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25年前の日の丸・君が代強制?

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今朝の沖縄タイムスに、卒業式で泣き崩れる女子高校生の写真が付いた特集記事が掲載されている。

写真には次のようなクレジットが付いている。

<「日の丸・君が代」で混乱、式場が騒然となり泣き崩れる女生徒の姿も=1986年3月1日、本部高校>

記事のタイトルはこれ。

「1986年 日の丸・君が代問題 強制された卒業式」

そして記事本文には、「本部高校は、卒業生が式をボイコットし、運動場で生徒の自主的な卒業式が行われた」とある。

これを読んだ読者は25年前の本部高校では、日の丸・君が代が強制され、女子学生が泣いてこれに反対し、自主的卒業式が行われたと印象操作をされるだろう。

だが、そのとき本部高校の教師をしていた屋嘉比勇夫さんが、卒業式ボイコットの真相について勇気ある告白をしている。

それによると「日の丸・君が代には反対せよ」と生徒たちに強制したのは、他ならぬ沖教組の教員たちだったという。

強制したのは教師側であったという事実を、沖縄2紙は決して報道しないだろう。

以下は元高校教師の告白を書いたエントリーの再掲です。

 

 琉球新報 金口木舌 2007年4月13日
 壇上の幕の中央に掲げられた日章旗が、会場内を睥睨(へいげい)しているようだ。司会が一同の起立を求め、教頭が開式を告げる。そして起立状態のまま「国歌斉唱」へ。一瞬迷った末に、腰を下ろした
▼10日、小学校の入学式に親として出席した。「国歌斉唱」で座っているのは、見る限りはほかにいなかったが、声に出して歌っている父母や教員はわずかだった
▼「日本復帰」前の一時期、わが家の門にも日の丸が翻った。学校では「標準語」の使用が奨励され、「白地に赤く 日の丸染めて」の歌や君が代も覚えた。時代の空気の中で、教育がそれを後押しした
▼ただ、戦前の皇民化教育、沖縄戦を経験しながら、県民が戦後再び日の丸を掲げたのは、米国施政権下という屈辱的で非人権的な状況からの脱却を目指したからにほかならない
▼復帰後も米軍優先の実態は変わらないが、なぜ今の時代に日の丸・君が代が推進されるのか。教育基本法が改正され、憲法改正に向けた国民投票法も成立しようとしている中で、疑念は強まるばかりだ
▼入学式は最後に「1年生になったら」の合唱で締めくくられた。緊張した中にも、期待を胸にした表情。元気な声が場内に広がった。誰が主人公かを示すように。

             ◇

このコラムの記者が国歌を否定しようが、卒業式の国歌斉唱時に起立を拒否して着席しようが勝手だが、何もわざわざ新聞のコラムで自慢げに書くべきことだろうか。

自分は公立学校の教師ではなく、一父兄に過ぎないから「思想・信条の自由」で、国歌、国旗を拒否するというのなら、それはそれで一応もっともらしい。

だが、社会の木鐸を自認する新聞が、このように明らかに偏向したコラムをごく当たり前のように書くところが、沖縄の新聞の特徴でもある。

沖縄の教師といえば、日の丸、君が代には憎悪を抱き、授業はそっちのけで「平和教育」に現を抜かす、といったイメージが強い。

だが、沖縄にも卒業式の国旗掲揚、国歌斉唱に賛意を示す先生方もおられる。 残念ながら沖縄の新聞では、国旗・国歌反対の左翼教師の記事しか報道されないので、勇気ある先生方のニュースは本土新聞に求めざるを得ない。

以下は世界日報の引用です。

                    ◇

< 「組合教師」の特権 (10)
こうして学力は低下した 沖縄編

国旗掲揚、国歌斉唱−卒業式が反対討論会に
連動し報道するマスコミ

 堂々と国旗国歌への賛成を表明し、沖教組に対抗した過去を振り返る元高校教師・屋嘉比勇夫さん 
 一九八五年、国旗国歌に関する「徹底通知」が文部省から出されることにより、沖縄の校長や教職員のほとんどは、国旗掲揚・国歌斉唱という未知の経験をすることになった。

 元高校教師の屋嘉比やかび勇夫氏は当時、沖縄本島北部にある本部高校で教鞭を執っていた。同校は沖教組の影響力が強く、国旗国歌に反対しなかったのは、本人を含めて二人だけだった。

 屋嘉比氏は八六年三月一日の卒業式の様子をこう振り返る。

 「卒業式では、まず生徒会顧問が『主役は卒業生なのか、国歌なのか』と叫んだ。すると開会宣言で、ある卒業生が立ち上がり、『ちょっと待ってくれ。国旗を掲揚するのをやめてくれ』と迫った。生徒らは拍手し盛り上がった。生徒に指名された教師が登壇し、『侵略戦争のシンボルを持ち込むのは理不尽だ』と言いだした」

 この模様は地元紙や全県のテレビで報じられた。「開式直後、生徒が日の丸問題を議論することを提案し、卒業式は一転して討論会に変わってしまった。日の丸撤去要求を学校側が拒否すると、生徒たちは式をボイコット。生徒は運動場で勝手に卒業式を行う一方、校長は誰もいない式場で卒業証書を読み上げるという異例の事態になった」(「沖縄タイムス」八六年三月二日付)

 なぜ、北部の辺鄙へんぴな地にある高校の卒業式に、多くのメディアがあらかじめ詰め掛け、報道できたのか。

元自民党沖縄県連会長の西田健次郎氏によると、「国旗国歌をめぐる卒業式の混乱は想定されていた」。騒動を全国発信したい同高校が、マスコミに情報を事前に流したという。

 翌年十月の特別平和集会で、同校の生徒が「僕らは昨年の卒業式で『日の丸反対』と言って混乱させたけど、あれは正しかったのか」と訴えた。

 三十四年間高校教師を務めた屋嘉比氏は、「生徒たちの行動は、理性的なものというより雰囲気に支配されていた。まるで洗脳されていたかのように」と振り返った。

 反国旗国歌運動は、この年も続いた。八七年三月、今度は本島中部の読谷高校の卒業式で、女子生徒が国旗を引きずり下ろす事件が起きた。

 西田氏は、「その高校の卒業生十数人が大手ホテルの就職を断られた」と言う。国旗国歌への反対騒動が原因だったことが後に明らかになった。

 沖教組の政治的扇動によって動いた女子生徒の行動のあおりで、多くの生徒たちが将来の夢を奪われてしまったのだ。

 読谷村では同年、国体のソフトボール開始式で、ある男性が国旗を引き下ろし、焼き捨てる事件が起きている。同卒業式を模倣しての行動だ。

 沖縄の教員には琉球大学出身者が多い。七〇年安保闘争の時代に同大学で教育を受けた人たちの多くは、現在、校長や教頭などの管理職に就いている。だが、「その校長や教頭の多くは、かつて確たる信念もなく国旗国歌に激しく反対していた」と厳しく批判する県民も少なくない。

 それが、今では学校の管理者として国旗掲揚、国歌斉唱を指導しようとしている。だが、それは自己矛盾であり説得力を持たないため、現場での沖教組による抵抗は、そう簡単に収拾されない状況が続いている。 (豊田 剛) >


                     ◇
 
上記記事で、堂々と国旗国歌への賛成を表明し、沖教組に対抗した元高校教師・屋嘉比勇夫さんが、その体験記を『南島志報』(平成21年8月1日号)に、寄稿しておられるので、全文紹介したい。
 
沖教組に牛耳られた学校内部の雰囲気が描かれており興味深い。
 
自主卒業式体験記 元高校教師 屋嘉比勇夫

私が本島北部の本部高校に単身赴任したのは、昭和60(1985)である。 1学年4クラス、生徒数450名の、開校して18年目の小規模校であった。
赴任早々、就任式や入学式の進行を生徒が担当していたことに驚かされた。 全くの学校行事を、生徒中心に運営させようとする教師集団の意思を反映しているように思われた。
また、職員室の出入り口の扉に、社会党代議士のポスターが掲示されていることにも驚かされた。 生徒中心の、そして政治運動と教育活動が渾然一体化した学校、というのが私の第一印象であった。
ところで、当時の高教組(沖縄県高等学校教職員組合)は、共産党系と社会党系が主導権を争っていたが北部地域は社会党系の組員が多数を占めており、その団結力も強かった。 既に復帰の翌年(昭和48年)に教職員組合を脱退していた私は、組合活動とは無縁の存在で、黙々と自己の職務に専念していた。
ところが、教育庁による「式典における国旗掲揚」の通達をきっかけに私もその騒動に巻き込まれることになる。
この通達以後、何度も職員会議が開かれたが、管理職(校長、教頭)と組合員の対立の溝は埋めようがなかった。 ついに何度目かの会議で国旗掲揚の是非が挙手での採決に持ち込まれた。 その結果掲揚に賛成したのは、職員では30人中、私を含む2人だけであった。 これを機に、組合員の拒否闘争はより強固なものとなっていく。 殆どの職員は、胸に「日の丸強制反対」のリボンを付け、またある職員は生徒たちにこのように呼びかけた。 「卒業式の主役はあなた達か、それとも日の丸か。」
式典が近づくにつれて日の丸拒否闘争は激しさを増し、組合側は職員会議の採決の結果を尊重して国旗掲揚を断念するように校長に迫る。 それを拒む校長。 式典当日は、国旗を持ち込ませまいとして、体育館内で寝泊りする職員までいる。 このように、管理職と組合員の両者は対立したまま当日を迎えた。
国旗は壇上の片隅に目立たぬように三脚に立てられている。 進行係は、やはり生徒である。 その係りの生徒が開会を宣言する直前、卒業生二人が進み出てきて進行係のマイクを握り、突然大阪地裁の判決文を読み上げ、国旗の式場への持込に反対の弁明をした。 すると卒業生、在校生から歓声が上がり、大きな拍手が起きた。  その後、この二人の卒業生はある女教師を指名し、意見を述べるよう求めた。 指名された教師が「侵略のシンボルである日の丸の掲揚は反対だ」と訴えると、生徒の歓声・拍手と保護者席からの野次で式場は騒然となり、生徒たちのあるものは怒声を発し、ある者は腰掛を蹴飛ばして式場を出て行った。 式場に残ったのは、呆然とした表情の父母と何名かの職員である。 進行を担当するはずの生徒は、ショックを受けて泣いている。 
私の目には、例の女教師を先頭にグラウンドに向かう生徒集団が見えた。 生徒たちは当の先生の肩を叩いている。 私には、慰め励ましているように思われた。 一方、生徒不在の式場では、校長が卒業許可書を読み上げ、後味の悪さを残したまま「式場での卒業式」は終わった。
その後、グラウンドでは、卒業生一人ひとりに担任が式台で卒業証書を授与すえう「自主卒業式」が行われた。  その様子は、県内二紙で大きくかつ詳細に報道され、多くの人の知ることとなった。 それにしても県立学校が60校ある中で、新聞記者がなぜ本部高校に取材に来ていたのだろうか。 今なお私には理解し難い。
当時私は2学年の学級担任をしながら、国語の授業を担当していた。 授業の中で、私は国旗掲揚問題について一言も発しなかった。 学校全体が張り詰めた雰囲気にある中で、この問題についての私見を述べることによって、反発する生徒が出てくることが懸念されたからである。 そうなれば正常な学級運営ができなくなり、とても授業どころではなくなってしまう。 私は静かな環境の中で授業を続けたかったし、またそれを望む生徒もいると確信していた。 
学校には朝のホームルームというものがある。 生徒の出欠を確認したり、当日の学校の予定や計画などを伝達したりするための時間である。
卒業式の翌々日(3月3日月曜日)、例の如く朝のホームルームを行うために入室すると、普段ならざわついている教室が静まり返っている。 黒板を見ると後述するように私を非難する言葉が大書されている。 おそらく担任の姿勢や指導法に批判的な者が書いたものであろう。 私は板書を無視したまま点呼をとり必要なことを伝達し、教室を出た。
ところで、当時の本部高校では、生徒が卒業や終了に際して、記念文集を作るのが慣例になっていた。 私が担当するクラスも終了文集を作ることになり、学級担任も一文したためることになった。 私は担任としての1年を振り返った後に、卒業式の件にも触れ、自分の考えを訴えかけた。 以下はその一部である。

《ところで、例の卒業式。 新聞には「自主的な卒業式を行った」とあるが、果たしてそうであろうか。 諸君は「自主的に」体育館での式典をボイコットしたのであろうか。 本当に自分の頭と心で日の丸掲揚に反対したのであろうか。 あの3年生の配ったビラの内容を良く考えた上で、行動したのであろうか。 事件があって判決が出るものであるが、あの判決はどのような事件に対するものであったのか、それを考えた者はいるまい。 読み上げていた当人でさえ、どういう事件なのか分からないのだから。
「日の丸押し付け反対ーだが教師の中には賛成の者もいるーエー信じられないーーーあの人ならやっぱりね」
こんな一文が3月3日の朝、黒板に書かれていた。 おそらく「日の丸押し付け反対」のリボンを付けていなかった私に対するあてつけであろう。 
私はここで、日の丸が国旗であるか否か、あるいは式場での国旗掲揚が是か非かを論じようとしているのではない。 主体性について、自主的な行動の中身について述べているのである。 前記の板書をした人は、おそらくグラウンドでの卒業式に参加したであろうが、自主的な行動を取るということは、自分の意見と対立する考え方を否定することではない。 
現にボイコットする明確な理由が自分にはない、という判断から、グラウンドに行かずに自主的に帰宅したものもいる。 私は、不和雷同、烏合の衆となって「自主的」という美名のもとに参加した生徒よりも、自己の良心に従って参加しなかった生徒を評価する。 「思いて学ばざれば、即ち、殆し(あやふし)」という言葉がある。 「己の乏しい知識で思いめぐらすだけで、広く他人の言や教えを学ぶことをしないと、考えが狭く、一方に偏って、その行動は危険この上もない。」という意味である。 行動すること自体が正しいのではない。 正しい判断力に基づいて行動することが大切だと思う。 そのためには、さまざまな人の意見や考えにも耳を傾け、学び取る謙虚さが必要なのではあるまいか.(1986年3月)》

あの当時、式典で国旗掲揚に反対した同僚の中には、今管理職になっている者もいる。 また当時の生徒たちは今40歳前後の社会人で、その中には教育に携わっている人もいる。 この方たちは、あの23年前の「自主卒業式」をどう評価し、そして今、どのような思いで卒業式を迎えているのだろうか。(完)

本日の沖縄タイムスが報じる、25年前の本部高校の卒業式の日の丸・君が代強制は事件は、実は教師側が生徒に「反対せよ」と強制した「逆強制」であった。

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