沖縄県史、特に「沖縄戦史」を検証している県民としては喜ぶべきことだが、執筆者の名をみて驚いた。
ある程度の予想はしていたが、これでは特定団体の代弁者というより、沖縄2紙に頻繁に登場する御用学者のオンパレードではないか。
これでは、沖縄2紙の「社の方針」に反する執筆者は除外されることになる。
県史という公的刊行物の権威が、沖縄2紙のイデオロギーに染まった「沖縄戦」にお墨付きを与えることになる。
販売用の300部は、すでに完売で、沖縄県内の小中高等学校、各市町村立図書館等、及び沖縄県外の各都道府県立図書館等に、5月中に配送が完了する予定ですので、そちらでご覧可能とのこと。
そのイデオロギーの染み込んだ執筆者がシンポジウムを開いた。
「沖縄戦研究の集大成」 新しい沖縄県史の意義を確認 平和教育や市町村史の活用に期待 県史沖縄戦シンポジウム新旧の沖縄戦研究を網羅した県史「各論編6 沖縄戦」の刊行記念シンポジウム「『沖縄戦』を語る」(主催・県教育委員会)が28日、県立博物館・美術館で開かれた。執筆に関わった研究者が登壇し、「沖縄戦研究の集大成」と評価の高い新県史の活用方法や、研究課題について意見を交わした。
拡大する沖縄戦研究の展望などについて報告するパネリストら=28日、那覇市の県立美術館・博物館
沖縄戦の県史発刊は1974年発行の「沖縄戦記録2」以来、43年ぶり。旧県史は沖縄戦を体験した住民や、戦地・地域で中核を担った責任者の証言を掲載し、それまで軍事作戦中心の研究から「住民視点」に転換する契機になった。
新県史は、戦争体験者が減少する中、日米の基礎資料や各市町村史の証言記録を収集。「障がい者」「戦争トラウマ」「ハンセン病」など近年の研究成果も取り上げ、5部17章72節という多方面で沖縄戦を記録した。
基調講演で、県史沖縄戦専門部会の部会長を務めた吉浜忍沖国大教授は「体験者が減る中、沖縄戦関連本は現在も発行を続ける。沖縄の社会問題の根幹には沖縄戦があり、現在進行形の課題だ」と指摘した。
部会委員の林博史関東学院大教授は「若手や本土出身研究者が労作を生みだした。体験者の聞き取りは最後のチャンス。組織的に集め、証言を共有する仕組みづくりが必要」と訴えた。
パネルディスカッションでは中堅・若手の研究者4人が登壇し、「秘密戦」「日本軍慰安所」「戦時撃沈船舶」など、近年明らかになった分野を発表した。
来場者を交えた総括討論では、新県史の活用について議論を交わし、パネリストらは「平和教育の教材づくりに役立てて」「新県史を参考に、各市町村の戦史を更新してほしい」などと要望した。
新県史はB5判で全824ページ。1500部を発刊し一般向けは完売した。
☆ 以下は筆者が世界日報に寄稿した県史「沖縄戦」への批判文である。 沖縄県史「沖縄戦」に疑問を呈す《 沖 縄 時 評 》
監修者は沖縄2紙、左翼学者で固めた執筆陣
「沖縄戦」は琉球新報と沖縄タイムスの2紙にとって「宝の山」である。1年を通して「沖縄戦」の記事がない月はほとんどない。
主な「宝の山」は以下の通りだ。
3月 慶良間島の「集団自決」
4月 「屈辱の日」
5月 祖国復帰
6月 「慰霊の日」
8月 「終戦記念日」
9月 「9・29検定意見撤回集会」(人数を水増しした「11万人」集会
10月 「那覇10・10空襲」
ちなみに4月の「屈辱の日」とは、1952年4月28日の日米サンフランシスコ講和条約発効の日を「屈辱の日」と称して「昭和天皇の“天皇メッセージ”が沖縄を米国に売り渡した」などと、事実を捻(ね)じ曲げた反戦キャンペーンを指す。
◆43年ぶりに県史発刊
このように決まった月の定期的な「宝の山」の他にも、その月の話題に応じて適時「沖縄戦」特集が組まれる。最近の例では、沖縄タイムスの5月22日付の子供向け新聞「ワラビー」が、通常の倍の量の16ページの「沖縄戦を学ぼう特別版」で「沖縄戦」を扱っている。
そんな沖縄2紙の状況を反映するように、3月30日付沖縄タイムスの1面トップに「県史『沖縄戦』43年ぶり」の大見出しが躍った。記事によると、沖縄県教育委員会が、「沖縄県史各論編6 沖縄戦」を刊行し、29日に県教育庁で記者会見が行われた。
会見で新沖縄県史編集専門部会(沖縄戦)部会長の吉浜忍・沖縄国際大教授は「現時点での沖縄戦研究の集大成だ」と述べた。吉浜氏は早速、5月25日付沖縄タイムスに「旧県史から新県史へ」と題する論文を2回に分けて寄稿している。その中で、大江・岩波「集団自決」訴訟の争点になった「集団自決」について、次のように述べている。
<「集団自決」の表記については、日本軍の強制・関与などの「集団自決」の本質を踏まえた説明を前提として、「集団自決」「強制集団死」というような両方併記にした。>
この部分を読んだだけで県史「沖縄戦」が特定のイデオロギーの基に書かれていることが分かる。
県史の監修者は、吉浜氏の上に沖縄2紙が事実上の監修者として目を光らせていることになる。
これは単なる皮肉ではない。吉浜氏を筆頭に37人の執筆者のほとんどが沖縄2紙の「御用学者」であり、「沖縄戦」を寄稿する時は、(両紙の)「社の方針」に従わねばならないからだ。それに従わずに掲載を拒否された例がある。琉球新報に長期連載戦記「パンドラの箱を開ける時」を執筆した上原正稔氏は「慶良間で何があったか」の部分で「集団自決に軍命はなかった」と結論付けたため、琉球新報の「社の方針」に合わないとして書き換えを要求され、該当部分は本人に無断で削除されている。
さらに沖縄2紙は、「集団自決」の表記については「社の方針」として、「集団自決」(強制集団死)という表記で統一し報道している。つまり「集団自決は軍命による」という両紙の「社の方針」が県史「沖縄戦」の編集に大きく影響を与えている。
「集団自決」の表記を見て、ある程度の予測はできたが、実際に37人の執筆者名を見て驚いた。執筆者のほとんどが左翼学者の集団、というより大江・岩波「集団自決」訴訟で、「軍命あり」を主張した被告側の学者と、その応援団ではないか。県史の「集団自決」を記述した第4部、第3節(516ページ)を見ると、前述の「強制集団死」の併記どころか、タイトルは「強制された『集団自決』『強制された集団死』」(林博史氏執筆)となっている。関東学院大学教授の林氏は、大江・岩波「集団自決」冤罪(えんざい)訴訟でも立証できなかった「軍命」を、「強制された『集団自決』」と自分の恣意的判断で認めているではないか。裁判でも立証できず、文科省の検定意見でも削除対象の「軍命」について、林氏はあたかも軍による強制で「集団自決」が行われたかのような恣意的判断をしているのだ。これで県史の執筆者として妥当なのか疑わざるを得ない。
◆「新資料」わざと誤訳
林氏は県史の合計71節(項目のこと)のうち9節の執筆を担当している。林氏は沖縄2紙では「集団自決」論争の専門家として有名人であり、頻繁に米軍公文書館から「軍命の証拠」なる資料を発見したとされている。だが、数々の「新資料発見」にもかかわらず、客観的に「軍命」を証明する資料は一例も無く、大江・岩波裁判でも全て法廷で否定されている。林氏の数多くの奇妙な「新発見資料」の中で一つだけ例を挙げよう。
林氏は米公文書館から「日本兵が命令した」という文書を発見したと主張したが、英文で、「soldiers told」(兵隊が言った)というくだりが、林教授の翻訳にかかると「軍が命令した」(commanded)となるから驚きである。実はここで「soldiers」とあるのは、「兵隊」ではなく民間人の防衛隊員が軍服に似たキャップを被(かぶ)っているのを米兵が兵隊(軍人)と勘違いしたものであり、「話した(told)」という普通の会話を軍人用語の「命令した(commanded)」などと故意に誤訳している。
このお方、米軍資料を鵜(う)呑(の)みならまだしも、意図的誤訳を付けて新聞発表するほど手の込んだことをする人物である。林氏の他に、沖縄2紙に迎合する人物として、前述の吉浜氏と女性史研究家の宮城晴美氏について言及してみよう。
座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決のたった1人の生き残り宮城初江さん(晴美氏の母親)によってもたらされた。座間味村の女子青年団のリーダーだった初江さんは、米軍が座間味島に上陸する前日の1945年3月25日、野村正次郎村長ら村の幹部数人と共に、梅澤裕守備隊長(少佐)のいる本部壕を訪ねている。そこで、宮里助役らは、梅澤隊長に自決用の弾薬や手榴弾(しゅりゅうだん)、毒薬などの提供を求めたが、梅澤隊長は弾薬類の提供を拒否している。初枝さんは戦後、援護法の関係で「軍命」があったことにした方が集団自決の遺族に有利だと村の長老に言われ、軍命が有ったと証言していた。
初枝さんは病死する直前、軍命は「援護金」のためのウソの証言であったことを一冊のノートにつづり、娘の晴美氏に託した。戦後生まれの晴美氏が母の遺言を基に「母の遺(のこ)したもの」(2000年12月)を出版することにより、従来の「定説」は逆転する。同書には母の遺言通り「隊長命令はなかった」と明記されており、同書の発行により「集団自決に軍命は無かった」ことが新たな「定説」となった。
吉浜教授は2000年12月24日付の琉球新報に「母の遺したもの」の書評を書いている。その中で、専門家の立場から「定説」を補強した。その後「母の遺したもの」が沖縄タイムス01年の出版文化賞を受賞することにより、学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる「定説」となった。座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知された瞬間だ。
ところが05年、梅澤氏らにより大江・岩波「集団自決」訴訟が提訴される。提訴と同時に晴美氏は態度を一変、母の遺言を踏みにじり被告側の証言台に立ち、「軍命はあった」と証言する。
さらに晴美氏は08年「新版・母の遺したもの」を出版し、「定説」を翻して「軍命はあった」と明記した。つまり「集団自決」の「定説」は05年の「集団自決冤罪訴訟」、および『新版・母の遺したもの』の出版により再び揺らぎ、「隊長命令はあった」と2000年以前の「定説」に逆戻りする。
◆変わる「定説」に翻弄
新聞に登場する「定説」の変化に従って研究者達の「定説」も次々と論旨を変えてくる。例えば沖縄タイムスや新報の「書評」で「母の遺したもの」は「『定説』とは違う真相を語る―隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりが典型だ。
沖縄では、新聞がつくる「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりからうかがえる。沖縄戦の専門家の吉浜氏は、変わる女心に翻弄(ほんろう)される浮気男のように、次々と自分の「定説」を変えていった。今回の県史の発刊に当たり、晴美氏や林氏、吉浜氏のように「定説」をクルクル変える無節操な人物が執筆してもよいのだろうか。
嘘(うそ)の証言でもいったん、県史のような公的出版物となると、そこに記された「定説」に県や沖縄2紙がお墨付きを与えたことになる。
かつて沖縄2紙は「沖縄の民意はわれわれがつくる」と豪語した。サヨク集団の執筆者で固めた県史「沖縄戦」の発刊に重大な影響力を持つ沖縄2紙。「沖縄の民意」はともかく、「沖縄戦」の史実まで沖縄2紙がつくってよいものだろうか。
疑問に満ちた今回の県史「沖縄戦」の発刊である。
(コラムニスト 江崎 孝)