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OTVが特別賞受賞 FNSドキュメンタリー大賞 琉球新報2005年12月17日
沖縄テレビ放送の「むかし むかし この島で」(山里孫存ディレクター、2005年10月10日放送)が16日、第14回FNSドキュメンタリー大賞で、上位6作品に選ばれ、特別賞を受賞した。
「むかし―」は、米国公文書館から沖縄戦に関する記録フィルムを取り寄せ、全県民に見てもらい映像の特定をすることで、沖縄戦の真実に迫ろうというドキュメンタリー作家、上原正稔さんの活動を取り上げたもの。 山里ディレクターは「戦後60年スペシャルで作った沖縄の60年前の映像と、今を結びつける作品が全国で評価されて素直にうれしい。取材を通して戦争が昔の話ではなく、今につながることを実感した」と話した。 ☆ 新聞社が記事にするかどうかを決めるとき金科玉条のように持ち出す言葉が「編集権」である。 公平な報道を謳っている新聞社が、偏向報道を指摘されると、「編集権」を盾に公平を強弁するのが新聞社の常である。 だが一般の読者投稿ならともかく、上原正稔さんといえば沖縄戦記の研究では沖縄マスコミガこぞってその実績を認める専門家であり、2006年に琉球新報社が長期連載企画の依頼をしたときも、前年までの上原さんの輝かしい沖縄戦記研究の実績を見込んで依頼していることは上記新報記事から容易に判断できる。 その頃上原さんは米公文書館から取り寄せた沖縄戦フィルム「パンドラの箱を開けるとき」の上映会を頻繁に行っており、上原さんを追い出した「1フィートの会」は事実上開店休業の状態であった。 上原さんが創始した1フィート運動を沖縄の左翼勢力が卑劣な手段で乗っ取ったことは前に述べたが、頭でっかちで実行力の伴わない彼らを尻目に、上原さんは個人で未公開の沖縄戦フィルムを次々と発掘し、中でも白旗を掲げて投降する幼い少女の姿は、多くの出版物で紹介され感動を呼んだことは記憶に新しい。 だが、左翼勢力は上原さんが発掘した「白旗の少女」を歪曲し卑劣にも「残虐非道な日本軍」の物語に捏造したこと記憶に新しい。 ⇒テレビ東京が「白旗の少女」を放映 次に上原さんの活躍を報じる琉球新報記事をもうひとつ紹介するが、この記事にも既に「パンドラの箱を開けるとき」のタイトルが見えるが、琉球新報は「パンドラの箱」の意味が分からないままに、上原さんに原稿を依頼したのだろうか。 「もう一度家族抱きしめたい」 沖縄戦フィルム上映会 琉球新報2005年8月2日 家族の姿を映像や写真で確認した山城ミエさん(左)、山城栄子さん(左から2人目)、山城信一さん(同4人目)=1日夜、那覇市のてんぶす那覇
沖縄戦フィルム「パンドラの箱を開けるとき」の上映が1日から那覇市のてんぶす那覇で始まり、家族や親族十数人が避難壕から救い出され、寄り添う姿をフィルムに映る本人らが確認した。うるま市石川山城の山城ミエさん(76)、またいとこの山城栄子さん(73)、おいの山城信一さん(60)らがフィルムで60年前の家族らと“対面”。「生き残ったことは幸せだが、目の前で死んだ家族もいる。もう一度抱きしめたい」と目頭を押さえた。 壕から出る信一さんと信一さんを抱く母トミ子さん(戦後死去)の様子はこれまでも展示、上映されていたものの、親子の所在は分からなかった。6月に信一さんが名乗り出て同22日付琉球新報朝刊で紹介された。
記事を見たフィルム制作者のドキュメンタリー作家の上原正稔さん(62)が「パンドラの箱を開けるとき」で同一場面を確認。「信一さんの後に壕を出る人々は家族かもしれない」と信一さんに呼び掛け、壕に一緒にいたミエさんや栄子さんらが上映会に訪れた。映像は1945年4月初旬、米軍が撮影した。
食い入るように見つめていたミエさんは「山城集落外れ、『長道原』の壕に隠れていた。手りゅう弾を投げ込まれ、信一の母方の祖母が犠牲になった直後、信一の泣き声を聞いた米兵が住民だと知り、出て来るように手招きした。乳飲み子だった信一が家族の命をつないでくれた」と振り返った。他界した父母らが映る場面には、栄子さんと一緒に指で差しながら家族の名前をつぶやいた。
家族を確認した3人は「戦死した家族や既に他界した家族らも天国からこのフィルムを見てくれたと思う。戦争の苦しみは二度と子どもたちに与えてはいけない」と話した。 ☆ 上原さんの八面六臂の活躍には、琉球新報の紙面批評記事を書いていた「反戦平和活動家」の久場由紀子氏でさえも「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである」と脱帽する有様であった。 『琉球新報』紙面批評−2004年1〜2月分 琉球新報
10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。 ☆ 1フィート運動を乗っ取っては見たものの、イデオロギーだけで無能な左翼学者は、上原さんの仕事を真似ることさえできず、開店休業の状態。 「再生を図る」とは、現在は死んだも同然だということになる。 語るに落ちるとはまさにこのことである。
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沖縄テレビ放送の「むかし むかし この島で」(山里孫存ディレクター、2005年10月10日放送)が16日、第14回FNSドキュメンタリー大賞で、上位6作品に選ばれ、特別賞を受賞した。
「むかし―」は、米国公文書館から沖縄戦に関する記録フィルムを取り寄せ、全県民に見てもらい映像の特定をすることで、沖縄戦の真実に迫ろうというドキュメンタリー作家、上原正稔さんの活動を取り上げたもの。 山里ディレクターは「戦後60年スペシャルで作った沖縄の60年前の映像と、今を結びつける作品が全国で評価されて素直にうれしい。取材を通して戦争が昔の話ではなく、今につながることを実感した」と話した。 ☆ 新聞社が記事にするかどうかを決めるとき金科玉条のように持ち出す言葉が「編集権」である。 公平な報道を謳っている新聞社が、偏向報道を指摘されると、「編集権」を盾に公平を強弁するのが新聞社の常である。 だが一般の読者投稿ならともかく、上原正稔さんといえば沖縄戦記の研究では沖縄マスコミガこぞってその実績を認める専門家であり、2006年に琉球新報社が長期連載企画の依頼をしたときも、前年までの上原さんの輝かしい沖縄戦記研究の実績を見込んで依頼していることは上記新報記事から容易に判断できる。 その頃上原さんは米公文書館から取り寄せた沖縄戦フィルム「パンドラの箱を開けるとき」の上映会を頻繁に行っており、上原さんを追い出した「1フィートの会」は事実上開店休業の状態であった。 上原さんが創始した1フィート運動を沖縄の左翼勢力が卑劣な手段で乗っ取ったことは前に述べたが、頭でっかちで実行力の伴わない彼らを尻目に、上原さんは個人で未公開の沖縄戦フィルムを次々と発掘し、中でも白旗を掲げて投降する幼い少女の姿は、多くの出版物で紹介され感動を呼んだことは記憶に新しい。 だが、左翼勢力は上原さんが発掘した「白旗の少女」を歪曲し卑劣にも「残虐非道な日本軍」の物語に捏造したこと記憶に新しい。 ⇒テレビ東京が「白旗の少女」を放映 次に上原さんの活躍を報じる琉球新報記事をもうひとつ紹介するが、この記事にも既に「パンドラの箱を開けるとき」のタイトルが見えるが、琉球新報は「パンドラの箱」の意味が分からないままに、上原さんに原稿を依頼したのだろうか。 「もう一度家族抱きしめたい」 沖縄戦フィルム上映会 琉球新報2005年8月2日 家族の姿を映像や写真で確認した山城ミエさん(左)、山城栄子さん(左から2人目)、山城信一さん(同4人目)=1日夜、那覇市のてんぶす那覇
沖縄戦フィルム「パンドラの箱を開けるとき」の上映が1日から那覇市のてんぶす那覇で始まり、家族や親族十数人が避難壕から救い出され、寄り添う姿をフィルムに映る本人らが確認した。うるま市石川山城の山城ミエさん(76)、またいとこの山城栄子さん(73)、おいの山城信一さん(60)らがフィルムで60年前の家族らと“対面”。「生き残ったことは幸せだが、目の前で死んだ家族もいる。もう一度抱きしめたい」と目頭を押さえた。 壕から出る信一さんと信一さんを抱く母トミ子さん(戦後死去)の様子はこれまでも展示、上映されていたものの、親子の所在は分からなかった。6月に信一さんが名乗り出て同22日付琉球新報朝刊で紹介された。
記事を見たフィルム制作者のドキュメンタリー作家の上原正稔さん(62)が「パンドラの箱を開けるとき」で同一場面を確認。「信一さんの後に壕を出る人々は家族かもしれない」と信一さんに呼び掛け、壕に一緒にいたミエさんや栄子さんらが上映会に訪れた。映像は1945年4月初旬、米軍が撮影した。
食い入るように見つめていたミエさんは「山城集落外れ、『長道原』の壕に隠れていた。手りゅう弾を投げ込まれ、信一の母方の祖母が犠牲になった直後、信一の泣き声を聞いた米兵が住民だと知り、出て来るように手招きした。乳飲み子だった信一が家族の命をつないでくれた」と振り返った。他界した父母らが映る場面には、栄子さんと一緒に指で差しながら家族の名前をつぶやいた。
家族を確認した3人は「戦死した家族や既に他界した家族らも天国からこのフィルムを見てくれたと思う。戦争の苦しみは二度と子どもたちに与えてはいけない」と話した。 ☆ 上原さんの八面六臂の活躍には、琉球新報の紙面批評記事を書いていた「反戦平和活動家」の久場由紀子氏でさえも「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである」と脱帽する有様であった。 『琉球新報』紙面批評−2004年1〜2月分 琉球新報
10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。 ☆ 1フィート運動を乗っ取っては見たものの、イデオロギーだけで無能な左翼学者は、上原さんの仕事を真似ることさえできず、開店休業の状態。 「再生を図る」とは、現在は死んだも同然だということになる。 語るに落ちるとはまさにこのことである。
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