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電文の冒頭は次の様な文言がある。
「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。」
法治主義に徹した日本の将校の生真面目さが垣間見えるではないか。
大田中将(当時少将)は、県民の実情報告は県の仕事だとして、役割分担を峻別していたが「県には既に通信力なく」そして上部組織である「32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き」、本職、すなわち大田中将が「県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる」、と「越権行為」をしたことを釈明している。
このような良くも悪くも法治主義に徹していた日本軍が管轄外の住民に軍命を発して自決させたり、また住民が唯々諾々と「軍命に従って自決した」などと喧伝するのは、軍民を問わず亡くなった人達への冒涜である。
戦後67年、本日は慰霊の日です。
糸満市摩文仁の平和祈念公園で、県主催の沖縄全戦没者追悼式が開催される。 例年時の首相が参列するが今年は「慰霊の日にオスプレイ配備を県知事に通告する」などと悪意に満ちた推測記事で沖縄2紙に叩かれた野田首相が参列する。
慰霊の日ならそれらしい厳粛な記事を書けばよさそうなものだが、反日を使命とする沖縄タイムスの本日の見出しを一部拾っただけで暗澹とした気分に襲われる。
慰安所の証言続々
マラリヤの悲劇 曲に込め
強制疎開体験継承を
差別と戦争 二重苦学ぶ
紙面から適当に拾っただけで、この有様。
キーボードを打つのにも辟易させられる。
よくもこれだけの歪曲・捏造記事が書けるもの。
毎年この季節になると、沖縄2紙は沖縄戦の記事で日頃の発狂記事に輪をかけたような歪曲・捏造記事で埋めつくされる。
狂乱報道8月の終戦記念日にかけて、まだまだ続く。
戦後日本を占領したGHQは数々の旧制度を廃止した。
が、明治期から連綿と続く官僚機構はそのまま温存した。
戦前の日本軍もある意味では官僚機構の典型であり、背広を着たエリートの代わりに軍服を帯剣のエリートが軍政を行っていた。
軍の機構も現在の官僚機構と本質的には何ら変わることはない。
軍政と言えども官僚機構特有の法治主義が徹底しており、よくも悪くも「お役所仕事」が行われていた。
よく話題になる「集団自決の軍命」にしても、軍隊の上官が部下の兵に軍命を下すならともかく、「管轄外」の民間住民に「自決命令」など下すはずは無い。官僚機構のセクショナリズムからいえば到底考えられないことである。
事実「軍命による集団自決」は現在のところ1人の証言者もまた証拠物も確認されていない。
これもNHKなどの歪曲報道で「戦陣訓」を叩き込まれた住民が、その訓により集団自決したと喧伝するが、」これも実際戦争体験者の司馬遼太郎氏や山本七平氏らによりありえないことだと一蹴されている。 セクショナリズムの権化ともいえる日本軍がその則を越えて一般住民に軍人の訓である「戦陣訓」を叩き込むはずは無いのである。
第32軍は沖縄での地上戦を想定し、早い時期から一般住民を疎開させる努力をしたが、驚いたことに当時は軍が民間人に疎開を強制する法的整備がなされていなかったという。
したがって住民の疎開に際しても軍は先ず県知事にこれを依頼し、県知事はさらに機動力のある警察の協力を仰いで住民の疎開に努力した。
沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。
県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。
以下は過去エントリー大本営の密使 沖縄戦秘話3を一部編集したものである。
万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆
【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛)
◇
■昭和19年12月の「県民大会」■
昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。
その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。
大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。
けふ大詔奉戴日 軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂 布かう滅敵待機の陣
終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。
昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。
ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。
そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。
米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て
お題目で獣性偽装 野望達成で手段選ばぬ
泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。
<挺身活動へ 翼壮団長会議
県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)
当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。
例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。
では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。
■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■
ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。
連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」
という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。
戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。
日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。
ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。
第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、
何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。
そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。
■県民疎開は大本営の発想■
昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。
同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。
既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。
沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。
大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、
これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)
緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。
今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。
当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、
沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、
県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、
県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。
現在のような平和な時代の後知恵で、
「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、
実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。
警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である。
☆
生真面目な軍人であった大田実海軍中将が海軍時間に送った「沖縄県民斯く戦えり」で有名な電報にも、自決の直前であったにもかかわらず、法治主義を遵守し、軍人としての則を超えることに但し書きを入れることを忘れなかった。
大田中将の電文は末尾の「沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」という文言があまりにも有名なため冒頭の次の文言が見過ごされがちであるが、これこそが日本軍の則を越えない法治主義の面目躍如というところである。
電文の冒頭には次の様な文言がある。
「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。」
法治主義に徹した日本の将校の生真面目さが垣間見える電文ではないか。
大田中将(当時少将)は、県民の実情報告は県の仕事だとして、役割分担を峻別していたが「県には既に通信力なく」そして上部組織である「32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き」、本職、すなわち大田中将が「県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる」、と「越権行為」をしたことを釈明している。
このような良くも悪くも法治主義に徹していた日本軍が管轄外の住民に軍命を発して自決させたり、また住民が唯々諾々と「軍命に従って自決した」などと喧伝するのは、軍民を問わず亡くなった人達への冒涜である。
第2回 「島守・防人に感謝する集い」の
■お知らせ■
戦後の世代から島守・防人となった先輩方に感謝する集いです。
熾烈な地上戦が行われた沖縄において、史実を無視しての日本軍や従軍体験者に対する批判が多いことを悲しむ戦争体験者の方々の声を受け、昨年から始まりました。
日時 6月23日(土) (慰霊の日)13時30分から(慰霊祭は12時から)
「沖縄全戦歿者慰霊祭」(12時~13時)
「第二回 島守・防人に感謝する集い」
第一部 感謝の式典
第二部 映画上映「鎮魂と平和への祈り」(天皇陛下の慰霊のお姿について)
第三部 記念講演「日本の誇り・沖縄の誇り」
講師 大山晋吾先生(波上宮禰宜・元靖國神社広報課長)
参加費1000円
記念講演の講師は、靖國神社から波上宮(なみのうえぐう)に転任された大山晋吾先生です。大山先生といえば、遊就館の発展に尽力され、靖国の心と英霊のお姿を伝える活動で有名です。
「(多くの英霊が眠る)沖縄県は西の靖國神社だと思っています」とは大山先生の決意のお言葉です。
多くの戦歿者が眠る沖縄県で、6月23日の「慰霊の日」にこのような集いを行うことに意義を感じます。
どうぞご参加くださいませ。
イベントポスターはこちらから⇒ http://goo.gl/cD5Th
【第一部】 感謝の式典
【第二部】 映画上映 「鎮魂と平和への祈り」
【第三部】 記念講演 「日本の誇り・沖縄の誇り」
講 師 大山 晋吾 先生(波上宮禰宜、元靖国神社広報課長)
詳 細 日 時 平成24年6月23日(土) 開場13:00 開演13:30 会 場 沖縄県護国神社 (奥武山公園内) 社務所2階大ホール 参加費 1,000円(学生は無料です) 問合せ 090-6831-0989(坂本) 主 催 日本会議沖縄県本部 事務局
沖縄県那覇市若狭1丁目25-11(波上宮内)
◇慰霊の日◇
「沖縄全戦没者慰霊祭」は12:00〜13:00沖縄県護国神社本殿 にて執り行われます。沖縄を、そして日本を命を賭して守り抜かれた英霊に感謝の誠を捧げましょう。
連絡先:坂本 090−6831−0989
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琉球新報の言論封殺に戦いを挑んでいる上原さんの訴訟へのカンパ協力は支援団体の三善会へお願いしております。
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ゆうちょ銀行からの振込の場合
【金融機関】ゆうちょ銀行
【口座番号】記号:17010 口座番号:10347971
【名 義】サンゼンカイ.
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ゆうちょ銀行以外の金融機関からの振込の場合
【金融機関】ゆうちょ銀行
【店 名】七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店 番】708
【口座番号】普通:1034797
【名 義】サンゼンカイ.
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