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先日、久しぶりに沖縄の怪人上原正稔さんと那覇地裁近くの「じょいふる」で会食をした。
上原さんが、県が刊行した「沖縄戦史」批判の執筆を開始したと聞き、執筆中の陣中見舞いの意味もあった。
上原さんは琉球新報に連載中の「沖縄戦史「パンドラの箱が開くとき」を執筆中、「集団自決は軍の命令ではない」と記述した箇所が琉球新報の「社の方針に合わない」という理由で削除され、それを不服として新報を提訴し勝訴した人物である。
ねつ造報道で悪名高い沖縄2紙は、「集団自決は残虐非道な日本軍の命令による」という立場。
長年「集団自決・軍命説」を批判してきた当日記は、当然沖縄2紙やその御用学者の批判をしてきた。
ここらで「集団自決」のカテゴリーで400件以上も書いてきた当日記も、過去ブログを検証し集団自決問題を振り返って見ようと思う。
以下はは過去ブログ
集団自決のネタ本「鉄の暴風」のデタラメな内容!2018-03-18 を一部編集した引用である。 ≪自らの思想と言論に責任を持ち、間違っていたら、きちんとそれを認め、出来る限りの事をする、こういう姿勢を、Intellectual Honesty(知的誠実さ)と呼ぶ。知的誠実さに欠ける人間は、自分の思想的誤りを自分に対しても
ごまかしてしまうため、いつまで経っても、その思想が深化しない。
同じ過ちを何度でも繰り返す。国際派日本人として活躍するために
は、Intellectual Honesty が、不可欠の資質である。≫
(引用:国際派日本人講座http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog008.htm)
◇
沖縄戦の「集団自決」をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。
この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。
『鉄の暴風』は初版は1950年に沖縄タイムス編著、朝日新聞社で出版された。
因みに当時、朝日新聞の沖縄事務所は沖縄タイムスの社屋内にあり、その後初版の内容のままで第8版まで沖縄タイムス社が出版した。
その「鉄の暴風」の中、で慶良間諸島の座間味島、渡嘉敷島の守備隊長であった「赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きた」と書かれたことが戦後60年に渡り様様な問題を残していく。
この記述は、その後沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。
「鉄の暴風」では「集団自決」を次のように表現している。
≪恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた≫
≪住民には自決用として、三十二発の手榴(しゅりゅう)弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。…阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた≫
≪座間味島駐屯の将兵は約一千余、…隊長は梅沢少佐…。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した≫
疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。
座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。
★初版より30年後の1980年、沖縄タイムスは「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り(改訂版の序文)」の部分を削除した改訂版を発行した。
「軍命令による集団自決」と言う誤報はどんどん一人歩きを始める。
「強制連行された従軍慰安婦」と全く同じパターンで教科書にまで載るようになり、沖縄では「日本軍の住民虐殺」のシンボルになっている。
この本をネタ本にして、その頃数多くの「沖縄戦モノ」が出版された。
その中にノーベル文学賞作家大江健三郎の「沖縄ノート」(岩波新書)があった。
が、「沖縄ノート」はタネ本の「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り」を削除したにもかかわらず、その「明らかな事実の誤り」を訂正する事無く依然として現在でも販売されている。
大江氏が沖縄戦に於ける日本軍の責任の象徴として取り上げたのが、「鉄の暴風」の中で述べられている 『渡嘉敷島の集団自決』だった。
この話を概略説明しよう。
終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件だ。
当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130 人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていた。
3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものだ。
自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊だったから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっておる。
10数冊余のこれら沖縄戦の著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現した。
当時の資料を列挙すると、1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』3)渡嘉敷村、座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著)6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦)7)琉球政府『沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著)8)岩波書店『沖縄ノート』(大江健三郎著)9)平凡社『悲劇の沖縄戦』「太陽」(浦崎純著)
◇
しつこいようだが、もう一度繰り返そう。
初版より30年後の1980年、今から26年前、沖縄タイムスは「鉄の暴風」の「明らかな事実の誤り(改訂版の序文)」の部分として「軍命令による集団自決」の部分を削除した改訂版を発行した。
しかし30年間も一人歩きをした「誤報」はその歩みを止めることは無い。
沖縄戦で「アメリカ軍は解放軍で日本軍は住民虐殺軍」というスタンスで論調を展開する地元メディアにとって「軍命令による集団自決」何が何でも死守しなければならない大命題である。
地元学者を総動員して論点をぼかして沖縄の「世論」の押さえ込みに大童。
事実、それが教科書にまで載ってしまうと、地元沖縄在住の人達でさえ「軍命令による集団自決」が誤報であったことを知っている人は少数派であろうし、それを声高に主張する「勇気」のある人は更に少数派か皆無に近い。
地元メディアはすでに「軍命令があったかどうか」は問題でないとか、「集団自決」ではなく「集団死」だとか、「集団死したことが問題」だとかを主張する学者達の意見を掲載している。
「集団自決」問題は当初の論点からどんどん外れ議論は混迷の様相を呈している。
中には「軍命令が無かった」と言う証拠を示せと言う暴論を吐く人さえいた。
これを世間では「悪魔の証明」と言う。
悪魔でさえも証明は不可能である。
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