沖縄県は9日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設をめぐり、埋め立て承認撤回に向けた手続きとして、防衛省沖縄防衛局から弁明を聞く「聴聞」を終えた。8日に死去した翁長雄志知事の意向に沿って、職務代理の副知事が実際に撤回を決定するかが当面の焦点だ。
聴聞は県庁で午後2時から約2時間半行われた。防衛局側は撤回に反対し、聴聞の継続を求めたが、県側はこの日で打ち切る考えを伝えた。
県が撤回を決めると承認が無効となり、政府が17日に予定する埋め立て海域への土砂投入は延期せざるを得なくなる。県は撤回決定について、職務代理の副知事でも可能との立場で、近く判断する。
県内移設への反対を訴え続けた翁長氏は先月27日の記者会見で、仲井真弘多前知事による埋め立て承認を撤回する手続きに入ると表明。謝花喜一郎副知事と最後に面会した4日に「撤回は自分でしっかりやりたい」との決意を伝えていたという。(2018/08/09-17:30)
2018.8.9 14:58更新
【普天間移設】辺野古埋め立て撤回へ聴取 県側、審理を即日打ち切り 米軍普天間飛行場の移設工事が続く沖縄県名護市辺野古の沿岸部(小型無人機から)
沖縄県は9日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設にからむ埋め立て承認の撤回に向け、防衛省の意見を聞き取る「聴聞」を県庁で行った。防衛省側は十分な反論の機会が得られていないとして2回目の聴聞を求めたが、聴聞を主宰する県行政管理課長が「審理は尽くされた」として打ち切った。政府は17日に土砂投入を行う計画で、県は近く撤回に踏み切る見通しだ。
聴聞には中嶋浩一郎・沖縄防衛局長ら、県側からは池田竹州(たけくに)知事公室長らが出席。当初の予定を30分超えて約2時間半行われた。
この中で、中嶋氏は聴聞までの準備期間が短く、「到底納得できるものではない」と主張。撤回の理由として県側が示した内容に具体性、明確性が欠けているものが多く、質問に対して県側から満足いく回答がなかったことから改めて聴聞の機会を設けるよう県側に求めた。
県側は7月31日に沖縄防衛局に対して行った通知で、撤回の根拠について、不十分な環境保全対策や、護岸設置場所の地盤も軟弱なことなどを挙げた。
菅義偉官房長官も記者会見で、辺野古移設に関し「安全保障環境が厳しさを増す中、日米同盟の抑止力や普天間飛行場の危険除去を考えたときに、唯一の解決策であることに変わりない」と述べた。
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>謝花喜一郎副知事と最後に面会した4日に「撤回は自分でしっかりやりたい」との決意を伝えていたという
翁長知事は「撤回」について「自分の責任で実行する」と繰り返している。
ここで翁長知事が残した「自分の責任で撤回する」という文言が問題になる。
謝花副知事は知事の代理権限を有しているが、これはあくまでも県知事が法治裁量で実行した案件に限られる。 翁長知事が法治裁量を逸脱して実行した「恣意的裁量」まで行う権限が有るとは思えない。
となると、謝花副知事が、土木建築部が困難視した「撤回」を、翁長知事の恣意的判断にしたがって、「撤回」に踏み切るとは考えにくい。
国は「撤回により生じた工事の遅れで生じた損害賠償金を知事個人にも請求する」と何度も公言している
だが、ここで謝花副知事が「撤回はしない」と発言したら、その瞬間「志半ばで国に望みを絶たれた悲劇の知事」というゴールドカードが木っ端微塵に粉砕する。
きょうの沖タイは、聴聞終了により撤回の道筋は決まったとして「社説」などで、撤回を迫っている。
謝花副知事は、進退窮まって思案投げ首という現状である。
謝花副知事がまともな行政マンなら、土木建築課が難色を示した「撤回」に踏み切ることは無い。
事前の策として「撤回」の実施時期はなるべく曖昧にして、(可能なら)自分は知事候補を辞退し、新たな知事候補の「公約」に委ねるのではないか。
【おまけ】
死者に鞭打つようなことは控えようといった呼びかけをよく目にします。
しかし、節度ある批判は死者に鞭打つことにはならないと思います。
まして、死者を政治利用しようとする動きが早くも始まっているというのに、これを黙って見過ごすわけには行かないのです。
以下、沖縄タイムスより引用します。
翁長知事死去:「大きな痛手、無念」 辺野古反対の支柱失う
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/gallery/296088?ph=1
沖縄県の翁長雄志知事が8日午後、亡くなった。「辺野古に新基地を造らせない」と公約を掲げ、世論を背景に保革を超え構築された「オール沖縄」の象徴だった。がんを患っても、信念は揺るがなかった知事は4日に病室で面会した県幹部に、辺野古沿岸の埋め立て承認の撤回について「自分でしっかりやりたい」と意欲を示していたという。突然の訃報に、新基地建設を巡り土砂投入が迫る現場や、11日に予定している県民大会、県民投票などに関わってきた関係者は大きなショックを受けていた。
<辺野古新基地反対の県民大会で演説する翁長雄志知事(2015年5月17日)>
那覇市の奥武山陸上競技場で11日に開かれる県民大会には、翁長知事も出席する予定だった。主催するオール沖縄会議の高良鉄美共同代表は「大きなショックで言葉が見つからない。沖縄の市民運動の屋台骨を失った」と絶句した。
翁長知事は再入院する3日前の7月27日、新基地建設阻止に向け、「美しい辺野古を埋め立てる理由はない」と埋め立て承認の「撤回」を表明したばかりだった。その姿を思いながら「県民にとって大きな痛手。支えるべき人がいなくなった。支えが消えた」とがくぜんとし、「辺野古の工事強行に殺された感じがする」と話した。
「県民大会は追悼大会になるかもしれない」と高良共同代表。「悲しいし残念だし無念。それでも知事から託されたと思い、気持ちを奮い立たせるしかない」と声を詰まらせた。
「『辺野古』県民投票の会」の元山仁士郎代表は、翁長知事死去の一報を聞き「信じられない」と言葉を失った。午後4時半ごろ、ツイッターで知事が意識混濁状態であることを知り、「回復を待とうという気持ち」だった。
同会は、新基地建設の賛否を問う県民投票の実現に向けて約10万1千筆の署名を集めた。「知事に直接、請求書を手渡したかった」と悔しさをにじませた。
翁長知事と初めて言葉を交わしたのは2年前。当時所属していた学生団体「SEALDs(シールズ)」で翁長知事と意見交換したいと考え「話をしてほしい」と直談判。翁長知事からは「いつでも行くから声掛けてね」と温かい言葉を掛けられた。「結局その場は設けられなかった。選挙のこと、ウチナーグチのこと、いろんな話を聞いてみたかった」と語った。
沖縄平和運動センターの山城博治議長は、知事死去の一報に、しばらく絶句。「回復して県民の前に立つ翁長さんの姿を思い浮かべていた。残念でならない」と声を震わせた。
思い返すのは「沖縄が自ら基地を提供したことはない」「必ず撤回する」と政府と対峙(たいじ)する姿。「もう一回元気な顔を見せて、群衆が沸き立つような言葉を投げてほしい。お別れの言葉はつらい」と繰り返した。「沖縄の誇りと勇気を持って立ち向かってほしいというメッセージを伝えたかったはず。思いを引き継ぎ、未来を開くため、努力を重ねていきたい」と決意を新たにした。
オール沖縄代表、元SEALDs、山城博治。
インタビューする相手も香ばしい連中ばかりです。
そもそもガン闘病中の翁長知事の激ヤセぶりを見れば、多忙な公務をこなすのは無理があったのです。
もっと前から治療に専念していれば、まだ長生きできた可能性もあったはずです。
それを次期の知事選挙に影響するからと、翁長知事に公務を続けさせたのは、パヨクの連中だったのではないですか?
この記事には、情勢が不利だった知事選挙を「弔い合戦」にすり替えて、有利に運ぼうとする意図が透けて見えます。
人の死まで利用し、日本人の情に訴える卑劣極まりないやり方です!
それにしても、翁長知事はなぜ辺野古移設の推進派から、反対派に変節したのでしょうか?
知事就任以来、その事がずっと気になっていました。
しかし、答えはすでに3年前に出ていたのです。
以下、週刊文春より引用します。
<週刊文春(2015年5月7/14日号)>
「絶対に辺野古に新基地は作らせない」。安倍首相にそう啖呵を切った沖縄県の翁長知事は、かつて辺野古移設を推進する動きの中心にいた。市議から県議、市長、そして知事に登り詰めた翁長氏はなぜ変節したのか。総力取材で「沖縄のタブー」に迫る特集第3弾!
「辺野古だけで勝てるんだから、俺につけよ」
沖縄県知事選を約半年後に控えた昨年四月、那覇市役所の市長室で翁長雄志は、ある市議会議員にそう声をかけた。当時は、翁長氏につくか、現職の仲井真弘多知事につくか、水面下で激しい駆け引きが繰り広げられていた時期。声をかけられた市議は、「選挙のために辺野古を利用している」と感じたという。
「絶対に辺野古に新基地は作らせない」
4月17日に行われた安倍晋三首相との会談でそう述べて、いまや反基地運動のシンボルと化した翁長知事。だが、その足跡を詳しく調べていくと、露になるのは見事な変節ぶりだ。
翁長の政治家としての家系と少年期
なぜ、保守政治家の翁長氏が変節したのか。今回はその経緯を詳らかにしたい。
翁長氏が生まれたのは、1950年。沖縄が米軍統治下に置かれて5年目のことだ。父親は、後に那覇市と合併した旧真和志市の市長だった翁長助静氏。
「翁長家は沖縄の保守政界を代表する名門です。助静氏は琉球政府の立法機関だった立法院の議員にもなり、翁長氏の兄の助裕氏は沖縄県議から副知事まで昇りつめました。その裏で二人ともいくたびか落選を経験。助静氏は那覇市長選、助裕氏は知事選で苦杯をなめています」(ベテラン県議)
革新が強い沖縄で保守政治家の子に生まれた翁長氏は、周囲に嫌がらせを受けることもあった。2003年に出版した著書『創造への挑戦 風格ある県都那覇市を目指して』で、父親が立法院議員選挙で落選した時のことをこう回想する。
〈教室の黒板に翁長助静、相手側候補の平良良松と書きまして、平良良松さんのところに二重丸をして、私の担任が万歳三唱をしているんですよ。(中略)保守の側に家族を持つ者としては、大変耐え切れないところがございました〉
小学六年の時のことだ。翁長少年に大きなトラウマとなったのであろう。
政治家としての翁長の経歴の始まり
その後、県内一の名門・那覇高を卒業した翁長氏は東京の法政大学に入学。当時の沖縄は米軍統治下で、実家からドルで送金を受けた。菅義偉官房長官は、大学の先輩になる。卒業後は沖縄に戻り、建設会社勤務の後、34歳で那覇市議選挙で当選。41歳で兄の地盤を引き継ぎ、県議に転身する。
「この頃の翁長さんは、自衛隊の支援活動をする沖縄県防衛協会の青年部会長を務めるなど、自民党の中でも特に保守色が強い存在でした。1993年に糸満市で開かれた全国植樹祭に出席するため天皇皇后両陛下が訪沖された際には、訪問反対の運動が盛り上がる中、翁長氏は日の丸の旗を振って、万歳をして歓迎してみせたのです」(自民党県議)
翁長氏が県議になる2年前の1990年には、革新の大田昌秀氏が知事となっていた。大田氏は、県内全ての米軍基地返還を求める「基地返還アクションプログラム」を発表するなど、政府と激しく対立した。翁長氏は大田知事への追及で一躍名を馳せた。
「彼は他人の揚げ足を取るのがうまく、早口でまくしたてる。気が短い大田知事は顔を真っ赤にして怒るのですが、そんなのお構いなし。『そんなに言うのならあんたがやってみろ』と大田知事が言い出し、議場が大爆笑となったこともありました」(自民党元県議)
当時、翁長氏は本会議で大田氏をこう追及している。
〈大田知事が、保守、革新を超越した基地反対闘争の結集を訴えるのは県民向けの受けのいいポーズであり、同時に県民の結束をみずから放棄していると言われても仕方がありません〉(1994年3月の県議会)
1997年に自民党沖縄県連の幹事長となった翁長氏は、1998年の知事選で経済界から稲嶺恵一氏を担ぎ出し、「15年の使用期限、軍民共用」との条件付きながら、名護市辺野古への移設容認を公約として当選させた立役者でもある。
1999年の県議会本会議の議事録には、この公約を支持する次の発言がある。
〈(稲嶺)知事がキャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域に場所を候補地として選定いたしまして、昨年の知事の公約を実行型県政としてしっかりと踏まえて一つ一つ前に進んでいることを高く評価をするものであります〉
この年の県議会で野党の反対を押し切り「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」を可決させた中心メンバーも翁長氏だ。
議会で提案者を代表して提案理由を説明した翁長氏は、基地問題をめぐる大田前知事の姿勢を「オール・オア・ナッシングの姿勢」と批判し、政府との信頼関係を損なったと非難した。当時、自民党県議で、後に衆議院議員となる安次富修氏はこう振り返る。
「決議案に対して共産党から300くらい質問が出され、ジュゴンや珊瑚のことも言われましたが、朝までかかって可決した。同じ年に名護市議会が普天間の移設を容認する決議を可決した時も、幹事長として総指揮したのが翁長氏。彼は一貫して、辺野古移設を推進する動きの中にいたのです」
2000年には那覇市長選挙で当選。かつて同じ選挙で敗れた父の雪辱を果たした。市長就任後は、那覇市役所庁舎での初めての日の丸掲揚や自衛官募集業務の受託など、長く続いた革新市政時代を覆す動きも見せたが、変わり身の早さを物語るエピソードもある。
「『市長専用の公用車を廃止し、自転車で通勤する』との公約を掲げて当選し、しばらくは自転車通勤をして新聞でも好意的に報じられた。ですが、ほとぼりが冷めると『自転車では夜の会合に行けない』と通勤にハイヤーを使うようになり、さらに『ハイヤーでは秘密の話ができない』と、公用車を復活させた。簡単に言うことを変える人なんです」(那覇市議)
妻の樹子氏とのあいだに二男二女。長男は選挙で戦った仲井真氏が会長を務めた沖縄電力に勤務し、次男や長女も県内の企業に勤務。次女は関東地方の大学に通う。翁長氏の義理の兄にあたる島憲正氏はこう語る。
「彼は学生の頃はトランペットをやっていて、歌もすごくうまく、『嵐を呼ぶ男』など石原裕次郎ならなんでも歌います。野球が好きで巨人を一生懸命応援している。市長時代に建設した野球場に巨人のキャンプを誘致したぐらいですから」
なお、4月5日に菅官房長官と会談した際に批判した「粛々」という言葉は、翁長氏もよく使う。県議会や那覇市議会の議事録を調べてみると、短い答弁の中で4回も「粛々」という言葉を使ったこともあった。2010年2月の市議会本会議では、政治哲学を問われて、「市長としてできる限りのことを粛々と果たしていきたいと考えております」と答弁している。
翁長の変節の始まり
そんな翁長氏が反基地の動きを強めたのは、「オスプレイの頃から」(義兄の島氏)だという。
米国が普天間に垂直離着陸機のオスプレイを配備すると表明したのは、2011年6月のこと。すると、県内のメディアを中心にオスプレイを「事故が多発する欠陥機」などとするキャンペーンが展開され、配備の撤回を求める動きが広がった。
「配備に反対するため、県内の各政党や団体が横断的に参加する県民大会を催すことになり、実行委員会の共同代表に翁長氏が就任。2012年9月に開かれた大会には数万人が集まり、翁長氏は一躍、反基地運動のリーダー格としてメディアに持ち上げられるようになった」(前出・自民党県議)
<オスプレイ配備反対集会(2012年9月)>
この大会の翌月に米軍がオスプレイの配備に踏み切ると、2013年1月に翁長氏らは上京し、「オスプレイの配備撤回」と「米軍普天間基地の県内移設断念」を求める「建白書」を首相官邸で安倍首相に手渡した。
「かつての彼の立ち位置からすれば考えられないことでしたが、この運動を通して翁長氏は革新各党と太いパイプを持つようになり、昨年の知事選で見せた『オール沖縄』のひな形を作ったのです。鳩山由紀夫元首相の『最低でも県外』発言以来の県内世論の後押しや地元紙の特別扱いもあって自信を深めていったのでしょう」(同前)
この時の上京で翁長氏を前のめりにさせる出来事があったと振り返るのは、知事選で翁長選対副本部長となった「かりゆしグループ」会長の平良朝敬氏だ。
「上京したメンバーでオスプレイ配備反対のデモ行進を銀座周辺でしたのですが、極右団体によるヘイトスピーチで『売国奴!』などと罵られたのです。翁長さんは『絶対に許せない。沖縄はいつまでもヤマトに対して黙っていていいのか』と憤っていたのです」
一方、この時期の翁長氏について、県内移設を容認する中山義隆石垣市長はこう証言する。
「安倍首相に提出する建白書に県内全市町村長が署名するということになり、私も署名を求められた。ですが、当初はオスプレイ配備撤回だけだったはずの文面に、普天間の県内移設断念が加えられていた。私には到底、署名できるものではなかったので、その旨を伝えると、翁長氏は私の携帯に何度も電話して説得を試みた。それで、最終的に建白書に私も署名はするが、お互いの立場を確認する書面を取り交わそうということになったのです」
石垣市役所に保管される確認書には、「県外への移設を理想とするものの、普天間基地の早期移設と周辺住民への危険性の除去を最優先と考えており、県内移設の選択肢を否定するものではない」とあり、中山市長と翁長氏らの署名と捺印がある。知事就任後に安倍首相に「絶対に作らせない」と明言してみせたこととの整合性は、ここにはない。
<那覇市長(当時)の翁長雄志氏は、米軍普天間基地の辺野古への移設を
認める「確認書」に署名(2013年)>
翁長氏が反基地傾向を深めていく中で深刻になっていったのは、蜜月だった仲井真知事との確執だった。
「翁長氏は2010年に仲井真氏が再選を果たした時の選対本部長を務め、一時は翁長氏が“仲井真後継”と見られていた。ところが、2013年に琉球大学教授だった高良倉吉氏が副知事に任命されると、『知事は高良さんを後継にするつもりだ』と噂され始め、仲井真氏と翁長氏の溝が深まっていったのです」(県庁幹部)
仲井真氏が2013年末に名護市辺野古の埋め立ての承認へと踏み切ると、革新系各党は翁長氏に知事選出馬を要請。那覇市議会では、保守系の市議らの間でどちらにつくか水面下の駆け引きが激化した。冒頭のやり取りは、この時のものだ。
実は、選挙前に翁長氏と仲井真氏の一本化を目指す動きが水面下であった。
「那覇市内の小料理屋で仲井真氏らと翁長氏らが密かに話し合いの場を持ったのです。仲井真氏側が『三期目を2年で辞め、その後は禅譲するから、今回選挙に出るのはやめてくれないか』と申し入れると、翁長氏は、『考えさせてほしい』と答えた。これは脈があるなと思ったのですが、革新側との選挙協力が順調に進んだためでしょう、二度目の協議の場を持とうと連絡しても、電話に出なくなったのです」(自民党関係者)
選挙結果は、36万票対26万票で翁長氏が勝利。兄の助裕氏が果たせなかった夢をついに実現したのだ。地元メディアも辺野古移設に反対する県民の民意が示されたと喧伝した。
だが、前出の安次富元衆議院議員はこう総括する。
「反対することが大事なんだ」
「オール沖縄という美名の下に革新共闘と保守の一部を取り込んで選挙態勢を構築したのは、つまるところ権力闘争の戦術です。オール沖縄の実態は、仲井真さんのことが嫌いな人たちが結集した、恨み辛みの選挙だった。そこに、辺野古移設問題を糊塗しただけとも言えるでしょう」
翁長氏の移設反対の本気度を疑わせるエピソードはこと欠かない。
一昨年八月に南城市内のホテルで開かれた県内の市長会でのことだ。「市長たちの懇親会の席で翁長氏は、ワインを飲みながら、『辺野古はどうせ国がやるんだ。でも簡単には同意するな。反対することが大事なんだから』と発言したのです。出席した他の市長たちは一斉に『えっ』という顔をしました。『まるで、“ゆすりたかりの名人”みたい』とこぼす市長もいたほどです」(出席者)
懇親会に出席した市長4人に確認したが、細かなニュアンスの違いはあるものの、いずれも翁長氏の同趣旨の発言を認めた。
かつて翁長氏に県議会で激しく追及された大田昌秀氏は昨年、東京外大教授の山田文比古氏のインタビューにこう答えている。
〈私が県知事であったときに、基地反対に一番抵抗していたのが、今頃になってオール沖縄などと唱えている連中だ。そうした過去の経歴や主張を見ると、信用できない。いつ変わるか分からない連中だ。(中略)この連中がいんちきなことを始めているとしか私には思えない〉(『オール沖縄VS.ヤマト 政治指導者10人の証言』より)
大田氏が翁長氏らのことを信用できないと喝破している事実は見逃せない。
翁長氏は知事就任後、ワシントンに駐在員事務所を設置するなど、米国に直接基地問題を訴えることも打ち出している。キャロライン・ケネディ米国大使との面談の申し入れは「会う目的が明確でない」と断られたが、5月末から訪米して米政府や議会関係者との会談を重ねる予定だという。
元在沖縄米国総領事のケビン・メア氏はこう話す。
「米国政府にとっての交渉相手はあくまでも日本政府であり、沖縄県知事といえども交渉相手とはなり得ない。ハワイ州知事が米軍の基地の体制を決めたりしないのと同じです。沖縄は戦略上の要地であり、尖閣諸島に中国の公船が連日、押し掛けているように、中国の脅威は現実のものです。そんな中で基地が必要ないとの姿勢を取ることは無責任だと言えます。沖縄にとっても一定の基地は必要だということを理解すべきではないでしょうか」
小誌は翁長知事にインタビュー取材を申し入れたが、残念ながら多忙を理由に断られてしまった。
知事の座を手に入れるまで、翁長氏は変節を繰り返した。そのために基地問題が利用されていたとしたら、これこそが沖縄県民にとっての不幸である。
>そんな翁長氏が反基地の動きを強めたのは、「オスプレイの頃から」(義兄の島氏)だという。
保守系だった翁長知事の変節のきっかけは、やはり2009年8月の民主党の政権交代だったのではないでしょうか?
民主党政権では、鳩山由紀夫首相(当時)が米軍普天間基地の移設先を「最低でも県外」にするとの方針を打ち出しました。
これによって、沖縄世論が変化し、「オスプレイ反対」、「辺野古移設反対」の勢いが増していったのです。
この変化を嗅ぎ取った翁長氏は、自らの権力闘争と重ね合わせ、いとも簡単に変節したということなのです。
もちろん、これ以外にもシナの工作、パヨク勢力との蜜月もあったでしょう。
>「辺野古だけで勝てるんだから、俺につけよ」
>「反対することが大事なんだ」
要は「辺野古移設問題」は、翁長氏が知事になるための単なる材料だったということです。
そして今、翁長知事の死が、パヨクの政治利用の材料にされようとしているのです。
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