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八重山教科書訴訟、続・タイムスを恫喝した男

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昨日那覇地裁で「八重山教科書訴訟」の口頭弁論が行われたので傍聴に行った。

一時は傍聴者が殺到し、抽選をしたくらいだが今回の傍聴者は5人で取材記者2人を含めても7人と言うさびしさである。

雰囲気でわかるのだが筆者を除く全員が原告側の応援団の模様。 当初から負ける裁判を仕掛け、今頃になって応援団も敗訴に気がつき興味がなくなってしまったのだろうか。

前回も書いたが傍聴席を設けていながら両サイドの弁護士も裁判長も目の前のマイクを利用することもなく、専ら「仲間内の会話」のようにぼそぼそと話し、議論のほとんどは聞き取ることが困難であった。

それでも言葉の端々から推測して、裁判長が同じ趣旨の裁判が複数提訴されているのを併合して審理する、と交通整理に大童の印象だった。

ちなみに昨日の午後1時30分から始まった裁判は、原告はそれぞれ違うが「教科用図書の無償給付を受ける地位確認請求事件」という同じ内容の二つの裁判を同じ時刻に審理すると言うもの。 整理すると次の二つの裁判を同じ日の同じ時刻に審理すると言うものである。

?原告:高宮みのり外 「教科用図書の無償給付を受ける地位確認請求事件」 被告;石垣市

?原告:新里美智子外 「教科用図書の無償給付を受ける地位確認請求事件」 被告:沖縄県外

原告の名前が違うだけで同じ趣旨の裁判を同じ代理人が扱うわけだから、裁判長が困惑気味に複数の裁判を併合するということは素人でもわかることである。

結局原告側は「9・6全教委協議」の有効性を主張し、被告側は「8・23協議会」を主張したが最終的な教科書採択は夫々の教育委員会が採択すると言う点では一致した模様。(当然だが)

同地裁は「9・6全教委協議」の有効性を認めず、原告が申請した同協議の有効性を求める仮処分を既に却下している。

裁判所が判断を逆転させるケースは、上級審に控訴して別の裁判官が審理しなおした場合はありうる。

だが、同じ地裁で同じ裁判官が下した判断を同じ地裁の審理中に、自らの判断を覆すとは到底考えられない。

そもそも「無償給付」の地位を与える職務権限の無い石垣市や沖縄県を被告にして「地位確定の請求」を訴えでること自体が筋違いだと思うのだが。

それに被告になっている沖縄県は終始一貫して竹富町教委を支援していたのではななったか。 

昨日の審理でも県の代理人はひと言も「発言せず石垣市の代理人の発言を黙って聞いていた。(しかし代理人は宮崎政久弁護士となっており同じ弁護士事務所のはず)

いよいよ次の口頭弁論では原告・被告夫々の証人が法廷に立ち、証人尋問を受ける予定である。

次回審理

8月1日 (水) 午前10時

証人尋問  玉津博克石垣市教育長、慶田盛安三竹富町教育長、崎原用能与那国町教育長、竹盛洋一竹富町教育委員長の計4人

印象として原告側は追い詰められて、次々と新たな原告で訴訟を追加し、いたずらに裁判を長引かせようと悪足掻きしているとしか思えない。

【追記】 08:00

先ほど石垣市の読者より、昨日の裁判を報じる八重山毎日の速報が入った。 何故か八重山日報には関連記事は載っていないとのこと。

通常傍聴席には、一番前列に10席ほど専用の記者席が設けられている。 昨日は記者は2人だったが、審理が聞き取れないのは記者も一般傍聴者も同じのはずだが、具体的に記事がかけるのは審理終了後廊下などで代理人を囲んで裁判の詳細を取材できるからだ。 

通常は筆者も記者にまぎれて、取材の状況を傍受できるのだが、昨日の場合は4人の被告応援団と原告、弁護士そして記者を含めてヤク0名ほどの被告弁護団が弁護士控え室に引きこもっての説明会だったので、聞きそびれてしまった。

今朝の八重山毎日は比較的詳しく審理の成り行きを報じていたが、2人の記者のうちの1人は八重山毎日の記者だったのだろうか。

八重山毎日の記事は筆者が推測した上記内容と概ね同じだが、「原告の名前が違うだけで同じ趣旨の裁判を同じ代理人が扱うわけだから、裁判長が困惑気味に複数の裁判を併合するということは素人でもわかる」という筆者の印象が正しかったことを八重山毎日が裏付けてくれた。

本日(28日)の八重山毎日にはこう説明されている。

「原告側は、親子一組が請求を取り下げた」

なるほど、これで私の下記の印象記事の正しさも裏付けられたことになる。

「印象として原告側は追い詰められて、次々と新たな原告で訴訟を追加し、いたずらに裁判を長引かせようと悪足掻きしているとしか思えない。」

【追記】2 10:17

沖縄タイムスがアップしたので資料として保存するが、原告側親子が取り下げたことは伏せられている。さすがカリユシ新聞(笑)

八重山教科書:8月に教育長尋問 那覇地裁

沖縄タイムス  2012年6月28日 09時38分

 八重山地区の中学公民教科書問題に関連した東京書籍版の無償給付確認訴訟で、那覇地裁(酒井良介裁判長)は27日、竹富町を含め八重山3市町の教育長と竹富町教育委員長の計4人を証人として8月1日に尋問することを決めた。

 原告側代理人の井口博弁護士は「(同版を採択した)昨年9月の八重山3市町の全教育委員による協議が有効であることを十分に立証できると確信している」と語った。

 一方、石垣と与那国両市町は、同日までに提出した書面で「(昨年8月の)地区協議会の答申がそのまま採択になるという関係にはなく、その後に各教育委員会の行う採択が唯一の有効な教科用図書の採択である」と主張。育鵬社を採択した根拠を、従来の「地区協議会答申」から「各教委の採択」に変更している。

 同訴訟は、石垣市と与那国町の中学生と保護者らが、両市町を相手に全教育委員協議で採択した東京書籍版教科書の無償給付の確認を求めている。

 【追記】3 12:39


八重山毎日新聞 2012年6月28日
教科書訴訟 被告が却下求める、8月1日に証人尋問

 【那覇】八重山地区の中学校公民教科書問題で、石垣市と与那国町の保護者と子どもが、両市町を相手に東京書籍版教科書の無償給付を受ける地位にあることを確認する訴訟の弁論が27日午後、那覇地裁(酒井良介裁判長)であった。被告側は引き続き却下を求め、8月1日に証人尋問を行うことを決定した。原告側は、親子1組が請求を取り下げた。

 弁論で被告側は、両市町教育委員会が昨年8月23日の答申に基づいた育鵬社版教科書の採択が有効と主張。東京書籍を採択した昨年9月8日協議には「採択としての効果を有するものではない」と反論した。
 次回は、8月1日午前10時から同地裁で証人尋問。竹富町の竹盛洋一教育委員長、慶田盛安三教育長、石垣市の玉津博克教育長、与那国町の崎原用能教育長が尋問に立つ。

 それぞれ、8月23日の答申と育鵬社版を採択した経緯、9月8日の東京書籍版の採択に至る経緯と内容、対応などで証言を求めることとしている。

              ★

コメント欄から富村順一氏の死を知った。

未確認ではあるが、80歳を超える高齢と左翼の襲撃により被った身体的ハンディ、それに独り身でいながら不規則な食生活を考えると「富村氏死亡」のニュースがネット上を駆け巡ってもおかしくは無い。

昨日のエントリーで「富村順一氏こそいま、沖縄タイムスがもっとも発言してほしくない人物」と書いたが、コメント欄では「沖縄タイムスにとっては早く死んでほしい人でしょうね「という声もあった。

まさか恫喝を受けた当事者の新川明氏が夜な夜な富村氏のわら人形に五寸釘を打ち付けていたとも思えないが・・・。

ご冥福をお祈りいたします。

以下は昨日の続編で、続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一に一部加筆してあります。

  ■究極の逆転向者ー富村順一■

前回、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』の記事を人目を避けるように削除した沖縄タイムスは、その歴史に致命的汚点を残した、と書いた。

口止め料として50万円を脅し取った上、タイムスの「穏便に」という願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。

大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、「集団自決裁判」には不自由な車椅子の体を押して大阪地裁まで来て、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁〜35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。>

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。

『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。

『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。

『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。

『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。

『もう一つのひめゆり部隊 −戦後沖縄の売春婦−』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。

『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。

『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。

                   ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

                   *

03/11: 東京タワー事件   嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。   私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある。若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略) 【おまけ】 沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。 1973年は沖縄返還の翌年である。  

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

 

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

 

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琉球新報の言論封殺に戦いを挑んでいる上原さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。

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