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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

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本日は午後1時30分より宜野湾市民会館で復帰40周年記念式典が行われ俳優の津川雅彦さんが記念講演をします。

入場料は500円ですが学生以下は無料ですので是非ご参加下さい。(詳しくは文末に)

                 ☆

■沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

この30年前の沖縄タイムスの記事が筆者の不注意により未完のままアップされてしまったことを改めてお詫びしたい。

結果的には予告編の役割をしたが、本稿は本編である。

当日記を古くから読まれている方は上記引用の記事を読んで、アウトラインは理解できるでしょうが、複雑に絡み合った集団自決の整理のため、記事に書かれている事実の説明から始める。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。

が、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのを歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

  

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

?「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

?数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

?物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

?意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

 

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長のめいれいでもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既におそく、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

                 ★

【おまけ】

産経・【石原知事会見詳報】「日本人も捨てたものじゃない。うれしさで胸がいっぱい」 尖閣諸島購入で寄付金4億7千万円 
2012.5.11 21:31 (1/4ページ)[尖閣諸島問題]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120511/lcl12051121330004-n1.htm

 東京都の石原慎太郎知事は11日の定例会見で、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入構想に絡んで、都が設置した寄付口座に約4億7000万円が寄せられたことについて、「国が何もしないから、自分たちの手で国を守りたいという意識の表れだ。日本人も捨てたものじゃない。うれしさで胸がいっぱいだ」と謝意を示した。会見の詳報は以下の通り。

     ◇
「冒頭私から2つ。まず、東京電力の総合特別事業計画について、東電の構造改革についてはこれまでも再三指摘をしてきたが、都の主張が盛り込まれて、結果としてコスト削減額が2兆6000億円から、3兆3000億円に積み上げられることになった。しかしながら、電力市場の透明性や競争性を向上させるために、国が取り組まなければならないことがまだまだたくさんある。そこで、近々、猪瀬直樹副知事に枝野幸男経済産業大臣のところへ、要請活動に行ってもらおうとを考えている」
 
 「それから、尖閣諸島の東京都の購入に関する寄付金について。寄付の専用口座を開設したが、本日(11日)正午現在の速報値で約4億7000万円にのぼった。実は、先般ある起業家からありがたいことに、1億円寄付するという申し出があった。これからも、国民の関心が高まって、かなりの協賛金が集まると思う。短い期間で、これだけの金額が寄せられたのは、やはり都民、国民に国土がいかに大切かという意識が、先の東日本大災害が引き金になって、それが呼び起こされて、とにかく国が何もしないなら、自分たちの手で、せめて、自分たちの手で国を守りたいという意志が凝縮した結果だと思っている。こうして寄せられた志をありがたく受け止めるとともに、私からのお礼状を送るように事務方に指示した」

 「国民のみなさまに、この場を借りて感謝申し上げる。やっぱり、国がやらないなら、私たちがやるしかない。天は自ら助くる者のみ助く、という人間の歴史の原理、この国を扱う政治家や役人ではなく、国民の皆さんが自覚していらっしゃるということ、私はありがたい。本当に日本人も捨てたもんじゃないな。本当にうれしさで胸がいっぱいだ。これからどういう進展になるか分からないが、ともなく、国がしないなら私たちがするしかないんですよ。本当に」

「今年になってから、シナが『日本の尖閣諸島の実効支配を俺たちは壊す、そのために果敢な行動を取る、そのための艦船を含めた機材も調達して、強化する』と言っている。現に、300隻を超す漁船が領海侵犯しながら漁業している。今の日本の体制では、これを追っ払うことは、到底できない。そういった漁船たちが乱獲を続けて、黒潮の源流があそこからわき上がって、日本の列島を回って、それが運んでくる魚たちが、特に日本の近海マグロも、幼魚があそこで一網打尽にされたら、日本独特の海洋資源までが絶滅する恐れがある。そういうことをみなさんに知っていただきたい」

 「それから、私たちがかつて作った灯台。政治結社(日本青年社)が立派な灯台を作ってくれた。2、3足りないことがあるからということで、さらに立派な灯台を作ってもらったが、外務省はなぜか『時期尚早』と言ってこれを海図に記載することを止めた。できあがった灯台が光りながら、海図に記載されないことは、非常に危険なんです。ところが、日本人含めて、漁民とかあそこを航行する他の人たちの生命の危険も顧みずに、外務省は、誰におもねったか、どの国におもねったかはとにかく、この灯台を正式に記載させることを拒んだ。政府もそれを許した。こんなばかな国どこにありますか。外務省の役人にとってみたら、シナに対する懸念が、同胞の日本人や他のあそこを航行する人たちの、人間の生命よりも、他国に対するおもねり、危惧の方が大事だということで、私は外交の名に値しないと思う」

 「これも石垣の人間は全部知ってることだが、(中国漁船衝突事件で)衝突した特殊な船、向こうの装甲が厚くて、ぶつけられた海上保安庁の船に穴があいた。その犯人をなんで、沖縄県の地検の検事がその権限で釈放できますか。全部その検事に罪をなすくって、外務省が差配して、あの犯人を釈放し、夜中のに特別機がやってきて、強引に石垣の空港を開けさせて、向こうのかなりの人物、高官が彼を迎えに来て連れて帰った。英雄扱いで歓呼の声で迎えられた、向こうでは。こんなことの手助けを、なんで日本の外務省がするんですか。だったら、国会であの検事を参考人にして呼んだらいいじゃないですか。こういうことを全くしないで、とにかく何というか、責任のなすくり合いをして、しかも、外国がお前の家に強盗に入るぞということを宣言しておりながら、着々とその準備を進めていながら、それに対処しようとしない。だったら私たちがするしかないじゃないですか」

「東京だって国の一部。この国が侵犯されたら東京だって立つ瀬がない。だから東京が言い出して、こういうことになった。私とあの島の持ち主の栗原一族とは、昔から深い因縁がある。私たちは一度、かつて栗原家の当主だった未亡人に、小さな島でもいただきたいと申し出たが、断られた。栗原家は戦争中、一方的に中島飛行機の飛行機工場を作り、そのための滑走路を作るため、膨大な土地を取り上げられたそうだ。そして、戦後も膨大な屋敷を区画整理ということで、本当に惨めに削られた。そういう苦い経験で、かつて未亡人は『私たちは一切国を信用いたしません。政治を信用しません』と。私は面会を断られたが、たまたま未亡人の親友だった、私の父の秘書だった方も未亡人で親しくて、その方の縁で、私は会うことができて、その話をじかに聞いた。私たちは引き下がったが、代が変わって、向こうもいろいろ事情があるようで、亡くなったお母さんが、私の関係を知っているいまの当主が、自民党の山東昭子参院議員と親しく、山東さんを通じて、『石原さんと話をしたい』ということで、今回の運びになった」

 「本来なら東京がすることじゃないでしょう。国がすることでしょう。国がしないなら、誰かがしなきゃいけないんじゃないですか。誰がこの国を守るのか。ということで、それに呼応してあっという間にこれだけの寄付金が集まったということを、私はこの国を救う大きなよすがになると思う。日本人に対して、国民に対して、共感してくださった方、本当に、国を代表してだね、僭越(せんえつ)な話だが、『ありがとう』と本当に心からお礼申し上げる。また、これからもご協力期待しております」

 −−尖閣諸島購入について、石垣市長が共同購入をしたいと言っているが

 「それはお断りしました。混乱しますから。東京が入手した後、どういう責任分担するかを考えていきたいと思っている」

 −−地権者の栗原さんとのやりとりについて、都の職員、役人レベルでのやりとりはまだないと聞くが、職員が意向を確認することは

 「栗原さんの意向は私が確認している。事務的な手続きは担当の人間がすればよろしいんで、向こうもきちっと弁護士を代理人に立てていますから、こちらの代理人の弁護士とで事務的な交渉をする」

 −−尖閣について、石垣市長の共同購入提案をお断りしたと

 「一元化しないと混乱する。全部東京が取得した上で、いろいろ業務分担しようと思う。また、その段階で、石垣に財政的にも参加してもらうことはあり得るだろうが、今はやっぱり東京が勧進元になってやらないと、あっちでこっち、こっちであっちということになると、詐欺まがいの事件も発生しつつあるので、こういったことを是正するためにも、一元化した方がスムーズに行くと思う」

 −−石垣市長には、いつどのような形で伝えるのですか

 「そういう(共同購入の)メッセージをさっき聞いたんで、私の方から断ります、きちっと」

 −−これから伝える

 「そうですね」

 −−東電の家庭用電気料金の値上げについて、猪瀬副知事は東電に対して矛盾点を指摘しているが、値上げについて都の考えを

 「猪瀬さんと全く同じですね。家庭用と言ったって、中小、零細企業も入るわけだから。ところが、普通の家庭ならこたえるかもしれないけど、これだけの値上げ、本当に身を削ぐような努力をして経営している人に、さらに負担がかかったときにどうなるか、ということを斟酌(しんしゃく)して、私たちも、彼らが権利と称している値上げに対して対抗していこうと思う。今まで一回辞めた都の職員、副知事だった人間が重役でいたが、そんな人ではなく、ただのつなぎの伝令でいるだけであまり役に立たなかったが、今度は東電の姿勢をただしていく必要があるから、公認会計士を選んで、東京の代理人として、重役として送り込みます」

 −−昨日(10日)、東電の原発の稼働の可否を問う都民投票の特別請求があった。32万筆の署名を集めて、都に訴えたが、改めて知事の見解は

 「議会でも議論したらいい、政党の立場もあるだろうし。ただ、軽々に黒白という今の形で原発を判断するべきではないと思う。フランスで維持できているものが、なぜ維持できないかというと、日本のシステムが悪いから。技術は最高のものを持っているが、通産省(経済産業省)と東電がグルになって、ガバナンスというか、経営がでたらめで、しかも日本の地政学的な条件を考えずに、1千年前かもしれない長いサイクルだろうが、やがてやってくる可能性のある大津波が過去にあったということを、学者がちゃんと証明していた。同じものを作るんだったら、海岸のそばじゃなく、どういう効率を考えているか知らないが、そこが立地として安く使用できたかもしれないが、過去の大津波の実績を考えれば、私は山の上に作ってもいいと思う。だから極端なこと言って、東京湾にでもできるじゃないか、鋸山(千葉県)の上だったら空き地たくさんあるんだから。あそこに作ったら津波は行かない。地震の強度で原発が破壊されたという事例はない。あくまでも津波だ」

 −−今回の条例は原発の稼働を差し止めるという請求ではなく、原発をどうするかを都民が決めようという趣旨だと、市民グループは説明している。それについては

 「都民が決めるの」

 −−最終的には議会だが、住民投票で東電の原発を稼働させるか、させないかを決めるというのが目的だが

 「私はそういう方式は危険だと思う。なぜこういうケースだけ住民投票にするの。そのために議会があるんだから、そこで冷静な議論したらいい」

 −−先ほど、尖閣諸島購入の話では、国には任せておけないので自分たちがものを決めることを歓迎していた。原発は横に置いた上で、住民が自分たちで考えて決めたいと考えることについての感想は

 「だったら、民主的な選挙制度は意味がなくなる」

 

■「沖縄県祖国復帰40周年記念大会」■

日時 5月12日(土)13時30分〜
会場 宜野湾市民会館(宜野湾市役所隣)

500円(学生以下無料)

オープニング
・琉球舞踊「かぎやで風」(4分程度)
 佐喜眞恭子(佐喜眞市長の妹様 ほか数名)

・地元・平安幼稚園園児による詩吟・素読(5分程度)

第一部
実行委員長挨拶(5分程度)
中地昌平(沖縄県工業連合会顧問 日本会議沖縄県本部会長)

メッセージ 
仲井真弘多(沖縄県知事)

来賓祝辞 (3分程度の短い挨拶)

・平沼赳夫(たちあがれ日本代表)
・三好達(元最高裁判所長官  日本会議会長)
・佐喜真淳(宜野湾市長・・・27年ぶりに革新市政を倒す)
・宜保晴毅(豊見城市長・・・若手保守市長)

・復帰運動体験者より提言
 又吉康勇(元嘉手納村PTA会長 「沖縄子供を守る父母の会」副会長)

・未来を担う「復帰っ子」より提言
 宮平貴裕(日本青年会議所(JC)沖縄地区協議会 会長)

・決議採択(地元大学生2名)

第二部

「我が祖国チベットと沖縄」(15分)
ペマ・ギャルポ(桐蔭横浜大学教授・ブータン国王来日時通訳)

「日本人の誇り〜沖縄県祖国復帰40周年を迎えて〜」(40分)
特別ゲスト 津川雅彦(俳優)
津川氏はTBSドラマで佐藤栄作総理を演じ、祖国復帰に関心を持たれています。

フィナーレ
「ミルクムナリ」
「風の結人」
「ゆいとーま」
 琉球國祭り太鼓×日出克
日出克ライブ

沖縄が生んだ天才アーティスト日出克が歌い、琉球國祭り太鼓が舞い、祖国復帰40周年を祝います。

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