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過去ブログヲ一部編集の上再掲します。
戦陣訓軍命説の神話 2009-11-01
沖縄の某大学で教えている教授が、「集団自決の軍命の有無」を学生に聞き取り調査を行ったところ、ほとんどの学生が「軍命はあった」と答えたという。
その根拠を問うと、大阪高裁で被告側が勝訴したことを挙げた。
では、その被告側勝訴を何で知ったかという問には、全員が沖縄の地元紙を挙げていた。
沖縄地元紙の印象操作の完全勝利である。
沖縄紙は大学生レベルでも、新聞の見出しで容易に情報操作が出来る。
中学生や高校生の情報操作などは赤子の手をねじるようなもの。
高校生に「おじー、おばーがウソをつく筈がない」と言わしめることなど朝飯のことである。
少々しつこいようだが、「軍命の有無」について述べる。
上告中の「集団自決」訴訟最高裁で明らかになるのは、被告大江・岩波の出版差し止め、そしてそれに伴う謝罪の当否である。
訴訟の争点は、軍命の有無ではない。
問題の核心である「軍命の有無」は大阪高裁では証明されず、事実上「軍命による集団自決」は否定された。
法廷で「軍命」を証明するのは被告側にある。 つまり、挙証責任は「軍命」を主張する大江・岩波側にあるからだ。
従がって軍命を主張する左翼勢力はその根拠を失い、「軍官民の共生共死」という極めて曖昧な表現を軍命の根拠にした。
ところが米国公文書館から発掘された英文訳の「南西諸島警備要領」により第32軍の方針が住民の安全地帯への避難であったことが判明し「軍官民の共生共死ー軍命論」も崩れ去ってしまった。⇒死語となった「軍官民の共生共死」と「タテの構造の強制死」
さー、残る唯一の軍命の根拠が「戦陣訓ー軍命論」である。
特にNHKは「戦陣訓ー軍命論」にしつこくこだわり、繰り返し渡嘉敷島取材の特集番組を組み、強引に「戦陣訓が軍命であった」というウソの報道を流した。
「戦陣訓」が当時の軍人はおろか一般住民にまで周知徹底されていたという神話が、戦後28年経って戦地より帰国した横井庄一さんの「恥ずかしながら」の第一声以後、日本国中に流布した神話であることを知る人は少ない。
【東京】高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)検定問題で、訂正申請を出した教科書出版社6社に対し、教科用図書検定調査審議会が「集団自決」の背景にある複合的要素を詳しく記述するよう求める「指針」を示した件で、1社が軍人や住民に対し捕虜となることを禁じた「戦陣訓」を追記し、再申請する方針であることが分かった。
「戦陣訓」は1941年1月に東條英機陸軍大臣が全陸軍に通達した訓諭。この中で「生きて虜囚の辱めを受けず」として、軍人が捕虜となることを禁じた。沖縄戦において「戦陣訓」は住民にも浸透していた。戦前の皇民化教育や沖縄守備軍・第32軍の「軍官民共生共死」方針とともに、「集団自決」を引き起こした要因とされている。(略)
(琉球新報 12/9 )
◇
先日、テレビドラマで松本清張の「点と線」を見た。
若い頃小説で読んだが、時代があまりにも変りすぎて、特にアリバイ崩しが売り物の小説をテレビドラマ化することの難しさを感じた。
「点と線」というタイトルは、点と点を結ぶと線になり、線が交差すると面になるが、松本清張は点と言う事実をつなぎ合わせてそこから導き出される刑事の推理の象徴として「点と線」という当時としても秀逸なタイトルを思いついたものと推測する。
「歴史事実」という一つの「点」を、解釈の余地を残さない一つのセグメントの事だと解釈すると、「歴史事実」を線でつなぎ合わせて、面を造り、そして「歴史認識」が生まれる。
「歴史認識」とは「歴史事実」を積み上げた「歴史に対する解釈」あるいは「事実と事実を結びつける解釈」だと考えられる。
当然、「解釈」には理解も有れば誤解もありうるし、中国の歴史認識と日本の歴史認識が違っても不思議ではない。
>「戦陣訓」は1941年1月に東條英機陸軍大臣が全陸軍に通達した訓諭。
1941年に東条英機が「戦陣訓」を陸軍に通達したことは、紛れも無い「歴史事実」であり歴史上の「点」である。
これに対して、「戦陣訓は兵隊に周知徹底されていた」と思い込んでしまうのが、「歴史認識」でしばしば後世の人の「誤解」を呼ぶ。
ところが、この「誤解」に更なる「誤解」が重なると、「戦陣訓は沖縄では兵隊のみならず民間住民にも周知徹底されていた」という大きな歴史の過ちに陥っていく。
そして、「誤解した歴史認識」を更なる誤解によって複数接続すると、「戦死者があんなに多く出たのは、戦陣訓のせいだ」とか、「集団自決は戦陣訓のせいだ」という“物語”が出来上がって来る。
*
◆「恥ずかしながら生きて帰りました」
終戦を知らずグアム島で28年間潜んでいた日本兵横井正一軍曹が日本に着いた時の第一声がこの言葉だった。
この言葉はその年の流行語にもなった。
「恥ずかしながら」という言葉は国民に向って発せられたが、深層心理学的に言うとグアムで戦死した戦友たちへ向っての「恥ずかしさ」と「申し訳なさ」だった推察出来る。
◆その2年後、今度はフィリピン・ルバング島から小野田寛郎少尉が30年振りに帰国した。
小野田少尉が天皇陛下との面談も断って彼が真っ先に行った行動は、
靖国神社への参拝であり戦死した部下・戦友の墓参りだった。
横井氏のような流行語は発しなかったが小野田も靖国参拝の時や、戦友の墓参りの時の心境は、同じく「恥ずかしながら」と「申し訳ない」の心境だったろうと想像できる。
横井軍曹が帰国し、仲間が全員戦死したにもかからず唯一人生き残った複雑な心境を「恥ずかしながら・・・」という言葉で表し、それを聞いたマスコミが生きのびた理由を「生きて虜囚の・・・」のせいに勝手に転嫁し「戦陣訓」の神話を作り上げた。
「戦陣訓」の神話は沖縄戦の左翼学者達によってさらなる「戦陣訓・軍命説」へと捏造されていった。(続く)
★【付記】1:
『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏が、『正論』12月号に集団自決関連の論文を寄稿しています。
ご注目ください!
「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった
――沖縄集団自決の真実と謎
沖縄文化協会会長●星 雅彦
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