入りしない方がいい」と言われた星氏は、「上原さんに伝えてみますが、和解にした方が良いか悪いかということは私が判断できませんよ」と言ってその場は終わった。
「それから1週間後、琉球新報から電話がかかってきて、あれ(和解のこと)を琉球新報側から提案したということはまずいので、星さんから出たことにしてくれませんかと言ってきた」という。和解の話は決裂し、判決を待つのみとなった。
原告代理人の徳永信一弁護士は、「真実を犠牲にしてまでも政治キャンペーンを張り、社会の公器たることを忘れて異論を排除することはあってはならない」と琉球新報の報道姿勢を非難。裁判については「被告が編集権について堂々と戦ってくれなかったことは念」とした上で、米軍の新型輸送機オスプレイ配備問題や中国の尖閣諸島の領海侵犯に見られるように「日本の安全保障を揺るがしかねない今の時期にこの裁判ができたことは意義がある」と強調した。
上原氏は、「被告は敗訴しても、裁判についてほとんど話題にせずに問題を矮小化させるつもりだ」とし、「琉球新報をはじめとする沖縄のマスコミによる言論封殺の実態を県民に広く知らしめることが大事だ」とし、最後まで裁判で戦う意欲を示した。判決は11月20日に下される。
☆
裁判の趣旨と両サイドの主張が要領よくまとめられた秀逸な記事なので、これに屋上屋を築く愚は避けたいが、前回の証人尋問で琉球新報側証人の主張が木っ端微塵に粉砕されたことを一番自覚しているのが被告の琉球新報である。
このまま判決を待てば前面敗訴で、琉球新報の面目は丸つぶれになる。
そこで琉球新報は誰か仲介者を探して和解を模索していた。 偶然あるパーティーで琉球新報の社員やOBに知己の多い星雅彦沖縄県文化会長のと偶然遭遇した。
そこで原告側証人の星氏と友人であった琉球新報社長が和解の話を枝川氏を通じて持ちかけた。
ところが持ちかけた相手が間違いであった。
星氏は法廷で琉球新報とは敵味方に分かれて死闘を続けている相手の証人である。
星自身も法廷に立って「2007年8月頃、上原氏と同様に琉球新報に提出した原稿が明確な理由もなく掲
載拒否された経験がある。星氏は前回7月17日の口頭弁論で原告側の証人に立ち、
「社の方針で掲載拒否された」と、琉球新報の言論封殺を糾弾しているのである。
琉球新報は、和解の仲介人にするには最も不適当な人物に仲介を依頼したことになる。
琉球新報は掲載拒否をした当時よもや資金的にも不安のある徒手空拳の上原正稔氏が巨大組織の琉球新報を相手取って裁判を起こすなど全くの想定外で会ったため、傲岸不遜にも「社の方針に合わない」という本音を吐いて一歩的に掲載を拒否した。
裁判が始まるや急遽掲載拒否の理由を「二重掲載」と後付の嘘を主張したが、しょせん嘘は化けの皮が剥げるもの。
証人尋問で完膚なきまで打ちのめされパニック状態陥った琉球新報は、あろうことかパーティー会場で遭遇した「敵」に和解の相談を持ちかけるという大愚を犯してしまったのだ。
当然のごとく和解案が拒否され、初めて己の愚考に気がついた琉球新報は「あれ(和解のこと)を琉球新報側から提案したということはまずいので、星さんから出たことにしてくれませんか」と恥の上塗りをしたのである。
琉球新報の一連の行動は敗訴を目前にしてすっかり判断力を失い、墜ちるところまで墜ちてしまったただのバカ集団と成り果てている。
【おまけ】
以下は、同じ日の9月11日の世界日報に掲載されて沖縄2紙が決して報じることのない「沖縄の真実」の再掲です。
実数は2万人程度か 盛り上がりに欠けた「大会」
宜野湾市海浜公園で9日開催された「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」は県外の労組や極左団体からの参加者が多く、県民大会と呼ぶには程遠い内容となった。
主催者発表で10万1000人が参加した。実行委員会は、開催前から「過去最大規模の県民大会にしなければ意味がない」と意気込んでいたが、自主的に足を運んだ県民は少数派。保守系の県議の数人は参加を見合わせた。
実行委員会には基地即時閉鎖や安保破棄を求める「沖縄平和運動センター」や「安保廃棄・沖縄県統一連」が加わり、協賛団体の圧倒的多数が革新系労組や反基地市民団体だ。「安保破棄」を求めるノボリのほか、中国の軍拡に警鐘を鳴らし日米安保強化を求める横断幕も掲げられていた。
公安関係筋によると、約2万人が実数に近いという。会場には一般車両の駐車場がなく、ほとんどの来場者がバスを利用したとみられる。実行委員会は各市町村で合計300台近くのバスをチャーターしたというが、その中にはマイクロバスも多く、1台あたりの乗客が40人と見積もっても1万人程度となる。
2007年9月に同じ場所で開催された「歴史教科書検定撤回を求める県民大会」は、主催者発表で11万集まったとされるが、警備会社が航空写真をしらみつぶしに数えたところ、2万人に満たなかったことが分かった。
「『11万人大会』よりも空きが目立つ」「盛り上がりに欠けた」というのが多くの参加者の感想だ。談笑したり木陰で弁当を食べる家族の姿もあり、緊張感に欠けていた印象は否めない。最も盛り上がったのは、「住民運動と行政実務者の行動は違う」として参加を見合わせた仲井真弘多知事のメッセージが代読された場面で、「やめろ」「ペテン師」などと怒号が飛び交った。オスプレイ反対は決して「県民の総意」ではないことを露呈する大会となった。
☆
>2007年9月に同じ場所で開催された「歴史教科書検定撤回を求める県民大会」は、主催者発表で11万集まったとされるが、警備会社が航空写真をしらみつぶしに数えたところ、2万人に満たなかったことが分かった。
この2007年に行われたのが悪名高い「11万人集会」が行われ、同じ年に上原氏の「パンドラの箱が開く時」の「慶良間で何が起きたか」の部分が「社の方針に合わない」という一方的理由で、掲載拒否された。
これが本裁判の発端である。
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