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上原正稔氏の世界日報連載「歪められた沖縄戦史」

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 沖縄県政の刷新を求める会より

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 当会は、地政学的に大変重要な沖縄県が、我が国の安全と発展に寄与できるように県政の刷新を行う為に発足致しました。
 活動の中心は、県内にある不正・不当、県民や国民の不利益になる事案を取り除くため、法律を盾とし証拠を鉾として権力の座にある議会と行政を糺す活動を行います。
 ご協力頂ける方に裁判経費や活動のご支援をお願い申し上げます。(現在、「翁長知事国連訴訟」(1次、2次、3次)及び「県警検問違法訴訟」を提訴中です)

沖縄県政の刷新を求める会

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ドキュメンタリー作家上原正稔さんが、世界日報に連載中の「歪められた沖縄戦史」を掲載します。    

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <1> 「梅澤少佐の不明死」/隠蔽された『鉄の暴風』の誤報  人はよく「戦争とは醜いものだ」と言う。だが、筆者は、最も醜いはずの戦争に中に、最も美しい人間の物語を発見し、数々の沖縄戦の物語を伝えてきたが、現在につながる大切な物語の一つの終わりがまだ見えない。それは住民の“集団自殺”の真相だ。そもそも沖縄県慶良間諸島の「集団自決」が事の始まりだ。

 渡嘉敷島の第3戦隊長の赤松嘉次(よしつぐ)大尉と座間味島の第1戦隊長、梅澤裕(ゆたか)少佐の“玉砕命令”により「集団自決」が始まったとの風説は超ロングセラー『鉄の暴風』に起因する。

 1950年8月15日、沖縄タイムス編集、朝日新聞出版の『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』を発行した。初版2万部は驚くべき数字だが、第2章「悲劇の離島・集団自決」の稿を除けば、今でも参考にすべき戦記だということも驚きだ。

 この本によって赤松大尉と梅澤少佐は集団自決を命じた「極悪人」であることが「暴露」され、そのイメージが定着した。ところが70年、曽野綾子氏が赤松さんら第3戦隊の隊員らに取材し、現地調査を行い、『ある神話の背景』を著し、「赤松嘉次さんは集団自決を命じていない」と発表した。それでも、沖縄の人々が真実の言葉に耳を傾けることはなかった。

 『鉄の暴風』によると、伊佐(後に大田に改名)良博氏が執筆した「集団自決」の稿の最後に、座間味について「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」と記されている。「日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐ごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの2人と不明死を遂げたことが判明した」と稿を閉じている。

 ところが、この記述は現在市販されている『鉄の暴風』から見事に削除されている。なぜか。それは、70年4月、東京タワーでアメリカ人牧師を人質に取り、言いたい放題の暴言を吐き、マスコミの人気者になった沖縄生まれの富村順一氏が梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけ、沖縄タイムス社に足を運び、それをネタにタイムスを脅迫して金銭を要求。まんまと50万円をせしめたからだ。これは有名な裏話だが、タイムスが語れない恥ずべき秘話となっている。

 「梅澤少佐ごときは2人の慰安婦と共に不明死を遂げた」との記述とその隠蔽(いんぺい)工作はまさに名誉棄損そのものだ。

 

 うえはら・まさとし 1943年、沖縄県糸満市生まれ。ドキュメンタリー作家。83年に沖縄戦フィルムを買い取る「1フィート運動」を開始し、映像を通して沖縄戦を伝えた。その後、沖縄戦の連載を地元紙に執筆。2007年には連載「パンドラの箱を開ける時」を掲載拒否された件で琉球新報に勝訴した。主な著書に「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス)。

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <2> 名誉回復求め提訴/目撃した米兵の手記入手  2005年8月4日、梅澤裕さんと故赤松嘉次さんの弟の秀一さんは、住民に「集団自決」を命じていないとして大阪地裁に「名誉回復」目的で訴訟を起こした。被告は『鉄の暴風』を編集した沖縄タイムスではなく、意外にも『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏とその出版社、岩波書店だった。勝訴に自信満々だった原告弁護団はノーベル平和賞受賞作家の大江氏と大手出版社岩波をターゲットに選んだが、外部にいる者(筆者も含めて)からすれば、完全勝訴は間違いないはずだった。

 『沖縄ノート』は「集団自決」だけでなく、沖縄の左翼陣営の文化人にアレコレ聞いているだけで中身はほとんどないからだ。しかも、大江氏は『鉄の暴風』からの受け売りの知識をひけらかしているだけで、赤松戦隊長の名も出さず、“罪の巨塊”とか批判しているにすぎない。

 しかるに、「集団自決」の真相に迫る証拠資料や証人は数多く存在している。

 筆者は1985年、沖縄タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2サマリーを中心にした『沖縄戦日記』を連載し、その中でニューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷島住民の“集団自決”を発表した。

 <神もおののく集団自決―3月29日発(英語ではMass suicide=集団自殺) 昨夜、我々第77師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、その時1マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。(中略)この世で目にした最も痛ましい光景だった。死亡者の中に6人の日本兵(※)がいた。――数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵(※)に向かって激しい罵声を浴びせ殴りかかろうとした>

 筆者はこの時点では気付かなかったが、※印を付した「日本兵」とは実は武器弾薬を装着した防衛隊員である。このことを知ったのは、95年春と夏に、渡嘉敷島に渡って現地調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。

 その前年の94年、筆者は戦後50周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるために「おきなわプラス50市民の会」を組織し、その移動の中で、慶良間諸島の慶留間(げるま)島と渡嘉敷島の「集団自決」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それはハードボイルドでありながら、実に感動的で衝撃的なものだった。

 95年には翻訳しておらず、英文そのままだったことに注意しよう。筆者がシアレス伍長の手記を『沖縄戦ショウダウン』として発表したのは96年の6月だった。

 

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <3> 米兵が記した惨劇/阿波連で100人以上が自決  グレン・シアレス伍長は、手記でこう綴(つづ)る。

 <1945年4月27日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で3人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。(中略)

 山を下りて「阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。その途中、小川に出くわした(阿波連のウフガー上流)。川は干上がり、幅10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて100人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦(ごうかん)され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。

 年配の男たちがちっちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にした大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。

 狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるので、こちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。

 医療班が駆け付け、全力を尽くして生き残った者を手当てしたが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。>

 この集団自決については一切表に出たことがなかった。だが、海上挺進第3戦隊陣中日誌は記す。

 <3月29日―悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したる者約200名(阿波連においても百数十名自決、後判明)。首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部(けいぶ)を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽くし得ない情景であった。>

 シアレス伍長の手記を見事に裏付けている。第3戦隊陣中日誌は後、詳しく紹介することにしよう。

 

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <4> 渡嘉敷島で聞き取り 赤松隊長への誤解解消へ

 1995年の春と夏、渡嘉敷島を訪ね、「集団自決」の生き残りの人々や関係者から情報を集めた。自決を生き延びた金城武徳さんに自決現場に案内してもらった。そして、海上挺身第3戦隊の陣中日誌を金城さんから入手した。後に大城良平さん、比嘉(旧姓安里)喜順さん、知念朝睦さんらから貴重な情報を入手することができた。

 第3戦隊陣中日誌は、「3月27日。第1中隊は本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ、2、3度切り込み突破を行ふも前進不能となり!」と記録している。

 阿波連の集団自決については前記のように記録している。

 渡嘉敷では「恩納ガーラ」(ガーラは「河原」の意味)と阿波連の川の上流で二つの「集団自決」があったことになる。

 ところで「集団自決」という表現は『鉄の暴風』の執筆者の一人、伊佐良博氏が初めて使った、と後に証言し、戦時中は「玉砕」と使われていることに注意しよう。

 筆者は金城さんに渡嘉敷最北の山中の恩納ガーラへ案内してもらった。山頂の石碑のすぐ北に「自決現場」第1玉砕場があった。だが金城さんは、ここは恩納ガーラではなく、ウァーラヌフールモーと呼ばれているという。恩納ガーラは渡嘉敷村落のすぐ西側を流れる川の中流だったのだ。そこは深い谷間で空襲を避ける絶好の場所だった。この川岸に住民は避難小屋を造ったが、ここでは「集団自決」はなかったのだ。

 恩納ガーラの上流から険しい斜面を登り、北山(にしやま)を越え、ウァーラヌフールモーに達するのだが、現在、川にはダムができ、昔の面影はない。筆者は自分の思い込みに呆(あき)れたが、さらに驚いたことに、金城さんや大城さんらは「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」と言うのだ。

 そこで北中城村に住む比嘉さんに会って聞くと「その通りです。世間の誤解を解いてください」と言う。

 知念さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘(うそ)の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙にして調査せねばならない、と決意した。

 

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <5> 米軍が渡嘉敷上陸 避難壕に逃げ込む住民

 渡嘉敷村史と沖縄県史10巻、陣中日誌からウァーラヌフールモーの惨劇を追ってみよう。

 3月23日午前10時ごろ。数十機の爆撃機が渡嘉敷上空に姿を見せた。住民も兵士もそれが米軍機だと気付くものはいない。突如、空襲が始まり、民家や陣地に爆弾と焼夷(しょうい)弾が落とされ、至る所で山火事が発生した。延べ300機の空襲は午後6時まで断続的に続き、島は大混乱に陥る。住民は麓など各地に用意していた避難壕(ごう)に逃げ込み、陸戦になじみのない第3戦隊の兵士らはわずかばかりの銃兵器で対空射撃を試みたが、この日戦死者11人、負傷者10人を出し、散々な日となった。これが沖縄戦の始まりとなった。

 3月26日。早朝、慶良間に集結した敵(ブランデー提督)の艦隊は慶良間各島に猛烈な艦砲射撃を加え、第77歩兵師団が慶留間、阿嘉、座間味の島々に上陸した。渡嘉敷島の大町大佐が島を脱出する機会は失われた。

 赤松戦隊長は出撃準備のため、夜明け前に舟艇を浜に出し、大町大佐に出撃命令を求めたが、大町大佐は「ここで手の内を晒(さら)せば、本島に船舶団の作戦に支障が出るので船を戻せ」と命令。だが、時既に遅く、敵の艦砲射撃が始まっている。

 赤松隊長は涙をのんで「自沈」を命令。こうして事態は島の全ての人々の予測を超えた方向へ進んでいった。

 27日。海上挺身戦隊とは、爆雷2個を搭載した舟艇で、夜間敵艦船に体当たり爆破する目的で編成された特攻隊のことだ。生きて帰ることはないはずだったが、特攻艇を自沈した今、にわかづくりの陸戦守備隊として島に立てこもることになった。

 午前2時、赤松戦隊長らは渡嘉敷村落の北の北山(にしやま)の周囲に守備陣地を敷くことになり、山道を上った。

 午前9時、アメリカ軍は艦砲射撃の下、留利加波、渡嘉志久、阿波連に上陸を開始。渡嘉志久を守備する第3中隊の残存部隊は抵抗したもののほとんど戦死。阿波連を守備する第1中隊は阿波連を撤退する時、アメリカ軍(A中隊)の待ち伏せに遭い、多数が死傷し、生き残った者は阿波連東の山中に四散することになった。

 一方、村の防衛召集兵(以下、防衛隊と呼ぶ)は3月23日の空襲以来、住民の避難や消火作戦でてんてこ舞いの忙しさだったが、前夜から「敵が上陸して危険だから恩納ガーラに移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。

 

【歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実 上原正稔】<6> パニックに陥る住民 玉砕の連絡が飛び交う

 渡嘉敷村落の西側の恩納ガーラには古波蔵惟好村長、真喜屋実意先生(前村長)、徳平郵便局長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。

 1944年2月22日、国勢調査によれば、村の人口は1447人であり、「数百人」とはその一部にすぎないことに注意しよう。

 古波蔵村長らの有力者会議が開かれ、「自決の他はない」と皆、賛成し自決が決められた。

 ある防衛隊員は「戦うために妻子を片づけよう」と言った。

 村の兵事主任、新城真順は前日掘ったばかりの北山陣地に行き、赤松嘉次隊長に「住民をどこに避難させたらよいか」と指示を仰いだ。赤松隊長は「陣地北側の盆地に避難させてはどうか」と言った。そこがウァーラヌフールモーだった。

 その後、恩納ガーラに防衛隊員がやって来て「赤松隊長の命令で村民は全員、直ちに北山のウァーラヌフールモーに集まれ」と語った。別の防衛隊員は「自決するから北山に集まれ」と言った。

 14歳の金城武徳は敵の上陸が始まると、部落内の防空壕を出て、神社の後ろを通って、父が恩納ガーラに造ってあった避難小屋を目指した。夜、土砂降りの中、食糧を置いてある恩納ガーラに伝令がやって来た。あっちこっちの避難小屋を巡り、「軍の命令で北山に避難せよ」と伝えた。

 16歳の小嶺勇夫はイチャジシ(恩納ガーラ)の避難小屋で生活を始めていたが、村の青年がやってきて「村長命令で上の本部に全員集合せよ」と言った。14歳の山城賢治はウビガーラから恩納ガーラに移動したが「明日あたり玉砕だ」という話を聞いた。30歳の小嶺国枝はイチャジシの避難小屋にいたが「玉砕するから北山に集まれ」との連絡を受けた。

 グリースガイ(死に装束)をしてウァーラヌフールモーに向かった。夜半から28日の明け方にかけて、数百人の老若男女が雨の中、恩納ガーラの上流から険しい傾斜面の道なき道を黙々と登って行った。

 ウァーラヌフールモーは北山の山頂すぐ北側にあり、馬の鞍(くら)のような形をしていて、長さ約30㍍、幅5・6㍍で北に突き出ていて、その両端は深さ3、4㍍ほどの溝を成し、その先は人が下りられないほどの深い渓谷が海に続いている。

 

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