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5月4日(金)のチャンネル桜「沖縄の声」に出演した際、トンでもないオオボケをかましてしまいました。(汗)
それがこれ。
⇒【沖縄の声】「屈辱の日」と天皇メッセージ~沖縄近代史の3つの誤解・終戦直後の時代背景・「屈辱の日」と講和発効[H30/5/5]- 。チャンネル桜沖縄支局「沖縄の声」
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連休の中日の5月2日。
チャンネル桜のスタッフのN君から突然連絡が入った。
5月4日(金)の出演者がドタキャン。
番組に穴が開きそうなので、急遽特集番組を組んでくれという話だ。
連休の中日に家でゴロゴロしている人物。
暇を持て余しているヤツということで筆者に白羽の矢が立ったのだろう。
スタッフの特集番組の提案には、こんな伏線があった。
最近沖縄の怪人・上原正稔さんが世界日報に「沖縄戦史」の連載記事を書き始めた。 そこで上原さんをゲストに招き「沖縄戦の特集番組」を組みたいという提案をスタッフに伝えてあった。
もう一つは、火曜日のレギュラー番組で「屈辱の日と天皇メッセージ」について述べたが、時間の都合上軽く触れた程度に終わった。 機会を設けて特集番組を組んだら深く切り込んだ話が可能。 これもスタッフに伝えていた。
スタッフのN君として緊急のピンチヒッターとして筆者を思い浮かべたのだろう。
テーマは「沖縄戦」、「屈辱の日」のどちらでも良いとのこと。
上原さんは最近携帯を持たなくなり連絡が付かない。それでも行き先は大方見当が付く。
だが宜野湾市在住で車を持たない筆者が、那覇の上原さんを探し回ることは大事(おおごと)だ。 それに時間がない。
時期的には「屈辱の日」か。
屈辱の日の4月28日を終えてまだ一週間も経っていない。
結局、テーマは「屈辱の日と天皇メッセージ」ということに決めた。
早速資料集めに掛かった。
だが、「屈辱の日と天皇メッセージ」を一回の番組に凝縮するにはテーマが重過ぎる。 関連してサンフランシスコ講和条約、米軍統治下の沖縄、信託統治、信任統治、憲法発効、共産主義の脅威等など個別に取り上げても特集が組める大きなテーマだ。
結局資料を未消化のままオンエアに臨んだ。
⇒【沖縄の声】「屈辱の日」と天皇メッセージ~沖縄近代史の3つの誤解・終戦直後の時代背景・「屈辱の日」と講和発効[H30/5/5]-チャンネル桜沖縄支局「沖縄の声」
そして、とんでもないオオボケをかましてしまった。
番組はこんな調子で始まった。
≪4月28日は「屈辱の日と沖縄2紙は例年大騒ぎします。≫
そこで屈辱の日を報じる沖縄タイムスの一面を画面に提示して見せる予定だった。
だが、予定はあくまで予定であり決定にあらず・・・と誰かが言ったかどうか。
そんなことはどうでもよい。
準備したはずの新聞が無い!
動揺を必死に隠してカメラスタッフに目で合図したが、そ知らぬ顔。
そこでこのように続けた。
≪屈辱の日とは1952年4月28日、サンフランシスコ条約が発効し、日本が独立した日です。日本の主権が回復した日です。本来だったら日本国民はこぞってお祝いする日のはずです。≫
そして冒頭からこんな問題提起をした。
≪ここで、最初に沖縄の戦後史における、大きな間違いを三つ上げておきます。
1)1972年の祖国復帰・沖縄返還は「戦争で奪われた領土を一滴の血も流さず返還した世界でも珍しい例」と言われている。
2)米軍統治下の沖縄は米国の信託統治であった。
3)沖縄が米軍統治になった原因の一つは、昭和天皇が「天皇メッセージ」で、命乞いのため沖縄を米国に売り渡したから。≫
実
はその日の放映で目玉となる映像を資料として準備していた。
昭和天皇の「第二の玉音放送」の映像だ。
⇒【公開】食糧問題に関するお言葉 原盤音声 2015年8月1日
https://www.youtube.com/watch?v=CJuHnTvheqs
玉音放送といえば誰でも思い浮かぶのが、昭和20年8月15日の終戦の詔勅だろう。
ところが、終戦翌年の昭和21年、深刻な食糧危機に瀕した国民に向けて昭和天皇は第二の玉音放送をしていたのだ。
誰にも知られぬ第二の玉音放送を効果的に使うため、終戦直後の1946年、1947年の時代背景の説明に時間を取られ過ぎた。
上記三つの間違いは①③は次のように軽く流した。
≪1)ですが、確かに戦争のため沖縄は本土と分断され米軍統治という特殊な政治形態になりましたが、アメリカの領土になったわけでは有りません。 これは、3)の天皇メッセージと関連しますが、沖縄は戦前戦後終始一貫日本であり、沖縄県民は日本人だったのです。これは後で説明します。
2)沖縄は潜在主権という特殊形態でしたたが、主権は日本が有していました。≫
最後の③でマッカーサー回顧録からの挿話を述べ、最後に歌舞伎役者が大見得を切るつもりで、こう述べた。
≪天皇が命乞いなどするはず有りません。 マッカーサー回顧録やその他の資料によると、天皇はマッカーサーに「私はどんな処分を受けてもかまわないが、戦争犯罪人とされる重臣達をを穏便に取り計らって欲しい」(概略)とむしろ戦犯の命乞いをしているくらいです。昭和天皇が命乞いするはずは無いという決定的証明をしてみせます。
天皇メッセージの日付けが重要です。 1947年9月20日です。 その4ヶ月前には日本国憲法が発効し、その約半年前には発布されています。
天皇メッセージの日付に注目し、昭和天皇がマッカーサーに命乞いするはずは無い、という決定的証明をしてみます。
だがこの証明は最後のお楽しみ。>
ところが、その間筆者の学生時代のパスポートの紹介などで時間を取られ、結局時間切れ。
肝心な「決定的証拠」をすっかり忘れてしまった。
☆
■以下は、4日の「特別番組」で説明しなかった「決定的証拠」である。
天皇メッセージの日付けは1947年9月20日。 その4ヶ月前の1947年5月3日に憲法は発効している。
マッカーサーが作ったといわれる日本国憲法には天皇は国民の象徴と謡われている。
既に憲法にその存在を記された昭和天皇が命乞いなどする必要は無かった。
従がって命乞いの為わざわざ沖縄をアメリカに売り渡すはずはない。
では何故昭和天皇は天皇メッセージで沖縄を、米軍統治に委ねたのか。
理由は二つ考えられる。
一つは終戦直後の深刻な食糧事情。
そして天皇メッセージにも記されている共産党への脅威、ソ連への抑止力である。
1946年3月5日、チャーチルの「鉄のカーテン」の演説した。
終戦直後の共産主義の脅威はものすごく、ソ連崩壊でベルリンの壁崩れたが朝鮮の分断は現在も進行形だ。
先ず昭和天皇が一番心を傷めたのが、1946年の戦後日本を直撃した前代未聞の食糧不足。
その年(1946年)から昭和天皇は全国行幸を開始する。
「民のかまど」の仁徳天皇の神話を髣髴させるのが「第2の玉音放送」だ。
46年5月には食糧メーデーが起き、約25万人が皇居に押しかけた。 3月には「食べ物の恨み」が原因の歌舞伎役者・片岡仁左衛門一家惨殺事件が起きており、翌年には違法な闇米を拒否した山口裁判官が餓死する事件が発生して食糧難の深刻さを表している。
そんな時代背景で発せられた俗に「天皇の沖縄メッセージ」と呼ばれる「メモ」の原文は沖縄公文書館のホームページに掲げられ、以下のように丁寧な解説が付されている。
米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20年3月25日)同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】内容は概ね以下の通りです。(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしている。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めた。
天皇メッセージをめぐっては、①日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、
②長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがある。
その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
この解説は、天皇メッセージの背景を的確に解説したものと評してよい。
まず第一に、沖縄メッセージは、マッカーサーに届けられたか、日付が重要だ。
それは1947年9月20日付である。
これは日本国憲法が施行されて4カ月後のこと。
憲法では象徴天皇制が明記され、昭和天皇の戦争責任を追及しない方向はすでにGHQが固めていたが、沖縄の地位はきわめて曖昧であった。「天皇メッセージ」の歴史的背景を分析すると、逆に浮かび上がるのは、沖縄メッセージの核心が「主権」にあることだ。
「天皇メッセージ」の意図することは「長期租借の形式をとることで主権を確保する意図だったという議論」のみが正解なのだ。
もし「沖縄切り捨て論」ならば、連合国が天皇メッセージを拒否するはずはなく、サンフランシスコ講和会議で「信託統治」として容易に受け入れられたはずだ。
実際には、サンフランシスコ講和条約第3条において、沖縄の地位は次のように規定された。
「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」ことを余儀なくされた。「このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」ことが規定された。
天皇の沖縄メッセージの原文は、以下の通りである。
20 September 1947
Memoradum For: General MacArthur
Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointment for the purpose of conveying to me the Emperor’s ideas concerning the future of Okinawa.
Mr. Terasaki stated that the Emperor hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus. In the Emperor’s opinion, such occupation would benefit the United States and also provide protection for Japan. The Emperor feels that such a move would meet with widespread approval among the Japanese people who fear not only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, the growth of rightist and leftist groups which might give rise to an “incident” which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.
The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa (and such other islands as may be required) should be based upon the fiction of a long-term lease–25 to 50 years or more-with sovereignty retained in Japan. According to the Emperor, this method of occupation would convince the Japanese people that the United States has no permanent designs on the Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China, would thereby be estopped from demanding similar rights.
As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of “military base rights” (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) should be by bilateral treaty between the United States and Japan rather than form part of the Allied peace treaty with Japan. The latter method, according to Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might in the future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people. W. J. Sebald
http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/images/Emperor%27s%20message.pdf
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study658:151007〕
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石原昌家沖国大名誉教授が、米軍統治下の沖縄の法的地位に間違った理解のまま「天皇メッセージ」を批判している。
とりあえず石原氏の事実誤認の文章の該当部分を引用する。
消える日本への期待 非軍事化の道模索を/石原昌家氏 沖国大名誉教授
琉球新報 2013年3月20日(水)
「屈辱」とは、単に日本から分断されたので屈辱という意味ではなく、対日講和条約第3条にある「信託統治制度の下におく」ことに置かれたことだ。沖縄の人は自治能力がないから、米国が国連に提案して信託統治に日本は同意するということ。沖縄はかつて琉球王国、独立国として存在してきた。それを明治政府が武力を背景に、「廃琉置県」をした。そのような沖縄に「自治能力がない」と、いわば無能呼ばわりしているのだ。その意味で「屈辱」だ。
苦痛の歴史が68年も続く沖縄にとって「4.28」は、人間の尊厳を奪われた決定的な日だ。「主権回復の日」で祝うという安倍首相と、その首相を支持する約7割の日本国民。人間の尊厳を奪っておきながら、安倍首相にとって沖縄人の感情は全く念頭にない。ただ沖縄というものを日米軍事同盟の安全保障の軍事要塞地としか認識していない。
対日講和条約第3条は昭和「天皇メッセージ」と全く同質同根だ。昭和天皇が沖縄を「軍事占領し続けることを希望」した通りに、米軍の実質的占領が続いた。天皇が「主権回復の日」式典に出席予定だが、天皇の出席はそれを踏襲するという意味になりかねない。天皇は皇太子時代から何度も沖縄を訪問し、親近感を持つ人たちも多い。天皇にとっても不本意なことではなかろうか。
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石原教授は歴史的事実を事実誤認しているため、それを前提とする同氏の「屈辱」が空しく空中分解してしまっている。 大学教授としては噴飯ものの評論でである。
>「屈辱」とは、単に日本から分断されたので屈辱という意味ではなく、対日講和条約第3条にある「信託統治制度の下におく」ことに置かれたことだ。
>沖縄の人は自治能力がないから、米国が国連に提案して信託統治に日本は同意するということ。沖縄はかつて琉球王国、独立国として存在してきた。
石原教授は沖縄が信託統治制度の下に置かれたことに、屈辱を感じたようだが、そもそも沖縄は米国の統治下にはあったが、信託統治制度の下におかれたことは歴史上一度たりともない。
これは条文をよく読んでいない素人が犯す典型的な間違いである。(石原教授は理解していながら、あえて印象操作した可能性もある)
念のためサンフランシスコ講和条約の該当条文を引用するとこうなる。
<サンフランシスコ講和条約 第三条>
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
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確かに当該条文には「南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」と明記されている。
米国は沖縄侵攻当初から沖縄を「太平洋の要石(かなめいし)」と捉え、日本と沖縄を分断の上永久占領を目論んでいた。
サンフランシスコ講和条約締結時の日米両国の力関係を考えれば、米国は世界一の経済力と軍事力を誇る戦勝国であり、一方の日本は、首都東京をはじめ地方の各都市も空爆により焦土と化した軍備も持たない米軍占領下の敗戦国である。
両者の力の差は歴然としており、仮に米国が条文に明記されているように、「(沖縄を)米国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」と提案したら、日本は否応なしに同意せざるを得なかった。
沖縄を信託統治にすればいずれは現在のグアムやプエルトリコのように米国の自治領に移行することは必至であった。
ところが不思議なことに米国は、喉から手が出るほど領有を望んだ沖縄を信託統治にする提案はしなかった。
したがって日本が沖縄の信託統治に同意することなかったし、当然沖縄が米国の信託統治の下におかれることもなかった。
米国は沖縄を日本の主権を残したまま、統治権のみを継続したのだ。
沖縄は米国の信託統治制度の下に置かれたことはない。
これが歴史の事実である
その理由は何か。
その裏には昭和天皇が発したと言われる「天皇メッセージ」の大きな影響力があった。
当時日本の政治家の誰もが思いつかなかった沖縄を「日本の主権を残した(潜在主権の)ままリースにする」という「天皇メッセージ」こそが当時の日本として実行できる最善の策であった。
日本の主権を残したまま米国に統治を委任することを、親子に例えると、子ども(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に戸籍はそのままにし、一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組とは根本的に異なる。
したがって米国統治下の沖縄人はあくまでも日本人であり、沖縄から祖国に日本の土を踏んだ沖縄人は通関で「パスポート」に「日本国への帰国を証明する」というスタンプを貰った。
■本当に米国は信託統治の提案をしなかったのか。
筆者のような何の肩書きもない者が大学教授の肩書きを持つ石原氏を無知蒙昧と批判したら、肩書きの偉そうな人物の言説を信じる向きもある。
だが真実は肩書きで語るものではない。
米軍統治下の沖縄の法的立場については保守系の論客の中にも誤解の多い論点なので、最近の国会質疑で岸田外務大臣が、共産党の赤嶺政賢議員の質問に答えた記録を引用する。
2013年3月12日
第183回国会 衆議院予算委 普天間基地問題について質問(速記録) 赤嶺政賢
○赤嶺委員
(前略)
次に、政府は、本日の閣議で、来月二十八日に政府主催で主権回復を記念する式典を開催することを決めました。四月二十八日というのは、一九五二年、サンフランシスコ講和条約が発効した日であります。敗戦でアメリカの占領下に置かれた日本は、この日をもって主権を回復したと、自民党の皆さんは国民運動を展開してこられた方々もいらっしゃいました。
そこで、外務大臣に伺いますが、この条約によって、奄美、沖縄、小笠原はどのような取り扱いとされたのか、その点を説明していただけますか。簡潔にお願いします。
○岸田国務大臣
サンフランシスコ平和条約第三条におきましては、御指摘の、奄美、小笠原及び沖縄等を「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。」と規定するとともに、「このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」と規定しております。
これらの諸島につきましては、同三条のもとで、我が国は領有権を放棄しない状況で米国が施政権を行使していたということでございます。なお、この信託統治の提案は結局行われずに、その後、奄美諸島につきましては一九五三年、小笠原諸島については一九六八年、沖縄県につきましては一九七二年に返還が行われております。
○赤嶺委員
沖縄は、サンフランシスコ講和条約によって、アメリカの信託統治領に置かれようとして、それが提案されるまでは、永久にアメリカが施政権を握るという状態に置かれていたわけです。
その間、沖縄は、日本本土から切り離されて、米軍の、土地強奪やあるいは人権侵害、まさに、今のような広大な基地というのは、サンフランシスコ講和条約があったから、ああいう人権侵害を含む広大な基地建設ができたわけであります。これが何で主権回復の日になるんですか、総理。
○安倍内閣総理大臣
この四月の二十八日は、まさにサンフランシスコ講和条約が発効した年であります。あのときも、この講和について反対をする人たちがいたわけでありました。いわば、当時のソビエト連邦は反対をしていたわけでございますが、日本は、その中において、まずは占領政策を終えなければ主権を回復できない。
確かに、今、赤嶺委員が指摘されたように、沖縄、そして奄美、小笠原については、これは残念ながら一緒に施政権を回復することはできなかったのでありますが、しかし、それは、それを認めなければ、その後もずっと占領下が丸ごと続いていくということになるわけであります。まずは何とか、我々は占領下から主権を回復して、その後、沖縄についても、小笠原についても、奄美についても、何とか日本に返ってこられるように、交渉力を持って米国と交渉するということでありました。
その後、総理になった佐藤栄作も、政治生命をかけて、この沖縄返還にかけたわけでありまして、沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらないとの考えであった。それは、私もそういう思いであります。
だからこそ、この四月の二十八日は、そうした意味において、沖縄返還、あるいは奄美、小笠原に向けてのまずは第一歩をしるしたということではないか、このように思うわけであります。(以下略)
【追記】
【資料】
■講和発効(1952年4月28日ー屈辱の日)以前の日本は独立国ではなかったため、日本製品の輸出品には「占領下の日本」と屈辱的表記を強いられれていた。
■米軍占領下の沖縄の主権は日本であった証拠。
本土に渡る沖縄住民が携帯した日本旅行証明書には、「日本国への帰国を証する」と税関のスタンプに明記されている。
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