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「疎開」と「軍命」

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極悪複合体は、新しい強請りネタである「八重山マラリア」なる新しい概念を教科書に載せろ、などと理不尽な要求をし始めた。

そして住民の危機を回避するための「疎開」を「強制疎開」や「日本刀を突きつけて」などと悪意の修飾語を塗して読者を誤誘導しよう企んでいると書いた。

現在では馴染みの薄い「疎開」や「軍命」について、再度検証してみたい。

わが国は戦前戦後を通じて憲法を戴く議会制民主主義国家であった。 戦前といえども左翼用語で言う「天皇制」などではなく、憲法を国政の基本とする立憲君主制であった。

従って天皇が直接軍や政府に命令することはなく、軍も又政府に直接命令することはなかった。

軍の命令とはあくまで軍組織の上部から下部組織への命令であり、地方の住民に対しては法的な命令権はなく、何事かを依頼する場合は各地方の県知事を通じて地方の行政府の協力を得なければならなかった。

最近の八重山教科書問題でも明らかなように文部行政の監督省庁である文科省といえども、竹富町の行政指導は県教委を通じて行わなければならないのと全く同じである。 

その意味では戦前の軍の政務官僚は現在の官僚と同じく偏差値エリートであり、帝大より難関といわれた士官学校の卒業の席次が軍官僚としての将来を決めた。 戦前の士官学校卒の軍官僚と現在の霞ヶ関官僚の違いは、軍服か背広の違いだと言うこともできる。

軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」

戦時中に、よく言えば「利用」、悪く言えば「悪用」された言葉に、「軍の命令」という言葉がある。

実際には命令は発せられていなくとも、また軍が命令する権限がない場合でも、当時の社会風潮から「軍命」と言った方が万事敏速に行動に移す傾向にあった。

昔から時間的観念の薄かった沖縄県では、特にこの傾向が著しかった。

例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。

県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは行政側であったので、県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した。

当初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した。

だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。 オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。

『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。

≪当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。

しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略) 

かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、部落、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。≫

沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。

学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の○○に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。

>家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた

「軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりも出来なかっただろう。

むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、

米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。

どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。

学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた。

軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、

戦後は左翼勢力によって悪用されている。

以下は世界日報の引用です。

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部<13>

 

軍・行政が住民疎開に尽力 「南西諸島守備大綱」で詳細な指示 picture 今年6月23日の「慰霊の日」、沖縄県南部にある摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」に刻まれた戦没者の前で手を合わせる遺族(敷田耕造撮影)

 沖縄の地で米軍を迎え撃つ日本軍は、敵の圧倒的な攻撃力をいかに封じ込め、反撃するかに心を砕くとともに、沖縄県民の疎開にも配慮した。

 軍が沖縄県庁と疎開計画を立案したのは昭和十九年の夏ごろから。重点を置いた島外疎開については、戦闘開始までに沖縄本島約十万人、八重山群島約三万人が九州・台湾に避難できた。

 一方で、疎開住民を輸送する船舶の不足、疎開先の受け入れの限界などの事情から、軍は島内疎開も視野に入れていた。この一環として十九年暮れに策定されたのが「南西諸島警備要領」。その特徴と経緯を、沖縄守備隊第32軍高級参謀、八原博通・元陸軍大佐の著書『沖縄決戦』(読売新聞社、昭和四十八年)から、紹介する。

 〈本要領中、最も注意すべきは、住民を当然敵手にはいるべき本島北部に移すことであった。一億玉砕の精神が、全国土に横溢(おういつ)していた当時、これは重大な決断であった。私は、軍司令官に相談申し上げた。「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿(たど)らせるべきでない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨(ほうこう)する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手纏(まと)いになる」といった主旨を述べた。こういうと、一見語勢が強いようだが実はそうではなく、私も内心軍司令官のお叱りを受けるのではないかと、声をひそめて申し上げたのであった。ところが、軍司令官は、よく言ってくれたとばかり、直ちに裁断を下されたのである〉

 戦闘に参加・協力できる県民を除いて六十歳以上の老人、国民学校以下の児童とその世話をする女子は十数万人と、八原参謀は読んだ。だが、米軍の日増しに激しくなる空襲や家族がバラバラになることを嫌い、北部疎開は思うように進まなかった。結局、五万人ほどが北部に疎開した。

 着任して間もない島田叡知事は沖縄県民の食料確保のために、わざわざ台湾総督府に出掛け談判した。結果、台湾米約十万袋を獲得し、この海上輸送にも成功した。

 六月上旬、東京・目黒の防衛省防衛研究所の戦史資料室を訪ねて、「軍命」「沖縄戦」「第32軍」の中から、三十点余りの資料を閲覧した。八原参謀の『沖縄決戦』の下書きとなったノートのコピーや、米国から戻された作戦資料などもあったが、南西諸島警備要領そのものはなかった。

 ただ、沖縄のジャーナリスト、上原正稔氏が翻訳・編集した『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)に掲載されている「南西諸島守備大綱」が、この南西諸島警備要領と同一のものと推定される。

 タイトルが違うのは、米軍が押収した日本軍機密文書の英訳を上原氏が日本語に直したものだからだ。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』によれば、極秘扱いのこの文書は、「閣議決定による国家総動員法の要旨に基づき、球一六一六部隊(第三十二軍司令部)牛島満司令官及び、沖縄県知事、鹿児島県知事の命令により、次の付属文書を提出する」という文から始まっている。その内容は、八原参謀の手記と重複するものだが、「南西諸島守備大綱」の方がより住民の疎開について詳細な指示がなされている。日本軍が駐屯した島の島民への指示も記載されている。

 「船舶の事情により、予期される戦闘地区から事前に疎開できず、しかも、軍隊のいる島の島民は、敵軍の砲撃の被害を少なくするために、それぞれ身を守るための壕(ごう)を掘らねばならない」

 また、「(住民の)混乱を避け、被害を少なくするために、島民を適当な場所に疎開、あるいは、離島に疎開させること」とも記している。

 専門家によれば、避難壕を造ることや安全な場所に島民を誘導するという仕事は、村長、助役ら行政担当者と、戦闘部隊を後方から支援する基地隊が中心になって行うという。つまり、軍も行政も住民保護に心を砕いたのである。

 こうした事実を踏まえれば、精神的に限界状況にあった住民が集団自決に踏み切ったことを取り上げて、「日本軍は住民を守らない」などという左翼の主張がいかに的外れで、「反日運動のために捏造(ねつぞう)されたスローガン」にすぎないかが明白になる。

 実際は、全国各地から召集された日本人がわずかな武器を手にして、日本を、そして沖縄を守るために貴い命をささげたのである。もし、日本軍が沖縄に一兵士も送らなかったならば、果たしてどうなっていただろうか。北方領土や樺太がソ連領になったように、沖縄もまた米国の一部になっていたかもしれない。

(編集委員・鴨野 守)

(本紙掲載:6月29日)

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【おまけ】             

明らかな誤解

保革を問わず、知識人と言われる人達の間でも沖縄に関して抱く大きな誤解がある。

 雑誌『正論』の2月号の巻頭文「折節の記」の文中に「戦後、米国は沖縄を自国領に入れた」というくだりが有る。

が、これは明らかな事実誤認である。

沖縄は歴史上一度も米国領になったことはない。

1972年5月15日、沖縄は祖国復帰を果たした。

だが、米国は沖縄の施政権を祖国日本に返還したが、領土の返還ではない。

確かに、米国ドルを使用し、車は左ハンドルの右側通行なので一見米国領土になったような錯覚を覚える国民は多いし、大学進学などで祖国日本に行くときも「パスポート」が必要であったため、当事者の沖縄県民にさえ、この事実誤認に気が付かぬ人も多い。

だが、沖縄は敗戦後米軍の占領下にはあったが、一部にあった英語による学校教育の主張を跳ね除け、一貫して文部省教科書によるによる教育を全うしてきた。当時の教員たちはやがて来る祖国復帰の日に備え、文部省教科書を手分けしてガリ版謄写畿で複製し、粗末なワラ半紙の教科書を徹夜で作製し、「日本国民」の教育に没頭したた。

米ドル使用や車の左ハンドルは米軍の統治のため、また同時に沖縄に対する日本の主権を守るための方便の一つであった。

従って米国は沖縄を領土にはしなかった。 沖縄の統治は、米国高等弁務官による委任統治という形にし、主権は米国ではなくあくまで日本にあった。(潜在主権)

仮に日本が米国に沖縄の領有を認めていたら、沖縄はグアムやサイパンのように現在も米国領土で返還されないままになっていた可能性が大である。

沖縄が米国領のままであれば、「米軍基地の県外撤去」など問題にもならなかったであろう。

米軍が安全保障のため自国領土の沖縄を使用するのに何の問題もないからである。

この「米国の委任統治」についても反米左翼複合体が「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というデマの宣伝材料に利用されているが、実際は昭和天皇は「潜在主権」という秘策を使って沖縄に対する主権は守り通したのである。

これについては別の機会に詳述したい。

最後に沖縄が米軍の統治下にはあったが、主権はあくまで日本が所有してという根拠を示しておく。

手元に、筆者が米軍統治時代進学のため祖国日本に渡った時の「パスポート」があるが、正式名称は一種の身分証明書であり「日本渡航証明書」とあり、発行者は米国政府ではなく、高等弁務官である。

また日本の税関の入国ゴムスタンプには、「日本国への入国」ではなく「日本国への帰国」を証する、と記され入国審査官の署名がある。

一方沖縄帰省するときの税関の出国ゴムスタンプには「日本国からの出国」を証する、とある。

わかりにくいが、当時の沖縄人は潜在的には日本国民でありながら、長期の海外旅行をしており、学業や仕事で本土に渡るときは一時帰国していた形になっていた。

ウソのような本当の話である。

「正論」が誤解するのも、むべなるかなである。

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【お知らせ】

パンドラの箱掲載拒否訴訟五回口頭弁論のご案内 

 

 表現の自由と著作権の侵害を争点とした上原正稔氏の戦いは、第五回の口頭弁論を迎え、いよいこよこの裁判の佳境をむかえて参ります。被告側の反論は既に訂正を余儀なくされており、今回も更なる矛盾を追求する法廷となります。口頭弁論と報告会を左記の如く行いますので、参加賜りますようご案内申し上げます。

 尚、上原正稔公式サイトで検索頂ければ、裁判の経緯も順次掲載されますのでご覧下さい。

          記

 第五回口頭弁論

  日時 :一月二十四日(火) 午前十時半より

  場所: 那覇地方裁判所

 報告会

  日時: 同日      午前十一時半より

  会場 :沖縄県護国神社社務所内会議室


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