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沖縄戦に関連する記事で、沖縄紙が明らかなウソを流し続ける例を、過去記事に加筆して紹介する。
「ウソも繰り返せば真実になる」とはよく言われることだが、本来そのウソを正すべき立場の新聞が、実はそのウソの発信源であるという例は枚挙に暇がない。
周知の通り、集団自決に絡む沖縄の新聞報道でも、自分のイデオロギーを押し通す為に確信犯的に誤報を流し続けた例は数多い。
沖縄紙が「平和」、「連帯」、「差別」といった枕詞の付く運動に敏感に反応し、検証もなく誤報を垂れ流すことはよく知られたこと。
糸満市の真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、左翼集団と連帯したアイヌの団体によって、あたかもアイヌによって建立された「アイヌ人の戦士」を祭る塔であるかのようなウソの報道が一人歩きを始めている。
沖縄にある慰霊塔は南部に集中しているが糸満市真栄平にある「南北の塔」について、そのいわれを知るものは県民はおろか糸満市民でさえ少ないといわれる。(筆者自身も最近まで知らなかった)
「南北の塔」の建立者である真栄平地区の関係者に取材することもなく、確信犯的に「アイヌの塔」の印象操作をする琉球新報、沖縄タイムスの恥知らずな記事がこれ。
平和へアイヌの祈り 南北の塔、戦争犠牲者弔う 糸満市 琉球新報2006年5月18日
沖縄戦で犠牲になった人々を供養する参列者=糸満市真栄平の南北の塔
【糸満】アイヌ民族の先祖供養祭「イチャルパ」が14日、糸満市真栄平の南北の塔で行われ、アイヌ民族を含む沖縄戦で犠牲になった人々を弔った。川村アイヌ民族記念館長の川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんが主宰。アイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや共同代表)のメンバー、真栄平区民ら約70人が参列して祈りをささげた。
アイヌの衣装を着た川村さんらが火を取り囲み、酒をささげた。続いて参列者らは果物などを供え、同じように酒をささげ儀式を行った。
儀式を終えた川村さんは「沖縄戦で亡くなった北海道の人の名簿を見たが、名字だけでアイヌと分かる人はたくさんいて、もっとしっかり調べなければならない。平和を願うこの儀式をこれからも続けていきたい」と話した。
南北の塔は1966年、真栄平区民とアイヌ民族の再会の中で建立され、南北の戦争犠牲者を追悼するという意味から「南北の塔」と名付けられた。
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼(沖縄タイムス) 2008年5月18日(日) 朝刊 22面
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼
【糸満】沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。
まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。
川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。
南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている。
◇ アイヌ人と沖縄人は毛深いとか、顔の造作が濃いとかで共通点があり、そして独特の文化を持っているということで連帯したイベントが、沖縄でも行われていることは筆者も承知していた。 だが、それが左翼勢力に結びついてウソを垂れ流しているとは知らなかった。 アイヌ人と沖縄人が人類学的にどのような関係にあるのかは、本稿の主旨ではないのでここでは触れないが、違う民族との「連帯」が左翼勢力と結びつくと、結局「反日」運動に繋がるのは「恨之塔」建立の場合と同じである。 人類学的(遺伝学的)興味のある方は⇒http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071105/acd0711050810001-n1.htm 【試行私考 日本人解剖】 次の引用文は左翼社会科教師の集団である「北海道歴史教育者協議会」の教師の文である。 書き換えられた碑文に思う〜沖縄 南北の塔 〜 沖縄 南北の塔
札幌市立石山中学校 平井 敦子
☆南北の塔
沖縄県南部戦跡。有名な摩文仁の丘から、少し離れたところに真栄平という集落がある。180戸900人の住民が、沖縄戦でわずか349人になってしまったという激戦の地だ。バス停を降り、緩い傾斜地の畑の間を登り気味に5分ほど歩くと雑木林の中に「南北の塔」はある。官立ではなく、住民ら有志によって建てられた慰霊碑だ。戦後、地域に散乱していた遺骨を集めて納めた大きな納骨堂。そのうえに小さめの墓のような形の碑石がのせられ、「南北の塔」と刻まれている。ふと碑の右側面をみると「キムンウタリ」と朱文字が彫り込まれている。
キムン、アイヌ語で「山」。ウタリ、「仲間」という意味だ。「山部隊」と称される日本軍の部隊にアイヌ出身兵が含まれていた。この部隊の兵士たちも、真栄平の住民とともに多く犠牲になっている。
戦時中住民と交流のあったアイヌ兵のひとり、弟子さんがこの住民有志による慰霊碑建立の話を聞き、アイヌの仲間たちに募金を訴え、碑石の費用の一部として寄付したという経緯がある。この「南北の塔」にまつわる話は、草の根出版会「母と子でみる 沖縄戦とアイヌ兵士」(橋本進編)に詳しい。
☆南北の塔再訪
2001年の夏、私は13年ぶりに「南北の塔」を訪れた。友人にぜひ見せたくて案内をしたのだ。久しぶりに訪れたその場所は、碑の周囲が整備され、壕のあたりの戦争の残存物も目立たなくなっていた。
「あれ、おかしいな。無い…。」
私の記憶に鮮明に残っている碑の解説板が見あたらない。友人に碑の由来を話しながら、少し焦り気味に私はその解説板をさがした。「たしかにあったんだよ、そこにアイヌのことも書いてあるんだ…」と言いながら。しかし思いこみとは怖いもので、“木製”と思っているからみつけられなかったのだ。
「あった!そっか新しくしたんだ。」
そう、粗末な木製解説板は、それは見事な石碑文になって、しっかりあった。安堵して私たちは碑文を読み始めた。ところが、最後まで読み通しても“アイヌ”という文字がどこにも無いのである。私の記憶違いか?前回の解説文にはあったはずなんだ。そうじゃなければ、「南北の塔」という名の由来も、そこに刻まれている「キムンウタリ」の意味も来訪者には何がなんだかわからないじゃないか。焦る私に友人が言う。「書き換えられたんじゃない?」
疑問を残したまま、私たちは真栄平をあとにした。札幌に戻ってからさっそく私は前回訪れた時のアルバムをめくってみた。
「間違いない」
写真には、くっきりと“アイヌ”の文字が見える。新しく石碑に作り替えるときに意図的に消された、そうとしか思えない。でもなぜ?
今でも、南北の塔にはウタリ協会からアイヌの人々が訪れイチャルパ(供養祭)が開かれている。その主催団体、アイヌ民族と連帯する沖縄の会の人に電話で聞いてみた。碑文が変わったことは知らなかったという。ただ、数年前、イチャルパをしているところに数人の住民がチラシをまきにきて「歴史をねじまげるな」「アイヌの墓ではない」というような批判めいた内容だったという。確かに、この碑はあの沖縄戦で散乱した地域住民の納骨場であって、アイヌ民族のための墓などではない。しかし、この地で南北の民族が共に戦争の犠牲となったという思いが響きあってこの碑があることには違いない。
少なくとも、碑を訪れた人の拠りどころは碑文と塔の文字しかないのだ。このままでは「キムンウタリ」の意味はなぞのまま埋もれてしまう。
*木製板は昭和62年6月、石碑は平成元年3月。私が見た木製板はわずか1年7ヶ月の仮設板だったらしい。あくまでも「仮」であればなおさら、そこにあったアイヌの文字を正式には消したことの意味を考えたい、と思う。(北海道歴史教育者協議会)
◇ 筆者の平井敦子先生?は「南北の塔」建立の経緯はある程度知っているようだが、以前に来たときにあったアイヌの文字が消えているのをみて北海道民として不快感を味わったのではないかと推察される。 碑文を書き直した理由は、戦後真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、改築の際寄付をした一人のアイヌ人弟子(てし)さんの話だけがクローズアップされ、これに左翼集団が飛びついて毎年塔の前でアイヌ民族衣装を着たアイヌ人たちと連帯し「平和活動」を展開し、これを地元新聞が大々的に報じるので、県民でさえ「南北の塔はアイヌ人によって建立されたアイヌ人の慰霊塔」であるといった誤解が一人歩きをはじめ糸満市議会でも問題になったからだという。 ⇒糸満市議会喜納 正治 議員 では、糸満市が言う「南北の塔建立の」の実相はどうなっているのか。糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記録」(平成8年3月23日発行)によるとこうなっている。 ≪『南北の塔』は泣いている ー戦争の落とし子である私はいったいだれなのかー 糸満市真栄平南北の塔を考える会 塔は真栄平区民の意思で建立 先月、ある用件で糸満市役所に行った時、「この前北海道の塔でアイヌの祭りがありましたね。」 Aさんの挨拶である。 やっぱりそうだったのか。 糸満市職員でも南北の塔はアイヌの塔になっているのだ。 テレビ、ラジオ、新聞等のマスコミや図書の威力を改めてみせつけられた思いである。 南北の塔が真栄平区民の意思によって建立された塔であると知っているのは真栄平区民だけになった。 昭和21年、収容所から帰ってきて最初にやった仕事は遺骨収拾であった。それから毎年のように遺骨集めをして、これまで塔も何回か改築し、場所も二転三転したと思う。 昭和41年の改築には県との協力で、立派に作ることになり、区民常会を何回も開いて計画的にすすめた。さらに他県の遺族の方々からのご奉仕(ご寄付)もあった。 その中の一人が北海道出身の元アイヌ兵士T氏である。≫ では、「南北の塔」は一般的にどのように紹介されているのか。 ≪南北の塔は、糸満市舞栄平(まえひら)部落の裏側に建立された納骨堂である。戦後、元アイヌ兵の弟子豊治氏らが住民と協力してこの一帯から四五〇〇体を収骨して納めた。≫ ≪「南北の塔」建立(昭和41年 1966年)
かつて沖縄戦を戦った兵士であった、アイヌ民芸使節団の弟子豊治が沖縄に訪問。弟子豊治の戦った場所であった真栄平の地域住民と共に、アイヌの兵士、沖縄の人々など、あの戦いで亡くなった全ての人々を祭る慰霊碑を建立。北から南まで、多くの人々がここに眠ることから「南北の塔」と名付けた。碑の側面には「キムンウタリ」の銘も刻まれている。蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)≫ ◇ 「南北の塔」建立の実相を知るものは今では、糸満市民はおろか糸満市職員でもいない。 勿論北海道のアイヌ側も関わったとされるTが亡くなってしまって事実を知るものはいない。彼らは「真栄平地区の住民たちがアイヌの塔を善意で管理している」と本気で信じているようだ。 アイヌ人と沖縄人が共に慰霊の塔の前で慰霊行事を行うことに異論を唱えるものはいないだろうが、マスコミによって事実が歪められ、左翼運動に利用されるとなると真栄平区民でなくとも異論を唱えたくもなる。 沖縄の新聞は、真実を明らかにすべきだと思うのだが、それをすると、例年「アイヌの塔」の前で行われる「反戦平和イベント」に水をさすことになるので、あえてそんなことはしないだろう。
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アイヌの衣装を着た川村さんらが火を取り囲み、酒をささげた。続いて参列者らは果物などを供え、同じように酒をささげ儀式を行った。
儀式を終えた川村さんは「沖縄戦で亡くなった北海道の人の名簿を見たが、名字だけでアイヌと分かる人はたくさんいて、もっとしっかり調べなければならない。平和を願うこの儀式をこれからも続けていきたい」と話した。
南北の塔は1966年、真栄平区民とアイヌ民族の再会の中で建立され、南北の戦争犠牲者を追悼するという意味から「南北の塔」と名付けられた。
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼(沖縄タイムス) 2008年5月18日(日) 朝刊 22面
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼
【糸満】沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。
まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。
川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。
南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている。
◇ アイヌ人と沖縄人は毛深いとか、顔の造作が濃いとかで共通点があり、そして独特の文化を持っているということで連帯したイベントが、沖縄でも行われていることは筆者も承知していた。 だが、それが左翼勢力に結びついてウソを垂れ流しているとは知らなかった。 アイヌ人と沖縄人が人類学的にどのような関係にあるのかは、本稿の主旨ではないのでここでは触れないが、違う民族との「連帯」が左翼勢力と結びつくと、結局「反日」運動に繋がるのは「恨之塔」建立の場合と同じである。 人類学的(遺伝学的)興味のある方は⇒http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071105/acd0711050810001-n1.htm 【試行私考 日本人解剖】 次の引用文は左翼社会科教師の集団である「北海道歴史教育者協議会」の教師の文である。 書き換えられた碑文に思う〜沖縄 南北の塔 〜 沖縄 南北の塔
札幌市立石山中学校 平井 敦子
☆南北の塔
沖縄県南部戦跡。有名な摩文仁の丘から、少し離れたところに真栄平という集落がある。180戸900人の住民が、沖縄戦でわずか349人になってしまったという激戦の地だ。バス停を降り、緩い傾斜地の畑の間を登り気味に5分ほど歩くと雑木林の中に「南北の塔」はある。官立ではなく、住民ら有志によって建てられた慰霊碑だ。戦後、地域に散乱していた遺骨を集めて納めた大きな納骨堂。そのうえに小さめの墓のような形の碑石がのせられ、「南北の塔」と刻まれている。ふと碑の右側面をみると「キムンウタリ」と朱文字が彫り込まれている。
キムン、アイヌ語で「山」。ウタリ、「仲間」という意味だ。「山部隊」と称される日本軍の部隊にアイヌ出身兵が含まれていた。この部隊の兵士たちも、真栄平の住民とともに多く犠牲になっている。
戦時中住民と交流のあったアイヌ兵のひとり、弟子さんがこの住民有志による慰霊碑建立の話を聞き、アイヌの仲間たちに募金を訴え、碑石の費用の一部として寄付したという経緯がある。この「南北の塔」にまつわる話は、草の根出版会「母と子でみる 沖縄戦とアイヌ兵士」(橋本進編)に詳しい。
☆南北の塔再訪
2001年の夏、私は13年ぶりに「南北の塔」を訪れた。友人にぜひ見せたくて案内をしたのだ。久しぶりに訪れたその場所は、碑の周囲が整備され、壕のあたりの戦争の残存物も目立たなくなっていた。
「あれ、おかしいな。無い…。」
私の記憶に鮮明に残っている碑の解説板が見あたらない。友人に碑の由来を話しながら、少し焦り気味に私はその解説板をさがした。「たしかにあったんだよ、そこにアイヌのことも書いてあるんだ…」と言いながら。しかし思いこみとは怖いもので、“木製”と思っているからみつけられなかったのだ。
「あった!そっか新しくしたんだ。」
そう、粗末な木製解説板は、それは見事な石碑文になって、しっかりあった。安堵して私たちは碑文を読み始めた。ところが、最後まで読み通しても“アイヌ”という文字がどこにも無いのである。私の記憶違いか?前回の解説文にはあったはずなんだ。そうじゃなければ、「南北の塔」という名の由来も、そこに刻まれている「キムンウタリ」の意味も来訪者には何がなんだかわからないじゃないか。焦る私に友人が言う。「書き換えられたんじゃない?」
疑問を残したまま、私たちは真栄平をあとにした。札幌に戻ってからさっそく私は前回訪れた時のアルバムをめくってみた。
「間違いない」
写真には、くっきりと“アイヌ”の文字が見える。新しく石碑に作り替えるときに意図的に消された、そうとしか思えない。でもなぜ?
今でも、南北の塔にはウタリ協会からアイヌの人々が訪れイチャルパ(供養祭)が開かれている。その主催団体、アイヌ民族と連帯する沖縄の会の人に電話で聞いてみた。碑文が変わったことは知らなかったという。ただ、数年前、イチャルパをしているところに数人の住民がチラシをまきにきて「歴史をねじまげるな」「アイヌの墓ではない」というような批判めいた内容だったという。確かに、この碑はあの沖縄戦で散乱した地域住民の納骨場であって、アイヌ民族のための墓などではない。しかし、この地で南北の民族が共に戦争の犠牲となったという思いが響きあってこの碑があることには違いない。
少なくとも、碑を訪れた人の拠りどころは碑文と塔の文字しかないのだ。このままでは「キムンウタリ」の意味はなぞのまま埋もれてしまう。
*木製板は昭和62年6月、石碑は平成元年3月。私が見た木製板はわずか1年7ヶ月の仮設板だったらしい。あくまでも「仮」であればなおさら、そこにあったアイヌの文字を正式には消したことの意味を考えたい、と思う。(北海道歴史教育者協議会)
◇ 筆者の平井敦子先生?は「南北の塔」建立の経緯はある程度知っているようだが、以前に来たときにあったアイヌの文字が消えているのをみて北海道民として不快感を味わったのではないかと推察される。 碑文を書き直した理由は、戦後真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、改築の際寄付をした一人のアイヌ人弟子(てし)さんの話だけがクローズアップされ、これに左翼集団が飛びついて毎年塔の前でアイヌ民族衣装を着たアイヌ人たちと連帯し「平和活動」を展開し、これを地元新聞が大々的に報じるので、県民でさえ「南北の塔はアイヌ人によって建立されたアイヌ人の慰霊塔」であるといった誤解が一人歩きをはじめ糸満市議会でも問題になったからだという。 ⇒糸満市議会喜納 正治 議員 では、糸満市が言う「南北の塔建立の」の実相はどうなっているのか。糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記録」(平成8年3月23日発行)によるとこうなっている。 ≪『南北の塔』は泣いている ー戦争の落とし子である私はいったいだれなのかー 糸満市真栄平南北の塔を考える会 塔は真栄平区民の意思で建立 先月、ある用件で糸満市役所に行った時、「この前北海道の塔でアイヌの祭りがありましたね。」 Aさんの挨拶である。 やっぱりそうだったのか。 糸満市職員でも南北の塔はアイヌの塔になっているのだ。 テレビ、ラジオ、新聞等のマスコミや図書の威力を改めてみせつけられた思いである。 南北の塔が真栄平区民の意思によって建立された塔であると知っているのは真栄平区民だけになった。 昭和21年、収容所から帰ってきて最初にやった仕事は遺骨収拾であった。それから毎年のように遺骨集めをして、これまで塔も何回か改築し、場所も二転三転したと思う。 昭和41年の改築には県との協力で、立派に作ることになり、区民常会を何回も開いて計画的にすすめた。さらに他県の遺族の方々からのご奉仕(ご寄付)もあった。 その中の一人が北海道出身の元アイヌ兵士T氏である。≫ では、「南北の塔」は一般的にどのように紹介されているのか。 ≪南北の塔は、糸満市舞栄平(まえひら)部落の裏側に建立された納骨堂である。戦後、元アイヌ兵の弟子豊治氏らが住民と協力してこの一帯から四五〇〇体を収骨して納めた。≫ ≪「南北の塔」建立(昭和41年 1966年)
かつて沖縄戦を戦った兵士であった、アイヌ民芸使節団の弟子豊治が沖縄に訪問。弟子豊治の戦った場所であった真栄平の地域住民と共に、アイヌの兵士、沖縄の人々など、あの戦いで亡くなった全ての人々を祭る慰霊碑を建立。北から南まで、多くの人々がここに眠ることから「南北の塔」と名付けた。碑の側面には「キムンウタリ」の銘も刻まれている。蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)≫ ◇ 「南北の塔」建立の実相を知るものは今では、糸満市民はおろか糸満市職員でもいない。 勿論北海道のアイヌ側も関わったとされるTが亡くなってしまって事実を知るものはいない。彼らは「真栄平地区の住民たちがアイヌの塔を善意で管理している」と本気で信じているようだ。 アイヌ人と沖縄人が共に慰霊の塔の前で慰霊行事を行うことに異論を唱えるものはいないだろうが、マスコミによって事実が歪められ、左翼運動に利用されるとなると真栄平区民でなくとも異論を唱えたくもなる。 沖縄の新聞は、真実を明らかにすべきだと思うのだが、それをすると、例年「アイヌの塔」の前で行われる「反戦平和イベント」に水をさすことになるので、あえてそんなことはしないだろう。
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