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本稿は「恨み辛みの学童疎開 沖縄戦秘話2」に加筆したものです。
沖縄県民の県外疎開は、大本営陸軍部の発想であった。
だが沖縄タイムスの歪んだ目で見れば、県外疎開の一環として行われた九州各地への学童疎開も「軍の口減らし」ということになる。
「軍は住民を守らなかった」を、スローガンに掲げる沖縄紙は、当時の学童の想い出までも「恨み節」に作り変えていく。
そこには受け入れてくれた疎開先への感謝の気持ちは一欠けらも見えない。
そう、悪いのはすべて「極悪非道な日本軍」のせい、というのだ。
学童疎開の碑建立へ 来年、黄金森公園内に(2008.7.25)学童疎開の歴史事実を伝えようと、結成された記念碑建立期成会の結成総会=南風原町の南風原文化センター
【南風原】沖縄から本土への学童疎開の歴史事実を後世に伝えようと、南風原国民学校の学童疎開者が中心となって「南風原国民学校学童集団疎開記念碑建立期成会」が結成された。同会によると、学童疎開の碑建立は県内でも初めての試み。18日に南風原文化センターで結成総会が開かれ、会長に選出された大城清一さん(76)=同町宮平=は「戦争による学童疎開の苦しみを繰り返させないよう、石碑の建立で子や孫に平和の尊さを伝えたい」と力を込めた。
南風原町からは、1944年8月に対馬丸と同じ船団で熊本県へ124人、次いで9月に宮崎県へ148人が疎開。「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン(ひもじい、寒い、寂しい)」と苦難を乗り越え、46年に帰郷を果たした。(略)
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この記事は一体何がいいたいのか。
何よりも学童疎開を受け入れてくれた熊本や宮崎の方々への感謝の気持ちは何処へ置き忘れたのだろうか。
>「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン(ひもじい、寒い、寂しい)」と苦難を乗り越え、46年に帰郷を果たした。
当時学童疎開を体験した人は誰でも親と離れてさびしい思いをしただろうし、
食糧不足は日本全国の現象で、ひもじい思いをしたのは沖縄の学童だけではない。
当時を思い起こすのは大事なことだと思うが、これが「沖縄だけが酷い目にあった」とか、「学童疎開は日本軍の口減らしのためだった」といった恨み辛みが出てくると、勘弁してほしいとも言いたくなる。
そんなバチアタリなことをいうヤツはいないって?
それが、いるのだ。
だから、沖縄の新聞はオチオチ安心して読んでおれないのだ。
以下再掲の沖縄タイムスの歪んだメガネを通すと、全てが「日本軍の悪意」になってくるから驚きだ。
【再掲】です。
歪んだ眼鏡の沖縄タイムス 日中友好協会が聞き取り調査?色眼鏡で物を見れば何事も色つきで見えるが、沖縄タイムスの記者は色眼鏡の上に更に「物が歪む眼鏡」をかけて記事を書くようだ。
まさか心根までは歪んでいないだろう、と思いたいのだが、下記の記事を読むと、歪むどころか心根が腐っているのが良くわかる。
取材相手の言葉としているが、歪んだ発言は全て沖縄タイムスの歴史認識をそのまま反映している。
沖縄タイムス 2008年2月4日(月) 朝刊 21面
疎開語り 非戦を誓う/宮崎の受け入れ先市民・県内体験者
沖縄戦時の県外疎開の様子を調べようと、疎開先だった宮崎県都城市の戦争体験者ら日本中国友好協会の会員が三日、那覇市内のホテルで疎開体験者の話を聞いた。同協会都城支部が企画する平和事業などで、沖縄戦の実態を紹介するために交流を深めようと訪れた。
疎開体験を話したのは、一九四四年から四五年にかけて県内から同市周辺に疎開した小波津厚明さん(77)=南城市=と玉那覇良康さん(68)=宜野湾市。
疎開先に食料や住居は準備されておらず、栄養失調になり「食べられる物が落ちていないか」と、いつも下を向いて歩いていたこと、風呂のない公会堂などでの生活が続き、皮膚病や体のにおいに悩まされたこと、慣れない寒さにも苦しんだこと―などを語った。
一方で、地元の住民が乏しい食料の中から差し入れをくれたことや、小波津さんの疎開先だった同県日之影町の日之影小学校(当時は岩井川村・岩井川国民学校)には疎開記念碑が建ち、疎開した九月八日を「友情の日」として、小波津さんらによる戦争についての授業が続けられていることなども紹介した。
同協会の田中義教理事長は「沖縄戦もそもそもの始まりは日中戦争だった。私たちは、両国間で二度と戦争が起きないようにと民間交流を続けている」と話し、「日中戦争や沖縄戦の実相に蓋をしようとする動きが強まる中で、事実は事実として残し伝えようと訪れた」と話した。
小波津さんは「県外疎開は沖縄戦に備え、日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている。沖縄戦の美化は許されない」と訴えた。
同協会都城支部では毎年「平和のための戦争展」を行っており、今後、沖縄からの疎開を含めた沖縄戦の実相を紹介したいという。
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■善意と悪意■
沖縄タイムスが、「集団自決」が軍の命令であると主張する根拠に手りゅう弾を「悪意」の眼鏡で見て、軍が命令した唯一の「物的証拠」にすることへの反論はさておいて、
島の周辺を米艦船の大船団に取り囲まれ袋のネズミ状態で艦砲射撃でパニックに陥入り、死ぬ手段を捜し求めている時、数少ない手りゅう弾を配布されたら「善意」と解釈してもおかしくはない。
>疎開先に食料や住居は準備されておらず、栄養失調になり「食べられる物が落ちていないか」と、いつも下を向いて歩いていたこと、風呂のない公会堂などでの生活が続き、皮膚病や体のにおいに悩まされたこと、慣れない寒さにも苦しんだこと―などを語った。
先ず疎開が行われた一九四四年から四五年当時は日本全国何処へ行っても食糧不足は珍しくなく、これも「残酷な日本軍」の責任にするのは沖縄の左翼くらいのものだろう。
沖縄タイムスが「集団自決」は軍の命令であると強弁する根拠の一つが「軍民混在」だが、
これを避けるため軍が精一杯行った「学童疎開」も、
沖縄タイムスの「歪んだ眼鏡」で見れば「残酷な日本軍」の責任だとというから開いた口がふさがらない。
悪意で見れば全てが歪んで見える。
米軍の沖縄攻撃を前に、軍は県民の県外疎開を命じた。
「学童疎開」はその一環である。
県外疎開の命令に従わなかった県民には北部地域への疎開が命じられ、これに従った県民の戦没者は比較的少なかった。
だが疎開せずに自宅に留まった県民の多くは南部地域に敗走する日本軍の後を追って米軍の「鉄の暴風」ともいえる砲撃を受け多くの戦死者を出した。
>小波津さんは「県外疎開は沖縄戦に備え、日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている。沖縄戦の美化は許されない」と訴えた。
沖縄タイムスが、自分の歴史認識に合致する「証言」は全て鵜呑みにするのは「集団自決」の証言で実証済みだが、
疎開当時4歳の少年が「日本軍が県内の口減らしを目的に推し進めたことは、私の記憶でもはっきりしている」と断言する証言もそのまま鵜呑みにするのか。
後になってからの大人の「反日思想」の影響だとは考えないのか。
郵送船や燃料さえもも少なくなった時期に、学童が戦火に襲われるのを避けるための「善意」で行った学童疎開も、
歪んだ心根で見れば「残酷な日本軍」が行った口減らしが目的だったとは、さすが「日中友好協会」の歴史認識とあきれて拍手を送りたくもなる。
■日本中国友好協会が聞き取り調査?■
>日本中国友好協会の会員が三日、那覇市内のホテルで疎開体験者の話を聞いた。
そもそも疎開体験の聞き取りを怪しげな団体の会員がやること自体が不可解だ。
「色眼鏡」や「歪んだ眼鏡」どころか心根が歪んだ解釈しか出てこないのは沖縄タイムスとしては想定内なのだろう。
このように学童疎開さえも悪意に解釈する会員を擁する「日本中国友好協会沖縄県支部」が国立大学の研究室内にあることは、この記事を見て調べるまで知らなかった。
沖縄の大学はますます中国工作員に侵食されつつある。
沖縄県西原町千原1-1琉球大学教育学部辻雄二研究室 098-895-8444
日本中国友好協会がどのような性格の集団であるかは、次の「公式声明」を読めば明らか。
沖縄タイムスの社説にしてもおかしくない程の論調の一致に、納得、ナットク。
歪んだ心の沖縄2紙が、歪んだ色眼鏡で見れば全てが歪んで見えるのは納得できるのだが。
こんな歪んだ記事を有料で読まされる読者はたまったものではない。(怒)
パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内
表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。
尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。
記
第五回口頭弁論
日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より
場所: 那覇地方裁判所
報告会
日時: 同日 午前十一時半より
会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室
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