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勝負あった!集団自決論争

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人気blogランキングへ クリックお願いします   ブログセンターランキングへ。   座間味島の戦争体験者である大城澄江さん〈90歳〉の集団自決に関する重要証言が発掘された。 上告中の「集団自決訴訟」は、これで勝負が決まった。 勿論原告側〈元隊長〉の勝訴である。 勝訴といっても、最高裁では証拠や証人などの事実認定はしないと聞く。 したがって今回のように新たに決定的証言が出てきた場合、高裁に差し戻して審議のやり直しを命ずるのであろう。 長年反日左翼勢力によって捏造されてきた慶良間島集団自決の真相が遂に明らかになったのだ。 今回の大城澄江さんの新証言とは、一体どういう意味を持つものなのか。 「大城証言」はチャンネル桜で動画が放映されているので、まだ見ていない方は、とりあえず次の動画を見ていただきたい。 ⇒1/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15] ⇒2/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15] ⇒ 3/6【沖縄の真実】座間味集団自決編[桜H22/5/15] なお「大城澄江証言」については発掘者の藤岡信勝拓大教授が、雑誌『正論』7月号に「沖縄戦『集団自決』 控訴審判決の誤判を糾す」というタイトルの論文を寄稿してあるので、是非読んでいただきたい。 なお明日のエントリーで同論文の重要部分を抜粋引用して紹介する予定である。 集団自決論争にはいろんな証言者が登場し、しかも前言を翻す論者が続出するために、上記動画を見ても「大城澄江証言」の持つ意味をにわかに理解できる読者は少ないと思われる。 「大城澄江証言」は、簡単に言えば原告側にとって決定的と思われた「宮平証言」を裏付けるもの、というより、「宮平証言」が正しかったことを証明する決定的証言である。 では「宮平証言」とは何か。 同証言は、梅澤隊長が住民の自決の要請に反対し、自決のため集結した住民に解散するよう命じたというものである。 これは原告側にとっては決定的証言だと思われた。 ところが、『座間味村史』に、執筆・監修者の宮城晴美氏が、宮平貞子さん(秀幸さんの実母)の証言を歪曲・捏造して記述したため、大阪高裁では、母貞子さんの証言を真実とした。 その結果、貞子証言と真っ向から対立する「宮平証言」が、虚偽証言として退けられたのは周知の通りである。 「宮平証言」について詳しく知りたい方は、「沖縄戦『集団自決』の謎と真実地」〈秦郁彦編 PHP研究所〉で藤岡教授が詳述しているので参照して欲しい。 沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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■「宮平証言」の概略■ 昭和20年3月25日の夜、宮里盛秀助役ら座間味村のリーダーが本部壕に梅澤隊長を訪ね、忠魂碑前で待機する住民の自決用に弾薬等の支給を談判したが断られた。 この有名なシーンで生き残った人物は、当時村の職員だった宮平〈戦後結婚して宮城〉初枝さん唯一人だと思われていたが、実は当時隊長付きの伝令をしていた宮平秀幸さんが偶然その場面を目撃していたと証言したのだ。 ■「宮平証言」のポイント■ 〈1〉当時15歳の宮平少年は、3月25日の夜、本部壕前で村のリーダー達がが爆薬の支給を求めて梅澤隊長と談判している時、梅澤隊長が「自決はするな」「(自決のため)忠魂碑前に集合した住民には解散させよ」と明確に自決を否定した場面を目撃していた。 (2)これまで村のリーダーの中には名前が出てこなかった野村正次郎村長も、梅澤隊長との談判に加わっていた。 (3)本部壕で爆薬支給を拒否された村のリーダー達は忠魂碑前に戻り、野村村長は、自ら住民達に梅澤隊長の意志を伝えるべく解散命令を出した。 (4)村のリーダー達の後を追って忠魂碑前に戻った宮平少年は、そこで待機していた住民に村長が解散命令を下す後継を目撃した。 (5)宮平少年は、忠魂碑前に待機してしていた母貞子を含む宮平一家と合流し共に村長の解散命令に従って、自分の壕を目指して逃避行をした。  
これらの証言が事実だとすると、「軍と集団自決とは関係ない」という結論になる。 いや関係ないどころか梅澤隊長は村のリーダー達の自決の要請を、明確に否定しているではないか。 それでは援護金支給のため奔走する村当局や、イデオロギーのため軍命令説を主張する沖縄サヨクにとっては困ったことになるのだ。 ■宮平秀幸をしゃべらすな!■ 「援護金」の関係で「軍命令」が絶対必要な村当局としては、それでは困るので忠魂碑前の村長の解散命令は、何としても隠しておきたかった。 真実を語り続ける宮平氏への対向策として、村当局は「座間味村史」の編纂に当たり、沖縄戦体験者の体験記の取材を宮城晴美氏に依頼し、 事実の隠蔽を企むことになる。
 
つまり、早い時期から事実を叫び続ける宮平秀幸さんの証言を「虚言」にしてしまう必要があった。 そのために多くの証言者を聞き取り、それを記録した「座間味村史」には、膨大な量の村人の証言集が記録されているが、その中にこれだけの証言をしている宮平秀幸さんの証言は全く登場しない。  その代わりに「座間味村史」には、宮平秀幸さんの証言を否定する母貞子さんの証言が記載されているのだ。 母貞子さんの証言によると、その夜貞子さん一家は忠魂碑前に集合したが、その場に秀幸さんは現れておらず、秀幸さんの証言を真っ向から否定することになる。 結局「座間味村史」を編集する段階で、宮平秀幸さんの真実の証言は、村の方針にそぐわないものであるため、宮平さんはある種の危険人物として扱われることになったのだ。 そして「宮平証言」は村当局や沖縄マスコミには徹底的に無視されてきた。 そして「宮平秀幸をしゃべらすな」といった暗黙の了解が村当局と沖縄マスコミの間で成立し、聞き取り調査で島を訪れる研究者と宮平さんの接触を妨害した。  そのスパイ的役割りを果たしたのが座間味村で琉球新報の通信員をしている宮里芳和氏である。  宮里芳和氏は座間味村の集団自決を指導したといわれる宮里盛秀助役の親戚であり、本土から研究者が聞き取り調査のため島を訪問するという情報を、琉球新報や沖縄タイムスから入手するや、彼らと宮平さんとの接触を妨害する工作をしたと言われている。 また仮に宮平氏の証言が漏れ聞こえても「、嘘つき秀幸」といった、いわれない噂を流して「宮平証言」を虚言扱いにした。 宮平さんの証言は座間味村当局にとっても左翼勢力にとっても公表されたくない「不都合な真実」だったのだ。 2008年1月、藤岡信勝拓大教授が慶良間島の聞き取り調査の際、宮平さんと遭遇し「宮平証言」として産経新聞に大々的に報道されたのは周知の通りである。 宮平さんの証言で窮地に陥るのを恐れた沖縄二紙が、「宮平証言」を徹底して黙殺したのは勿論のことである。 つづく 人気blogランキングへ クリックお願いします   ブログセンターランキングへ。

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